Killer Queen Wasp
2006/11/7


 部屋に入った瞬間から、既に海馬の機嫌は悪かった。オレが手土産に持ってきた、といっても嬉しいものじゃないだろうけど、補習やら何やらのプリントの束も受け取ってはもらえたが目も通されず机の中へ仕舞われる。
「海馬、機嫌悪い?」
 自室だというのに寛ぎモードに入るどころか警戒モードの海馬がデスク越しにちらりと視線をこちらに向ける。一瞥だけですぐに逸らされた視線を追おうとしたが、机上に置かれた花瓶の所為で、オレの位置から海馬の顔が隠れてしまった。メイドさんが選んだんだろう花はとても綺麗で多分癒し系の香りがしたが今は障害物と同じだ。海馬との間にそれが入るのを避けて移動する。
 露わになった海馬の眉間にはくっきりと皺が寄っていた。
「お前、それ、癖になるぞ」
 その皺を伸ばしてやろうと思って眉間に押し当てた指を叩き落とされる。いつもは黙ってされるがままになって、それで少し機嫌を直すもんなのに。
「何かあった?」
「お前、の、知らないことは、何も、無い」
 海馬はそれだけを厭味なほどゆっくりと発音すると再びオレを無視して机に広げた何かの書類らしきものを読み出した。それはオレが部屋に入った時からずっと出されていたものだが、本当は、海馬は書類なんて読んでない。書類には既に承認印としていつも海馬が使っている判子が押されているし、第一目線が全然文章を追っていない。あれは多分用済みの書類で、でも海馬はオレがそれに気付いてることくらい分かっているんだろう。
「言いたいことあんなら言えよ」
 言ってからヤベェと思った。今のは、ちょっと喧嘩腰だったかもしれない。たいがい抜けてくれない昔の癖で、凄みを利かせてしまったというか。
「言いたいことならあるぞ」
 海馬が椅子からゆらりと立ち上がる。不穏な様子に思わず後退った。
「貴様など童実野湾に沈んで死んでしまえっ」
 海馬の手がデスクの上の花瓶に伸びる。これは不味いんじゃないかと思ったと同時にそれはオレの真横を掠めて飛んでいった。色ガラスの花瓶が、オレの後ろでガシャンと派手な音を立てる。
 状況が相当不味いことは解っているのに、オレの頭は高そうな花瓶の砕け散った様を想像して勿体無がった。それどころじゃない。海馬のことだ、いつ、童実野湾に沈んで死んでしまえが童実野湾に沈めて殺してやるになったって不思議じゃない。
「ちょ、待て! 待ってって! オレ何かしたかよっ?」
「そんなことにも思い当たらない脳構造なら停止しても同じだな」
 海馬が懐に手を入れたのでオレは海馬ランドが死のテーマパークだった頃を思い出した。つまり理不尽と死線を彷徨った記憶だ。
 危険を訴える本能に正直に、オレは飛び散った水と散らばった花を跨いで部屋を出た。海馬が何か罵声を浴びせようとしたみたいだが、ドアを閉めると声は聞こえなくなる。
 しかし逃げ出したのはより不味かったんじゃないだろうか。今更理由を聞きには戻れない。かといって、このまま海馬の怒りが鳴りを潜めるのを待つなんてことはもっとできない。そんなことをしたら待ってる間に状況が悪化するに決まってるからだ。海馬は執念深い。
 オレは、どうすればいいんだろうか。


 なんて、どうすればいいか、悩んだところで選択肢は知れている。迫り来る時間に急かされてバイトに向かい、家に帰って寝て起きて新聞配達に行き、もう一度寝てから学校に行く。分岐していない選択肢は選びようが無い。
 取り敢えず頭を悩ませながら、オレはその通りに行動した。


「城之内君、海馬君と喧嘩したよね」
 翌朝、遊戯は顔を合わすなり断定形でそう指摘してきた。問い掛けでない辺りに海馬が直接遊戯に何か言ったんだろうと見当を付ける。
「喧嘩って言うか、海馬が一方的にヒス起こした感じだけどなー……」
「ああ、うん。そんな感じだったかも」
「海馬に何か聞いた?」
「昨日、海馬君から電話があって。浮気がどうとか。深夜だよ、深夜」
「や……巻き込んで悪かったよ」
「浮気したの?」
「してねぇー。誤解だわ、それ」
 海馬が怒っていた理由は解ったが、その理由に心当たりが無い。そりゃあもう、綺麗さっぱり無い。
「誤解は解かなきゃね。童実野湾がどうとか、むしろオレがとか言ってたよ」
 むしろ、オレが、沈めてやる。だろうか。青褪めるオレを他所に遊戯はにっこりと笑顔を浮かべた。内心深夜の電話に怒っているに違いない。同年代でオレたちのことを知っているのが遊戯だけなもんだから、海馬は他に言えない分を全部遊戯に言ったんだろう。深夜にヒステリーな電話が掛かってきたら、そりゃ腹も立てるよな。
「早めに仲直りしてよね。そしてもう二度と喧嘩しないでよね」
「努力する……」
 特に、迷惑を掛けないように。


