ミニアチュールの森
2008/8/16


 寮へ戻る道を歩きながら、ジャック・アトラスは絶望していた。巨額の学費を積み全寮制という友との別離に耐えてまで入ったパブリック・スクールは、思いのほか程度の低いものだった。周囲を見れば、なるほど、生徒は良家の子息ばかり。友人を増やし横の繋がりを作るには、寮の制度も相まって、優れた環境と言えるだろう。だが純粋に学問の点で言えば、少なくとも彼にとって、これまでしてきた友との議論の方が、余程有意義であった。
 しかし、もはやそれを知ったところで遅い。寮の規則は長期休暇以外の生徒の外出を禁じているし、たとえ外出が許されていたとしても、到底町になど出られない山奥にこの学校は建っているのだ。
 友人たちの中で、ここへ通うことにしたのはジャック一人であった。皆、パブリック・スクールというものに興味を持ってはいたが、その桁違いの学費を工面することができなかったためだ。
 ジャックは、元々、その程度の地域に住んでいた。彼の出自は貧困層に近い。ここで新たに友人を作るには、それは大きな障害だった。どこそこ家のパーティでお決まりのあれは、なんて風に始まる話題にどうして付いていけようか。そもそもが、言葉すら違うようなものだ。上流訛りと下流訛り、発音一つで階級が知れるのだから。
 友に関しては、一人でいることが苦にならない性分、耐えられると踏んでいた。だが、肝心の、目的であった学問がこうだとは。
 重厚な鉄門の前、ジャックはこれから過ごすことになる寮を見上げた。物憂げなアイリスの瞳に蔦草の這う古びた漆喰塗りの建築が映る。寄宿舎は三階建てで、横に長い構造をしていた。森の木がすぐそこにまで迫っていて、風に揺られ、ざわざわと葉を鳴らしている。木の葉を揺らした風はジャックの許にも届き、彼の、少し長い金色の横髪を、一瞬宙に浮かび上がらせた。
 見える範囲では、三階の、一番端の部屋だけカーテンが締め切られている。他は窓すら開け放たれている部屋が殆どだが、時間的にも、まだ早いのだからそれが当然だろう。
 端の、あの部屋は寮監の部屋だったろうか。それなら新入生を向かえるこの日、忙しくしていて部屋には不在だとしてもおかしくはない。不在ならカーテンが閉じられていても道理だ。ジャックはそう考え、しかし次の瞬間にはその考えを意識の外に追い遣って、寮の中へと入って行った。


 数日を、彼は退屈の内に過ごした。生徒の中には下流階級出のジャックに対して気のいいものもいたが、しかし彼ら自身ハイクラスとは言い難い成り上がりものが大半であった。無論、ジャックの階級からすれば彼らすら雲の上のクラスである。だが、幾ら彼らと交友を深めたとしても、彼の目的は達成されないのだ。
 ジャックは、恐らく自分で思っているよりも大きな、クラスへのコンプレックスを持っていた。学識を深めたがるのも、いずれ上流の連中よりも一段高いところに立ってやると、そういう想いあればこそではなかろうか。
 結局のところこの山奥のパブリック・スクールへの入学は自分に一定の回り道を強いることになると、その時の彼は思っていたが、とはいえ彼は優秀であったので、馬鹿にされない程度上流らしい振る舞い方を身に付けるのもまた幾らかの意義があろうと思い直し、これから卒業までの期間を立ち居振る舞いを学ぶ期間と定めた。
 そう定めてからも更に日は流れ、或る日、寮に帰ったジャックは見たことの無い人物が一階の廊下で壁に凭れ掛かっているのを視界に入れた。上級生だろうか。一階の居住者、全ての一年生の顔を覚えているわけでもないのに、ジャックはそう思った。そしてそう思うのも無理は無いほど、彼は目立っていた。もし同じ一年であれば、今までにも講堂や廊下で擦れ違っている可能性は高いが、そうしていたならば彼は必ずジャックの目に映り記憶に残っただろう。
