You're truly beautiful.
2006/7/31


 自分の人生は極一時期を除けば恵まれたものであると思う。輝かしいものは全て貴方に与えてもらった。富も名声も権力も、全てを貴方は与えてくれた。ただ一つを除いて。


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「就任式についてはこれでいいか?」
「うん。けど、兄サマは本当にそれでいいの? 引退なんて、まだしなくてもいいでしょう」
 一ヶ月後、オレは兄に代わって海馬コーポレーションの社長となる。オレは一ヶ月後に二十歳になる。兄が養父を蹴落とした年と比べると随分遅い。
「嫌なのか?」
「違う。そうじゃない。だけど、兄サマが得た兄サマのための地位でしょう」
 兄は十五の誕生日に社長の椅子を勝ち取った。今も兄が座っているその椅子の代価は一生残るトラウマだった。オレはその椅子を何の代償も無しに譲り受けることに決まっている。
「十年居座れば十分だ。オレに経営は向いてなかった」
「そんなこと」
「無いと言えるか? 経営はお前の方が向いているだろう」
 それは確かにそうかもしれない。兄はその身を切り売りする他に交渉を円滑に進める術を持たない人だった。知っていた。だからこそ早期の引退を望んだのだということも。
「……兄サマがいいなら、オレに異存は無いよ」
「なら、就任式についてはこれで決定だ」
 兄は就任式の予定が書かれた書類を纏めて机上でトントンと端を揃えた。紙の束を持つ兄の細く白い指の一本には白金の指輪が嵌められている。
「出掛けるの?」
「ん? あぁ、よく分かったな」
「だって、指輪してるから」
 仕事の時には外しているそれは、とても細い、飾り気の無い、安物の、それでも兄が大切にしている、兄の恋人によって贈られた指輪だ。
「城之内に宜しく言っといて。最近会えてないからさ」
 左手の薬指に光る指輪は、つい先日、兄が内輪で引退を表明した直後に、案外ロマンティストだった兄の恋人が贈った時からプライベート時には必ずそこにある。オレは兄の分しか実際には見ていないが、ペアリングであるらしい。喜んで付ける辺り兄も大概ロマンティストだ。
「デート何時から?」
「こっちが片付いたら連絡すると言ってある」
「あとオレが片付けるから行って来なよ。待ってるんじゃない?」
「あぁ……すまないな」
 紙の束を受け取る。偶然に触れた白金の指輪は兄の体温よりも冷たかった。
 今日は日曜日だから本当なら朝から一緒に居られる予定だった筈だ。昨日上がって来る筈だった就任式のタイムテーブルが遅れなければ。
 昔からこういう風に予定が狂うことは多かったに違いない。兄は何でも自分でしなければ気が済まない人だったから、暇というものは滅多に無かった。有能な部下、信頼できるコンピューターシステム、そういうものに頼ることを覚えたならもっと楽に仕事をしていられただろうに。
 兄は引退すると決めた最後の日までオレを頼ることも無いだろう。結局、あんなに願ったにも拘らず、自分では兄の微笑みを取り戻せなかった。
 構わないのだけれど。それを取り戻したのが誰であっても、兄が笑っていれば、オレはそれで構わないのだけれど。


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 オレには前途洋々、順風漫歩の人生が約束されている。全ては貴方がその身を削って、何年も掛けて用意したものだ。一時は悪魔の化身のような男たちにその身を捧げてまで用意したものだ。その手を直接的に、或いは間接的に血に染め、心を病んでまで用意したものだ。
 貴方には感謝している。だからこそ、オレは何も言わないと決めたのだ。

 この想いは限りなく純愛に近いと思う。

 貴方が久方振りに幸せそうな笑みを零した時、本当に、本気で、そこに天使が舞い降りたかと思ったのだ。あの時は、それから暫くの間寝付きが悪くなって困った。思い出す。そして羨む。貴方にそんな幸せそうな顔をさせることができた人間を。
 貴方があの時笑い掛けてくれたのはオレだけれど、その表情をさせたのはオレではなかった。貴方の隣に居た柄の悪いヤンキー崩れの男。どうしてそこに、と思わなかったわけじゃない。だけど、見た目に反して真摯なその性格を知らないわけでもなかった。
 毎晩考えた。どうすれば自分が貴方にあんな安らかな、全ての苦難を忘れたかのような表情をさせることができるのか。けれど考えて解ったのはオレにその安らぎを与えることは不可能だということだけだった。
 護られるものから護るものへ変化することの、なんと困難なことか。


