秋の頃
2006/8/12


 夏休みも終わり秋の頃になると、殆どの生徒が卒業後の進路を決めている。休み前には夢見がちなことを言っていた生徒たちも、現実に向き合いだす。勿論、向き合った結果他人にしてみれば夢のようなことを言っている生徒だって居ることには居るのだが。
 オレの周囲は無難な道なんだか困難な道なんだかよく分からない道を選んでいる奴が多い。遊戯のエジプト発掘隊参加、杏子のダンス留学、獏良の芸大受験。
 既に進路なんか決定済み、というか学生してたことこそ気紛れだったような奴らも居る。KC社長の海馬、ゲームデザイナーとして実は名が売れていたらしい御伽。
 オレは、バイト先のバイク店にそのまま就職予定の本田と同じく、就職希望だった。いや、過去形にはすまい。就職希望だ。
「ヒモが嫌なら住み込みで働け」
「ここに来るのは絶対かよ!」
 過去形にしそうになるのは目の前でそれがさも当然とばかりに頷く海馬の所為だ。高校を卒業したら家に来いと言う。家。確かに家だ。少しばかり部屋数が多く、天井が高く、庭が広く、家主が大企業の社長であろうとそれは家だ。普通豪邸と言うものだが。
 恋人からの同棲のお誘いと思えば嬉しいが、ここに住んだらオレは間違いなく海馬のヒモになる。住み込みで働くといえば聞こえはいいが、それはつまり主夫みたいなものじゃないのか。いや、世の主夫や主婦を馬鹿にする気は無い。が、この、何人居るんだかも分からない使用人を抱えた家でそれはつまりヒモみたいなものじゃないのか。
「オレ普通に仕事して普通に生活したいなー、なんて……」
「ここに来るのが嫌なのか?」
「嫌っていうかなぁ……」
「嫌なのだな?」
 海馬の声が低くなる。思わずオレも様子を窺っていた使用人の人たちもびくりとしたが、次の瞬間には違う意味でびくりとしてしまった。
 海馬が目から大粒の涙を零してぽろぽろと泣き出したのだ。
「え、ちょ、嫌なんて言ってないだろ!?」
「でも嫌なのだろう?」
「んなわけないだろ? ヒモはアレだけど、住み込みでも働かせてくれんなら」
 ぱちぱちと瞬きをしながら海馬が俯いていた顔を上げる。
「ここへ来るか?」
「おう!」
「ではすぐにでも書面を手配しよう」
「へ?」
 あっさりと泣き止んだ海馬は何を尋ねるようなことがあるのかとでも言いたげに、不思議そうな、或いは怪訝な顔でオレを見た。
「雇用契約書に決まっているだろう。磯野」
「ああ、そっか。……じゃねぇ! テメェ、嘘泣きかよっ」
「誰も本泣きとは言っていない」
 オレの様子は無視して磯野さんが部屋を出て行った。雇用契約書を本当に持って来る気に違いない。
「さて、頷いたからにはここに来てもらうからな」
「卑怯だぞっ、おい!」
「頷いただろううが。目撃者もたくさん居るぞ」
 海馬が使用人を下がらせないまま話をしていたのはそういう意図だったらしい。が、問題はそこじゃないだろう。
「やり口が卑怯だってんだよ!」
「……そうか」
 再び海馬が俯く。これはさっきの再現でもするつもりか。
「本当はやはり嫌だったのだな?」
 地面に一滴二滴と涙が落ちる。だが所詮二番煎じの手だ。
「もう嘘泣きは……」
 効かねぇぞと言い掛けた口を思わず噤んでしまった。海馬の泣き方がさっきとはまるで違って、演技とは思えないような綺麗じゃない泣き方だったのだ。しゃくりあげながら息を詰まらせる様についうろたえてしまう。
「いや、だから……」
 そういう意味じゃないんだとか何だとか、自分でもじゃあどういう意味なんだと思うような言い訳をしていたら、扉が開いて磯野さんが書類を持って戻って来た。
「瀬人様? 書類をお持ちしましたが……」
 海馬の様子を見て磯野さんも驚いている。海馬は泣き顔のまま振り返って磯野さんを見た。
「もういい。必要無くなった」
「は……?」
「捨ててしまえ」
 そう言うと海馬は磯野さんがゴミ箱へ向かうのも待たずに書類を引っ手繰って投げ捨てようとした。すんでのところでそれを止める。
「馬鹿、嫌だなんて言ってないだろ」
「じゃあ、その書面にサインしてくれるか?」
「おう!」