 彼はすらりとした長身で、マロニエの実の色というのが最もしっくりするような髪と、靄が薄い日の空と同じ色の瞳を持った、どこか陶器人形を思わせる美貌の主だった。彼はジャックや他の生徒と同じように定められた学生服を着ていたが、若草色のベストも、腕が少し捲くられた白いシャツも、まるで特別にあしらえたもののように彼に馴染んでいて、ジャックの方が、今自分が同じものを着ているということを、恥じる気持ちになるほどだった。
「お前」
 瀟洒な容貌の彼から飛び出した言葉に、ジャックは驚いた。驚き、返事もできなかった。あまりにも驚いたので反応することを忘れたのだが、彼はジャックが自分の呼び掛けを理解しなかったものと見てか、もう一度、お前、と下流訛りの言葉をその唇から滑り出させた。
「そこのお前だ。詰まらなさそうな顔だな。入学から、まだたった数日だというのに」
 ロング・センテンスを喋らせると、明確に、彼は下流階級の出であった。訝りながらジャックが近付くと、彼からは、甘いような煙いような、そんな匂いがした。それは自然なもの、例えば寮の周りの森で引っ掛けてきた花の蜜や人の体臭に起因するようなものではなく、どこか人工的な香りである。コロンでも付けているのかと思ったが、それも違うようであった。彼が組んでいた腕をほどいても、その手首がジャックに近付いても、香りが強くなることは無かった。
「お前はオレと同じ匂いがする」
 彼の指先がジャックの頬に触れた。彼は恐らく不健康な類の色白だったが、ジャックも、系統は異なるものの肌の白い性質だった。肌の明るさで言えばジャックの方がより白く透き通るようであったが、彼に触れられたことで紅潮した頬だけ見ると、そこに置かれている彼の指の方が、僅かに白く見えた。
 ジャックは、匂い、と鸚鵡返しに、ここ暫くろくに動かしていなかった声帯を震わせた。
「物覚えが良くて、権力を好いている。違うか?」
 それは、実際、多分正しかったのだが、ジャックは答えなかった。彼は答えないジャックを気にするでもなく、指先をジャックの頬から離すと、ぱっと、一歩横に身を翻した。
「ここは、お前のような人間には退屈だろう」
 彼自身は退屈など欠片も感じていない風であるのに、彼と似ているらしいジャックを、彼は退屈で当然のように評した。どこか熱っぽく、しかし冷静を奥底に湛えた青の瞳が、ジャックの上に値踏みするような視線を行き来させる。居心地の悪い思いをしながら、ジャックは彼が何をしているのか解らず、その場に黙って立っていた。
「同類のよしみで、面白いものを見せてやろう」
 彼は値踏みを終えるとそう言って、付いてくるようにとジャックを促した。
 彼に連れられて、ジャックは初めて寮の階段を上った。上の階は、上級生の階である。三階まで上がると、廊下には一階よりも多くの人が出ていて、慣れた様子で雑談に興じていた。声を聞くと、中流階級らしきものも、上流階級らしきものも、そこにいる。ジャックが廊下へ踏み出すのを躊躇っていると、連れてきたマロニエ・カラーの髪の彼は、わざとらしく大きな声で、どうした、と言った。
 廊下中に彼の声が届くと、雑談で賑わっていた筈の階は、しんとして緊張に包まれた。皆がジャックたちに、いや、彼に注目しているのだ。
 その時、見るからにハイクラスの、紳士然とした男子生徒が一人、ジャックたちの方へ向かってきた。彼はきっちりとネクタイをした上に若草色のベストを着ていて、青い瞳の彼ほどではないが、それがよく似合っていた。
「御機嫌よう、瀬人」
 男子生徒は、ジャックを連れてきた彼のことを、瀬人と呼んだ。
「今日は随分と毛色の違うのを連れているようだが……」
「オレに似ているだろう?」
