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 海の底の底、色鮮やかな珊瑚や貝殻、光り輝く真珠の世界に、それら全てを掻き集めたよりもなお美しい人魚が暮らしていました。
 人魚はこの海底世界において最も知的で、そして二番目に権勢を誇る種族です。美しい人魚は名を瀬人といい、賢い人魚たちの中でも取り分け知識欲が強いのでした。
「あぁ、この海底の知識という知識は既に知り尽くしてしまった。海の上、陸というところには、まだあり余るほどの知識が存在するというが、どうにかしてそれを知ることはできないだろうか?」
 毎日、瀬人はそのことを考えていました。いつしか、瀬人が陸の知識に焦がれているということは全ての海の生きものの知るところになりました。
「ああ、危なっかしくて見ていられませんわ。あの様子は、かつて愚鈍な人間を愛したばかりに泡と消えた人魚族の姫が、海を飛び出すその前に見せていた態度そのものではありませんか」
 一匹のクマノミが丸い尾びれを震わせながら囁くと、辺りの磯巾着が同意するように触手を揺らします。
「本当に、どうなってしまわれるのだろうか? 人間を愛し地上に行くのならまだ命助かる可能性もあられようが、知識に恋焦がれて陸にとなると」
 瀬人の住まう海底洞窟の周りには、そうして心配する海の生きものたちが幾らか集まってきていました。中には、時折海の底まで沈んでくる地上の品物やそれを模したものを持ってきて、どうにか地上への興味を海の底で満足させようとするものもいます。そして、今もまた、そういうものが瀬人の洞窟に向かってきていました。
「まぁ! 磯巾着さん、あれをご覧になって」
 クマノミが触手の影に隠れました。あれを、と言われた方を見、磯巾着も慌てて触手を護りの形に固めます。岩場の影から、ヒトデが顔を出していました。
「あ、ちょっと、待ってよ! ボクだよボク!」
 現れたヒトデがクマノミと磯巾着に呼び掛けます。聞き覚えのある声に、恐る恐る、磯巾着は触手の緊張を緩めました。
「もう、いい加減にヒトデを怖がるのやめてよね。ボクたちすっごく我慢して有機粒子ばっかり食べてるのにさぁ」
 ヒトデは肉食です。おまけに天敵も少なく、更に万が一身体の半分を持っていかれても再生できるほどの生命力で、少し前、今の王が心を入れ替えるまでは、この海底世界にその性質を振り翳した恐怖政治を敷いていました。
 人魚は海の底で二番目に権勢を誇る種族です。一番は、皆が恐れるが故にヒトデ族なのでした。
「最近は海の生きものを食べるヒトデなんていなくなったでしょ? もう一人のボクが色惚けだなんだ言うのを片っ端から粛清したお蔭で」
 さらりと恐ろしい単語を言ってのけたのは、そのヒトデ族の中でも随分と偉い、親王の位を持つものでした。彼の言うもう一人のボクと言うのがヒトデの王で、即ち、この海底世界の統治者です。
「皆、もうちょっと友好的になってよね。発端が色惚けといえ、今じゃヒトデ族を挙げて他の種族と仲良くしたいって思ってるんだから」
「は、はぁ、私どもも段々慣れては来たのですが……ところで、ヒトデの親王ともあろう方が、今日はどのようなご用件で?」
「あ、そうだ、それそれ。海馬君はいる?」
 海馬というのは瀬人の通り名です。腰の周りの鰭がまるで龍の落とし子のように刺々しいからと、実際瀬人は龍の落とし子系の人魚なのですが、誰かが呼び始め、今や海の生きものの半数ほどが彼をそう呼ぶよう