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「この近くに、いい物件って無いかな」
 就任式は兄の意向によって華々しく盛大に執り行われることになっている。会場となる兄の私有ドームを下見しようと本社から移動する途中、助手席に座るかつて兄の部下であり今は自分の部下となった男に問い掛けた。
「この近くですか?」
「うん。知らない? 磯野」
 ハンドルを切りながら片手間に会話を続ける。運転は好きだ。兄は人に運転させて自分は助手席なり後部座席なりで優雅に座っているタイプだったから、何度か兄を乗せて走る機会もあった。そんな時には知らず気分が高揚して、事故を起こさないようにとそればかりで頭が一杯だった。
「屋敷を出られるおつもりですか」
「どうしようかなぁ、って。新婚家庭に割り込みたくないし」
 磯野はサングラスの下で、多分、遠い目をした。長く兄に仕えていた分、複雑な気持ちは人一倍だろう。兄のその性癖は幼い頃にすでに形成されていたようだから、それについては今更思うことも無かっただろうけれども。
「私はその日が来たら泣くかもしれませんよ」
「……父親みたい」
 近々、兄たちは身内と親しい人々にのみ、その関係を告白した上でささやかな食事会か何かを開くつもりであるらしい。そのあとは同居予定であるというのだから、事実上の結婚式みたいなものだ。誰も来てくれないかもしれないと二人して言っているようだが、恐らくそんなことは無いだろう。二人の共通の友人は、皆懐が広い、言い換えれば些細なことは気にしない、むしろ大きなことでも大して気にしない人たちばかりだ。身内も、二人が身内と認める身内はそうだろう。
「兄サマたちがどこかに新居を構えるって言うんならそれでいいけど、そうじゃないならお邪魔虫は嫌だしね」
「……しかし、屋敷は元よりお邪魔虫だらけかと……」
「それもそうか。じゃあやっぱり兄サマたちの方が出て行くのかなぁ」
 いっそこの町を離れて一般人のように、或いは楽隠居のように暮らすのもありなのかもしれない。決めるのは兄たちであるし、どういう決定が為されたとしてもそれを認める気はある。
 ただ、オレはその間には入り込めないしそうする気も無いというだけで。


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 信号待ちの時にふと横窓から外を眺めてみた。人で溢れ返る休日の歩道は活気に満ちていた。カップル、親子連れ、幾人かのグループ、そういう人々の中に混ざって貴方の顔を見付けてしまった。どんなに混雑した場所でも、貴方の周りだけはまるでスポットライトが当たった場所のようにはっきりと認識できる。

 貴方は美しい人。周りの空気を変えるほどに。
 本当に、本当に美しい人。貴方が以前のように笑うようになって、初めてそれを知った。
 目を引く美しさに貴方を見付けてしまって、けれど、どうしていいのか判らない。オレには貴方に声を掛けることができない。貴方の隣を歩く人のその指に、貴方と同じその位置に、貴方と同じ指輪が光っている。
 オレは、この先二度と貴方の傍には居られない。貴方の傍に居るべきは今貴方の隣を歩くその男だから。オレが好きなのは貴方の幸せそうなその表情。それをさせるのはオレじゃないから。

 愛してしまったのが間違いなのだと、オレは知っているから。


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「あ、今目が合ったかも」
「は?」
「そこにね、兄サマが居たんだ」
 信号が青になった瞬間の出来事だったから、確認する間も無く擦れ違ってしまったけれど。
「兄サマの目って何で青いんだろ」
「私は存じ上げませんが。モクバ様でもご存じないのですか?」
「聞いたこと無いから。親のこともあんまり覚えてないし、遺伝なのかも知らない」
 聞けば教えてくれるかもしれない。けれど、あまりにも兄と似ていない自分の容姿に、それを聞くのが躊躇われた。弟であることは最後の砦なのだ。恋人のように愛されることは随分前に諦めた。それでも、それはせめて血の繋がった兄弟として愛されるだけでもと、条件を付けて漸く諦めた想いなのだ。
 もしそれまでもが否定されたなら、オレはいったいどうすればいいというのか。
「あの目って、どこ見てるか凄い解り易いよね。瞳孔の開き具合とかで大体何考えてるかも解るし」
 一般的日本人の黒い瞳と違って兄の青い瞳は中心とその周りの色の違いが激しい。あまり感情を言葉にしない兄の心を知るために、兄の恋人となった男は始終その瞳を覗き込んでいた。退屈していないか、自分の差し出したものが喜ばれているか、もっと言えば自分と居てどう思っているのか。全て瞳に聞いていた。
 オレはその現場を見てはいないけど、あの白金の指輪を差し出された時、兄はいつもに増してその瞳孔を大きく開き言葉以上の喜びを語っただろう。
 いつだって二人で居るときの兄の瞳は普段より黒目が大きく見えた。目の前のものを必死で見ているようで、そんな目を向けられる彼に嫉妬した。


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 さっき貴方を見付けた時、オレの瞳も瞳孔を大きく開いていたに違いない。幸いかどうか、オレの瞳は貴方と違って墨のように黒いから、他人に感付かれはしないけど。
 だけど、貴方は気付くのだろう。貴方と目が合う度に動悸を覚えるほど高揚しているオレの気持ちに。もしも、貴方の隣を歩いているのがオレだったなら。
 仮定の話だ。それは決して実現しない。
 貴方をそんな風に見ようとはもう思わない。恋人のように愛されることはもう諦めた。その代わり、二人切りの兄弟として、それなら血の繋がりがリセットされる最期の瞬間までの時間を、貴方と共有しても構わないでしょう。