 瀬人の言葉に男子生徒は頷き、薔薇と、薔薇の蕾を見ているようだと言い添えた。瀬人はその答に満足したようで、男など路傍の石とばかり通り過ぎようとしていた足を止めて、若紳士のきっちりと締められたネクタイに手を伸ばし、僅かなずれを直してやった。そのやり方は、ジャックの目に、さながら家臣に褒美を与えるロイヤルの御やり方のように見えた。そしてハイクラス出の男子生徒自身も、まるで自分が爵位の一つも持たないものか、今まさに叙爵されたばかりのナイトのように、大仰に、謝辞を述べ出したのだ。
 悪目立ちを恐れジャックは周囲を見渡したが、不思議なことに、誰一人彼らのやり取りを疑問に思っている様子のものはいない。むしろ、彼らはどこか、羨ましげであった。
 これが面白いものだろうか。そう思っていたので、瀬人が行くぞと声を掛けた時、ジャックは大袈裟に驚くこととなった。これ以上に何かがあるなど、ジャックには想像が付かず、それが、男子生徒の言った薔薇と薔薇の蕾の違いである。
 瀬人は、ジャックを三階の一番奥の部屋へ連れて行った。寮監のための、一人部屋である。銀色に光る鍵を取り出して、瀬人はその部屋の扉を開けた。彼こそが、この鬱蒼と茂る森の中に押し込められた寮というミニチュア階級社会の、最も上に立つ人物なのであった。
「監督生だったのか」
「羨ましいか。オレは下流の出だが、ここのキングだ。ここを出たあとも、そうだ」
 羨ましい。と、正直にジャックは答えた。ロイヤルの御やり方に見えたのは、気の所為ではなかったのだ。外に出れば、本当のロイヤルがいるが、この現実社会の権力構造をそのまま縮図にしたも同然の寄宿舎の中で頂点に立つ彼は、成功者という意味合いに置いては、たとえ外に出ても、本物の王を凌ぐように思えた。
「羨め。お前なら、二年後には、オレと同じようにキングになれるだろう」
 瀬人はジャックが部屋に入ってしまうと、自然な動作で、内側から扉に鍵を掛けた。そして、窓際まで歩いて行くと、オリーブ色に小鳥の模様が編まれた厚手のカーテンを、さっと、閉めてしまった。
「座るといい」
 上掛けが二つに折られたベッドを指して、瀬人が言った。彼自身は、サイドボードに乗った葉巻入れとマッチ箱を、乱雑に鞄の中へ移動させている最中である。彼からは、そういったものをやる雰囲気が感じられないので、あれは人の置忘れか何かだろう。
 ジャックは、言われた通りに、ベッドの上掛けが剥がれた部分に座った。シーツは特に上等のリネンらしく、ジャックやルームメイトのベッドに備え付けられていたものとは、異なる手触りがした。
「家の名は?」
 唐突に、瀬人が聞いた。呼び掛けようとして、名前を知らないのを思い出したかのようであった。
「アトラス」
 ジャックが短く答えると、瀬人は斜め上に視線をやり、暫く記憶を探る様子をしてみせたが、すぐに諦めて首を元に戻した。
「聞いたことも無いな。最近成り上がったばかりか」
「まだ成り上がってもいない」
 ふん、と、大して興味も無さそうに瀬人は鼻を鳴らした。彼はジャックの隣に座り、政治はどこでするか知っているか、と尋ねた。
「議会だろう」
「違う。ここだ」
 ここ、とは、この森の奥のパブリック・スクールのことではない。もっと狭い範囲、そしてもっと汎用的な意味で、彼はここという言葉を使っていた。瀬人が示したのは、二人が座っている、上等のリネンを敷いたベッドであった。彼は、今にも「私の時代が来た」と、かの公妾ポンパドゥール夫人の真似事を始めそうな調子でいて、実際、彼の時代を既に持ち合わせていた。
「お前は、ここで政治をすることに、あまり抵抗を抱かないだろう。上に行くためには手段を選ばない類の、そういう人間だろう」