 弱気な決意表明を遊戯にしてみせてすぐ、後ろから杏子に声を掛けられた。杏子が振り返ったオレに向かって片手の平を見せる。
「何?」
「何、じゃないわよ。海馬君のプリント、早く出して」
 ほら、と催促されてオレは漸くその存在を思い出した。昨日海馬に渡したプリントの束の中には、補習やレポートの指定プリントだけじゃなく要提出の調査票のようなものも混ざっていたのだ。期限が迫っているそれを、渡してすぐ書いてもらって、というお使いをオレが引き受けたのだった。
「悪ぃ、持って帰ってくんの忘れてた」
「えー、何やってるのよ。アンタが任せろって言ったんじゃない」
「や、マジで悪かった。昨日は、ちょっと喧嘩になって」
 そう言うと杏子は仁王立ちのような格好で、はぁ、と大きな溜め息を吐いた。
「最近仲良くしてたから、アンタたちも大人になったのねぇ、って思ってたのに。また喧嘩?」
 今度は大人になったが故の喧嘩なんだけどなぁ、という言葉は胸中に留め置き、もう一度杏子に謝った。期限にまだ一応の余裕があるからか、杏子は本気では怒っていない。それにほっとした。


 ほっとしていたところにいきなり衝撃を受けてバランスを崩す。肩に置かれた、というか叩き付けられた手を払った。
「何だよ、イテェだろうが」
 抗議を無視して本田がオレの肩を引く。杏子と遊戯の前から引き剥がされた形だ。本田が耳元に口を近づける姿を見て猥談だと察したのか、杏子は遊戯を連れてどこかに行ってしまった。
「お前、いい加減アレ返せよ」
「アレ? オレお前に何か借りてたっけ?」
「アレだろ、アレ。ほら、ボッキンパラダイスの」
 ボッキンパラダイスといえば、その名が示す通り露骨系のAVなわけだが、以前借りた分は既に全部返却済みの筈だ。海馬いるから特に必要でもないし。
「AVなら全部返しただろ?」
「ビデオじゃねーよ、ビニ本貸しただろ。ボッキンパラダイス・ザ・フォト」
「あー……そういやそんなモンもあったっけ」
 AVと同じ女優がモデルの写真集を思い出した。露骨系のビデオと違って意外に普通のグラビアだったヤツだ。一時期お世話になったけど、そのあと返してなかったんだったか。
「そんなモンってよぉ、使ってねぇんならとっとと返せっての」
「あー、悪ぃ。返した気になってた」
 両手を合わせて殊勝に謝ってみせたオレに、そういえば、と本田が不思議そうな顔をした。
「最近ビデオも本も貸せって言わねぇけど、困ってねぇのか?」
 忙しくてなかなかその気に、なんて苦しい言い訳をする。秘密ってのは、こんな時不便だ。


