精密機械と技師の恋
2008/8/21


 サテライトに捨ててきたものの中で、一等記憶に残っているのは不動遊星の指先だ。と、思う。
 彼の指先は凡そいつでも機械油に塗れていて、少し黒ずんでいた。機械油というものは一度付いてしまうと落とすのが手間らしく、彼はまたそれを面倒がって、手などろくろく真面目に洗いもせず、あからさまにべと付いたりしていなければいいのだと、殆どの場合軽く水だか湯だかで流しただけで済ませていた。尤も、日がなわけの解らない機械を弄り倒していた彼にとって、例えば少し食事の時間を挟むのだとかその程度のことの度に念を入れぴかぴかになるまで手を洗うなど、とんでもなく時間の無駄であったことは理解できる。
 だが、その手で四方八方を触られてみろ。気が付いてみればそこら中に楕円形の染みが出来ていて、しかもその大きさは十中八九遊星の指の腹と同じなのだ。ついにサテライトでは貴重な新品の白いコートにまで黒い楕円を付けられそれはもう激しく怒ったが、同時期に炊事当番だった他の誰かからも遊星の使った食器だけなかなか綺麗にならないと文句を言われたらしく、反省したのかそれ以来彼は機械の傍を離れる時に手袋を嵌めるようになった。
 手袋を嵌めるという方向性で解決を図ったため、勿論遊星が几帳面に油塗れの手を洗うようになったのではない。コートを汚された時に知ったことだが、機械油を落とすには専用の薬液だか何だかがあって、それを使えば割りに跡形も無く染みは落ちるのだ。ただし、今度はその薬液が酷くべた付くものだから、薬液を普通の洗剤か石鹸かで落とさなければならない。それはともかく、コートが綺麗になったので、お前のその黒ずんだ指も一度どうにかしろと、渡された時には埃を被っていた薬液のビンを遊星に、半ば押し付けるように返したのだった。
 遊星は渋々といった様子で手袋を外し、暫く指先を擦り合わせたり揉んだりして手を洗っていたが、十分か二十分ほどして、無理だ、と独り言なのか話し掛けているのか曖昧な声で言うと、普通の石鹸を使って薬液を落としてしまった。指先の黒ずみは多少薄くなった、かもしれない、くらいの変化しか見せず、白いコートからすら染みは抜けたのに、お前はいったいどれだけの期間その汚れを放置していたのだと、オレはすっかり呆れてしまった。
 遊星の指先は、また、酷く荒れていた。特に手袋を嵌めるようになってからは、多分それまでより更に手を抜いた洗浄しかしなくなったのだろうが、殊更だった。黒ずみの所為で解りにくかったが、所々皮膚が死んで白っぽくなっていたり、無闇にささくれていたり、した。痛まないのかと聞いてみたことがあるが、細胞が死んでるから痛覚も無いと答えられて、それもそうかと納得した。
 そんなだったが、遊星は手先が器用だった。大掛かりなものから小さなものまで、ジャンクを拾い集め、ゴミでしかなかった筈のものをシティの先端技術もかくやという高機能製品に作り変えていた。機械に関する器用さが目立っていたが、それ以外にも、細かな作業なら殆ど何でも得意だった。椅子の足が折れた、コンロの火が点かなくなった、ベルトのバックルが壊れた、アジトの仲間たちもオレも、度々そんな用件で遊星の手を煩わせた。
 彼は、そういった時二つ返事で修理を請け負った。二つ返事というのは慣用句としての意味で、実際は全く無口に一言も発せず黙々と直していたのだが、とにかく遊星が嫌そうな顔をしたり断ったりということは無かった。彼は多分、仲間が喜ぶ様を見るのが好きだった、のではないかと思う。カードを拾い集めデュエルディスクを作りついにはDホイールまで組み立てたのも、サテライトの暮らしを娯楽の一つも無く退屈で散々なものだとオレが喚いていたのを慰めるためであったように、今となっては感じる。
 結局それはオレにシティとサテライトの格差を認識させ、仲間を裏切ってでもサテライトを出て行く決心を固める一因となったのだから、彼にとっては皮肉な結末だっただろう。遊星が自分の親切心を悔やんだかどうかは知らない。だが、あの機械油塗れの指先が今日も何かしら仲間のために動いていると想像するのは、そうでないところを想像するよりも、オレには簡単に思えるのだ。
 それくらい、彼の指先は仲間のためのものだった。そして、仲間のためのものでしかなかった。間違っても特定の一人のためのものではなく、仲間という括りの、その中の人々のためのものだった。勿論彼自身のためのものではあったが、それは当然のことであって別枠の話だ。
 仲間のための指先が、もしも自分のためだけに動いたならと、数回と言うには多い数、考えたことがある。おかしなことに、そう考えた回数は、むしろシティへ来てからの方が、圧倒的に多い。今だってそうなのだ。捨ててきた筈のものが、どうしてこうまで記憶にこびり付いているのか。自分でも理解できないが、捨て切れなかったということなのだろう。
 シティへ来てからの場合、その考えは、時々夜にやって来た。所謂浅ましく淫らな方面に、あの指先が自分のものであればと思うのだ。あの黒ずんだ指先が、自分のためだけにとくと洗われ、精密機械に対するがごとく丁重に、この身に触れてきたならば! そう思いながら、オレは自分の指先を自分の身体に這わすのである。
 もし脇腹を撫でるこの指があの黒ずみ荒れたものだったなら、どんな感触だっただろうか。ささくれが当たるのを擽ったく感じただろうか。それとも、それは心地良いものだったろうか。考えると、自身の内側に熱の渦巻くのが分かるのだ。
 あの器用な指先が触れてきたならば、きっと、こうやって一人自分を慰めるよりも、ずっと強い快楽を得られただろう。脇腹から下腹に降り緩く勃ち上がったものを掴む指は、どのように動くだろうか。ドライバーを回す時のように? 溶接鏝を扱う時のように?
 遊星が、特に精密機械を弄っていた様子を思い浮かべながら、それに似せて手を動かす。彼より器用でない指先は、恐らくそれなりの刺激しか与えていない筈だが、想像が何割か感覚を補っていた。息が上がり、瞼が自然に閉じていく。そして、そのあとには、瞼の裏に彼が機械油の染み付いた指先を動かす姿が映るほか、何も考えられなくなっていくのだ。
 遊星、遊星、お前の指先が好きだった。お前の指先は優しかった。捨てたことを時折悔やむほどに。
 遊星。
 遊星。オレは多分、お前のことも。
 終わりが来ると、呆気無く熱が引いていく。耐える気の無い行為は自分でもどうかと思うほどすぐに終わったが、ほんの数分ですらあの指を思うには長過ぎるのだから、これで構わないのだ。想像上の機械油に黒ずんだ指先は霧散して消え、白い、自分の吐き出した精液に塗れた指先だけが残る。
 サテライトに捨ててきたものの中で一等記憶に残っているのは彼の指先だが、想い出を汚すとはまさにこのことだ。と、思う。


the finis.

 微妙に以前書いた一話ネタ小話と繋がってるような。そんなわけで片想いっぽいけどそうでもないのでした。
 こういう双方向片想いって萌えですよね!