 瀬人は、ジャックを見た瞬間に、それを感じていた。彼は、人となりを嗅ぎ分けることが得意な性質の人間だった。そして、ジャックに言ったことは、自己紹介のようなものでもあった。彼が始めに言った同じ匂いとは、まさにそのことであり、ポンパドゥール夫人になれる才能があるかどうかということであった。
「まず理解しろ。オレたちは、どうあっても、ハイクラスにはなれない」
 それは下流に生まれた宿命であり、ある程度年端がいくと必ず突き当たる絶望であった。そんな当たり前のようなことを、瀬人は言い置いた。どうあっても、下流に生まれた限り、ハイクラスにはなれない。
「だが、ハイクラスの連中を操ることはできる」
「色でか」
 そうだ、と、瀬人が頷いた。効果の程は、彼が監督生であるということが保証している。ついさっき廊下で繰り広げられたやり取りも、あの若紳士がもはや操り人形も同然でありその手足に見えない糸が括り付けられていたということなのだ。
 ジャックは、瀬人の言った通り、それに対して嫌悪など負の感情を生じさせることは無かった。むしろ漸く見付けた退屈凌ぎと目的への近道に、途方も無い魅力を感じてすらいた。
「経験が一つも無いと、土壇場で失敗しやすい。だが、経験が一つも無いことが、価値になったりもする。だから、半分だけ、経験していけ」
 やにわに、瀬人がジャックの肩を押した。彼らは、二人で、重なり合ってベッドに倒れ込んだ。二人はよく似ていて、情人としての資性もそうなのであるが、時に老いてゆく商売女が自分の息の掛かった若いのに手練を教える、それを今からしようというのであった。瀬人は、ジャック同様この鬱蒼とした森のパブリック・スクールの生徒であり、老いとはまだ無縁の若さであるが、一年もすれば卒業である。次代のミニチュア社会にまた元のようなハイクラスの若紳士が君臨し、彼が卒業後紳士となって出てきて、現実の巨大階級社会で瀬人のような成り上がりものを非難するようになっては困るのだ。
「こういうことは」
 瀬人は、腕捲りされ生身の肌が出ている腕を、徐にジャックのシャツの下へ入り込ませた。ジャックのシャツとベストが少しずり上がり、引き締まった白い腹が、見えた。
「やり過ぎるとよくない。大っぴらにするのも。力あるもの一人二人だけを相手にして、他には、何となく、そうなのだろうと、匂わせるくらいでいい」
 二匹の雪豹が雪原でじゃれ合い、時折、媚びたような鳴き声を上げる。年上の豹が、狩りの仕方を教えるように、若い豹の首筋に軽く牙を立てる。均質に積もっていた雪が、二匹の身体が転げ回る内に躙り乱されて、茶色い地肌を覗かせる。そういったものを連想させる時間のあと、二人は、惜しみなく汚された上等のリネンの上に、寝そべっていた。
「オレたちは、下流のままキングになれる」
 カーテンの小鳥を見ながら瀬人が呟く。ジャックは、それに頷いた。今にも飛び立とうとしているミニアチュール様の小鳥を見ると、オリーブの布の向こうに寄宿舎の外の世界が見えるようであったが、浮かんできた友たちの顔を、彼は意図的に消し去った。この森の奥深くで、ジャックの心内にどのような企みが成ったか、彼らは決して知りえないだろう。
 ジャック・アトラスは、既に、自信に満ち溢れていた。自分が王になれると、確信したものの自信であった。もはや彼に貧困の中へ戻るつもりは無い。このミニアチュールの森を出た時、彼は恐らく、故郷にもハイ・ソサエティにも目を向けず、ただ己の城のみを、築くのであった。


the finis.

 錯夜サマから頂いた絵に触発されたパブリック・スクールもの。パブリック・スクールって萌えですよね! ポンパドゥール夫人はルイ十五世を操って政治したルイ十五世の愛人でした。
 耽美の王道ネタということでいつもより更に耽美系を目指して書いたんですが、非常に書きやすかったです。耽美大好き。