 ああ無情。ひょっとして海馬が学校に来るんじゃないかという期待はあっさりと裏切られ、時計はあっと言う間に放課後、三時四十五分を指す。一旦家に帰るか海馬の所へ直行するか迷って、オレは家に帰る方を選んだ。この時間じゃ海馬はまだ仕事だろうし、不機嫌な時に会社に押し掛けるのは不味い。命を落としに行くようなモンだ。
 家はいつも通り散らかっていて、転がる酒瓶の数が増えているところを見ると一度親父が帰ってきたんだろう。人気が無いからまたどこかへ行ってしまったことは知れたが。
 昨日はバイトとあれこれ考えるのに忙しくて家にいた時間のほぼ全てを寝て過ごしたが、今日は少し部屋を片付けるとしよう。暫く放置していた部屋はまるで泥棒でも入ったのかってくらい荒れている。
 散らばる雑誌を集めて机の上に置く。それからはたきを掛けようとして、立つ鳥跡を濁さず、なんて言葉が脳裏を過ぎった。ちょっとまて、オレ。そんな後ろ向きでどうするよ。浮気だ何だって心当たりは無いんだし、誤解なんだから話し合えば解るって。いくら海馬でも、問答無用でコンクリ詰めなんてことは、ある、かもしれない。
 いや、うん、こういう時こそ前向きに。明日のことを考えよう。そうだ、明日本田にビニ本返さねぇと。アレ、どこにやったんだっけ。
 確かここだった、とテレビの下のラックを開ける。ビデオデッキの上に積んである雑誌は殆ど情報誌だが、借りた本もここに置いていた筈だ。全部返したつもりだったのが、一冊情報誌に紛れてたんだろう。
 デッキの上の雑誌を全部ごっそり外に出して、上から順に確かめていく。五冊目を捲ったところで探していたボッキンパラダイス・ザ・フォトは見付かった。見付かったが、それと同時にオレはいくらなんでも泥棒が入ったあとみたいってのは部屋が荒れ過ぎじゃなかったかということと、乱雑に突っ込んでた筈の雑誌が綺麗に端を揃えて積まれていたのはおかしいんじゃないかということに思い当たった。昨日の、朝は、確かまだ部屋がそこそこ綺麗だったような。親父が荒らしたのかと思って気にしなかったが、じゃあなんで雑誌がきちんと積み直されてんだ。
 というか、問題はそこじゃなくて、折角見つけたビニ本にどうして周囲が焼け焦げた丸い穴が空いてるのかってところだよ。
 オレは暫し考えた。泥棒は入ってないかもしれないが、海馬が入っただろ、これ。アイツ、は、彼氏の携帯チェックする女の子かよ。オレは携帯持ってないから突然の検閲なんてそんな恐怖は無縁だな、と思っていたが。部屋のチェックは、更に恐怖だろ。しかも目敏い。
 表紙の女のコの顔を弾痕が綺麗に撃ち抜いている。本田に何て言い訳しよう。でもってその前に、海馬に何て言い訳しよう。浮気って、多分これのことだよな。お世話になってたのは昔の話なんだけど。
 けど、たかだか市販のエロ本だぜ。そんなに怒ることじゃないだろ。本当にこれのことなのか。
 いや、でも、中学の時につるんでた奴の彼女で、アタシがいるんだからこんなの要らないよね、ってエロ本焼き捨てた女がいたような。じゃあやっぱりこれが原因か。自分以外で抜いてたのが許せないとか、そういうことなのか。
 他に思い当たる節もないし、これが原因だろうということにして誤解の解き方を考える。まず第一に大切なのは話を聞いてもらうことだ。怒った海馬と会話にならない可能性は高い。次に大切なのは、ええと、なんだっけ。外堀から埋める。それだ。


 意を決してやって来た海馬邸で、オレを出迎えたのはいつもと同じメイドのお姉さんだった。その顔に多少の翳りがあることから、海馬は今もって不機嫌の絶頂なのだろうと予測が付く。意を決した筈なのにもう帰りたい。
「……瀬人様でしょうか」
「や、あの、先にモクバに」
 姑息かもしれないが、最初から海馬に会う勇気は無かった。事情を話してモクバに海馬を宥めてもらい、それから改めて海馬に会う。まあ、姑息に決まってるんだが、そういう作戦で行くことにしたのだ。不良だった頃命知らずだとか何だとかよく言われたが、客観的に見てそうだったとしても、実際のところオレは命が惜しい。人生死んだら終わりじゃねぇか。諺にもあるだろ、命あってのものだってのが。
 ところが、いつもオレの味方をしてくれる幸運の女神サンは本日定休日らしい。
「大層申し上げにくいのですが、本日、モクバ様はお帰りになりません」
「……え……マジすか。なー、なんで今日に限って」
「今日に限ってだからと申しますか、朝から欝気味だった瀬人様の代わりに二人分の営業回りに行かれまして、遠方なので一泊せざるを得なくなったというわけなのですが」
 オレは今度モクバに会ったら謝ろうと思った。海馬の誤解が原因だとか、そういう色々は置いといて、取り敢えず悪いと思ったのだ。謝ろう、今度会ったら。会えたら、かも。
「出直されますか?」
 そうしたい。けど、そうした場合、オレは無事に明日を迎えられるんだろうか。
「……海馬に会わせて下さい……」