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「兄サマって美人だよね」
「……否定はしませんが」
 男に使う形容詞ではないかもしれない。けれどもそれは真実の前では些細なことだ。
「偶に、本当に血が繋がってるのかって思うよ」
「片親ずつに似たのでしょう」
「そうかもね。……兄サマと同じ顔に生まれたかったなぁ。別に美人になりたかったわけじゃないけど、そうしたら離れてても兄弟だってすぐ判るのに」
 一緒にはもう居られないから、せめて血の繋がりだけは記憶から消さないで。オレたちを知る全ての人に対してそう思う。
「あーあー、淋しいなぁ。マリッジブルーでも何でもなって、城之内のところにお嫁に行くのやめてくれないかなぁ」
「お嫁、ですか」
「戸籍は弄らないって行ってたけど。事実上はそういうことでしょ」
「確かにそうですが……」
 お嫁という言葉に抵抗があるのか磯野はムム、と小さく唸った。
「やめるって言い出さないかなぁ。どうだろ」
「私には予測しかねます……ですが、まあ、もしそんなことになったらなったで、モクバ様は全力で瀬人様を慰め、説得し、城之内様のところへ送り出すのでしょう」
 きっとその通りになるだろうと思う。オレは何も言わないと決めたのだから。オレは兄を、兄を幸せにしてくれる人に、オレじゃないその人に、任せると決めたのだから。
「……オレが説得しなくたって、どうせ磯野が説得するんだ」
「私はしませんよ。瀬人様が誰のところにも行かれないというのなら、その方がいいに決まってます」
「それって、本当に父親みたいだぜぃ……」


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 貴方は美しい人。
 本当に、本当に美しい人。
 気付いた時、貴方の隣にはすでに別の人が居た。居たのは事実だけれども、その言い方は適切でないかもしれない。言い換えよう。貴方の隣に彼が居るようになって、貴方は本当に美しい人になった。
 貴方が幸せそうに笑うから、オレは何も言わないと決めたのだ。貴方のその顔を曇らせたくないから、何も言わないと決めたのだ。貴方に幸福を与えるのはオレの役目じゃないのだと悟ったから、貴方の愛した人にその役目を任せることにしたのだ。
 雑踏の中貴方の手を引いて歩くのはオレじゃない。解ってる。それは貴方の指にあるのと同じ指輪を持つ人の役目だ。

 墓場まで持って行く。この想いは、決して言葉にしない。例えそこに自分しか居なくても、独り言としても決して言葉にしない。言葉にしたらきっと溢れてしまう。抑えられなくなる。だから、決して言葉にしない。貴方の顔を曇らせないためにも、決して言葉にしない。
 それが、貴方を愛してしまったオレにできることだ。


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「……ねぇ、磯野は天使って居ると思う?」
「天使ですか?」
「そう」
 唐突な質問にも磯野は真面目に答を探している。尤も、唐突な言動には兄で慣れているからそうなのかもしれないが。
「……私には居るとも居ないとも断言しかねますな。モクバ様の見解は如何です?」
「オレはねぇ……」
 あの日久方振りに見た貴方の笑顔は。
「オレはねぇ、見たことあるよ。城之内の横に居たんだ」
「城之内様に憑いてたんですか?」
 その言い方じゃどこか幽霊みたいだと思わないでもないけど。
「うん。横に居た。だから、兄サマたちは絶対幸せになれるよ。だって、天使がついてるんだもの」
 

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 天使とは美しいものなのでしょう。だったらオレは貴方以上に美しい人なんて知らないから。
 この世の幸せを集めたかのようなとてもとても美しい微笑みを貴方が零した時、本当に、本気で、そこに居るのは天使に違いないと思ったのだ。
 貴方は美しい人。綺麗なものを集めて作られたみたいに、本当に本当に美しい人。
 貴方が久方振りに幸せそうな微笑みを見せた時、貴方と一緒に居るのがこの先もずっと自分であればいいと思った。
 けれどそれが実現する時が来たとしたら、その時オレは貴方の傍から去るでしょう。貴方がオレを選ぶ時、貴方はあんな風に幸せそうには笑わないでしょう。それはオレの愛した貴方じゃないから。
 貴方は、貴方を幸せにしてくれる人を見付けたのだから、その人と幸せになって下さい。

 貴方が幸せならオレはそれを邪魔しないと決めたのだ。
 貴方はただ一つを除いて全てを与えてくれた。富も名声も権力も、輝かしいものは全て与えてくれた。
 貴方を愛してしまったオレには、この想いを殺す他に貴方に報いる方法が見付からない。傍に居て何かを返すことはもうできない。傍に居れば、いずれこの想いを抑え切れなくなるだろう。

 貴方がただ一つ与えてくれなかったものの名を恋情という。


the finis.

 原稿中のBGMはJames BluntのYou're Beautifulで。大体こういう感じの歌詞です。兄弟じゃないですけど。そこはモク瀬人脚色。
 こういう話って読んでいてどうなんでしょうか。気が滅入るかもしれない。城海好きなら大丈夫でしょうか。モク瀬人好きには申し訳ないです。