+++


「……という経緯なんだけどよ」
 ものの数時間で邸内の一部屋がオレの部屋に改装されてしまったことについて、海馬より帰宅が遅かったモクバに事の顛末を説明した。
「城之内ィ……」
 モクバは大きな溜め息を吐いた。
「バッカじゃないの?」
 オレも自分でそう思う。


+++


「取り敢えず、バイトはすぐに辞めれねぇし」
「それは解っている」
「高校でたらウチに来いって言ってくれてるトコもあるし」
 それを言った途端海馬がぎろりと睨んできた。今のオレの気分は蛙だ。目の前に居る奴は蛇より恐ろしいが。
「初耳だ」
「初めて言ったし。いや、その内言おうとは思ってたんだぜ!」
 内心取って喰われそうな恐怖と戦いながらも話を続ける。コエーよ、海馬。その目は恋人を見る目じゃないぜ。
「だからよ、ここには来るからさ、取り敢えずさっきの書類は無かったことにして欲しいなー……」
「ここには来るんだな?」
「来る来る。ただちょっと、仕事は自分に向いてること外でしたいなーって」
「そうか」
 裁きを待つ罪人ってこんな気持ちだ。いや、想像じゃなくて本当に。オレは無罪放免されたけど。
「近所か?」
「え? あー、ここからはちょっと離れてっかも。工場側だからKCとは近いけど」
「就業時間は?」
「九時六時か十時七時。倉庫仕事だけど危険な作業は無し!」
 海馬は考えるような仕種のあと小さく頷いた。
「……ならばよかろう。その代わり九時六時の時は一緒に出勤、十時七時の時は一緒に帰宅だからな」
「それって、可愛いこと言うじゃん、お前」
「毎日毎日毎日毎日擦れ違いの日々で月に一度顔を合わすかどうかという生活が望みなら、オレは自分のペースで生活する」
「あ、それ無理。一緒がいい」
 送迎が無ければ自転車で通勤するつもりだったから、海馬の言葉は現実になりうる。海馬だってワーカホリックの典型みたいなモンだから、こうして決め事でも作らないと延々仕事してるだろう。今日の分が終わったら明日の分を前倒し、明日の分が終わったら明後日の分を前倒し、前倒しする分が無くなったら開発室へ。開発室に入ったら出て来ない。冗談でなく。
「じゃ、そういうことで。就職先本決まりになったらまたちゃんと言うし」
「分かった」
「それと、すぐに家開けるのは無理だから、ここに来るのはもうちょっと先な。てか、お前も最初は卒業したらって言ってなかったっけ?」
「お前が駄々を捏ねるから先に既成事実を用意しただけだ」
 一片の迷いも無い口調で海馬はそう言うが、この場合駄々を捏ねたのはオレじゃないだろう。
「それで、いつ来るんだ?」
 まあ、別にいいけどな。
 ヒモは嫌だが同棲は歓迎だ。相手が下手に金持ちだからちょっと気が引けるだけだ。恋人と、同棲。うん、不自然じゃない。むしろ自然の成り行き。
 殆どの生徒が進路を決めだす秋の頃。オレはオレの周囲の無難な道なんだか困難な道なんだかよく分からない道を選んだ奴らの仲間入りを果たしたわけだ。
 就職して恋人と同棲。無難な気がする。
 海馬の斡旋してきた職を蹴って就職して海馬と同棲。無難とは口が裂けても言えない気がする。
 同じ事実がどうしてこうも違って見えるのか。進路を決めつつも悩み続ける生徒が多い秋の頃。オレもその一人となるわけだ。まあ、多くの例に漏れずオレもすぐに慣れるんだろうけどな。


the finis.

 「ナチュラルに海馬邸にて同棲中」の辺りを書く筈でしたが、同棲に至る馴れ初め話になってしまいました。
 踏み逃げ代打リクエスト企画の話なので、お持ち帰りは自由です。レイアウト変更は可、部分使用は不可。お持ち帰りされる場合には、沢ノ井藤子作であることが分かるようにして下さい。まぁ、エロも無いし持っていく人も居ないと思いますが。