 海馬の部屋は二階にある。そこへ向かって階段を上がった所で、何かを持った磯野さんに出くわした。磯野さんがその何か、を、ずいと差し出す。それはよく見ると服の形をしていた。
「瀬人様の所へ行く前にこれを」
 差し出されるままに受け取ると、磯野さんは空いた手でずれてもいないサングラスの位置を上げ直した。
「何すか、これ」
 何となく予想は付きつつも、一応尋ねてみる。ああ、口許引き攣ってるぜ、磯野さん。
「……防弾チョッキだ」
 やっぱりな。こういう嫌な予感を裏切らないのが海馬コーポレーションだよ。いや、海馬絡みの全てだよ。
「なんで、海馬に会うのに防弾チョッキが必要なのかなー、なんて……」
「先程部屋へ伺った時、瀬人様が愛用のコルトパイソンを整備していたからだ」
 コルトパイソン。聞いたことがある。ああ、そうだ、本田がそのレプリカ持ってた気がするぜ。アイツ、モデルガンとか好きだからな。海馬の持ってるコルトパイソンは勿論レプリカでもモデルガンでもないんだろうけどな。
「健闘を祈る」
 できれば君の死体は処理したくない、と、冗談じゃないから笑えないことを言って磯野さんはチョッキの着方をオレに説明した。


 コンコン、と控えめにドアを叩いてみたが反応が無い。恐る恐るドアを開けると正面のデスクに座った海馬と目が合った。
「よくぞまぁ再びここに来られたな」
 海馬の手が懐に入る。オレは慌てて誤解だと叫んだ。
「待てよ、マジ誤解っ! 話せば解る!」
「何が誤解だ。物証まで残しておきながら」
「お前が怒ってんのってアレだろ、部屋にあったエロ本」
 依然懐に差し込まれたままの海馬の手がぴくりと動いた。当たりらしい。
「ホンット、に、誤解だからな」
 そう前置きして、オレはそれが昔借りた返し忘れだということを海馬が納得するまで延々説明した。延々、繰り返し、質疑応答を挟みながらだ。昔のオレが今のオレを見たら鼻で笑いそうだな。途中何度か海馬の手が懐から出そうになったが、取り敢えず撃たれること無く説明を終えれそうな雰囲気になってくる。
「だから、あれはお前と付き合う前に使ってただけ」
「今は」
「ここ来る度にあんだけ頑張るオレにそれを聞くか」
 そう言うと海馬の顔がちょっと赤くなった。いける、大丈夫そうだ。そろそろ多分怒ってない。
「無駄撃ちなんてしてないっての。嘘だと思うなら今から確かめさせてやるぜ?」
 で、まあ、恋人同士の仲直りったら、これが常套手段だろ。奥へ行って馬鹿でかいベッドに海馬を押し倒す。服を脱がせつつ脱いでたら下から見上げる疑問符付きの視線と目が合った。
「何?」
「なんで防弾チョッキなんか着てるんだ」
 すっかり忘れていたその存在を思い出す。しかし、なんで、も無いだろうよ。
「お前がオレを撃つ気で銃の整備なんかしてたからだろ……」
「誰にそんな……あぁ、磯野か。そういえば見られたんだったな」
 ちょっとした失態、とでも言いたげに海馬が溜め息を吐く。実に悩ましい光景なわけだが、一つ追求せずにはいられない。
「撃つ気だったのは否定しないのな……」
「撃つ気だったからな」
「マジで?」
「他人に尻尾を振られるくらいなら殺してやる」
 オレなんで海馬が好きなんだろう、と思考の迷宮に入りかけたところで海馬が呟いたその一言は冗談なら可愛い一言かもしれないが、本気だから性質が悪い。
「殺してやるの前に誤解の可能性を考えろよ! しかも、誤解にしたってただのグラビアアイドルだろぉ」
「女の方がいいのかと思った」
 思うところは色々あるんだぜ。けど、そう言った海馬の手が震えていて可愛かったから、もういいや、ってことにした。なんでって、そういうトコがあるから好きなんだ。これでも最初の頃に比べたら性質の悪さもマシになったし。
 真っ平らな胸の上のちっぽけな乳首を舐めると、あん、と何だか可愛い声で海馬が鳴いた。それにしたって、海馬も誤解するなんて自分に失礼だろ。お前のエロ可愛さは、AVもグラビアも目じゃないってんだ。


the finis.

 お題は「両想いなのに喧嘩して周囲に迷惑をかける二人、城之内君視点で実は瀬人にメロメロ」でした。迷惑かけ過ぎです。本田君可哀想……!
 で、一応注釈をば。城之内君が「命あってのものだってのが」って言ってますが、正しくは「命あっての物種」です。命あってのものだよねー、というのではないです。城之内君が間違っていますので、使用しないで下さいねー。
 タイトルは、キラークイーンワスプ=殺戮女王蜂、でした。ワスプは雀蜂。瀬人っぽいかと思いました。
 踏み逃げ代打リクエスト企画の話なので、お持ち帰りは自由です。レイアウト変更は可、部分使用は不可。お持ち帰りされる場合には、沢ノ井藤子作であることが分かるようにして下さい。