海馬瀬人とは
2009/5/24


 彼は時に優雅で、また別の日には粗野だった。優しく微笑んでいたかと思うと、背の凍るような笑みを浮かべもした。子供好きに見えた。だが人嫌いのようでもあった。
 彼は一人の孤児であり、また大企業の社長だった。弟を溺愛しているようで、しかしそれは自己愛にも近かった。ネバーランドに生きるピーターパンであり、彼を置いて大人になったウェンディでもあった。
 友人は、少ないようだった。恋人といったものにも、あまり縁が無いように見えた。だがいつでも彼の周りには何かしら人が集まっていた。彼は人目を惹く存在だった。
 海馬瀬人とはなんだったのだろうか。私は彼を遠巻きに見ていた。彼は恐ろしく、慈愛に満ち、強く、弱く、そういうものだった。機械のように冷たく、人間らしい脆さを持ち、いつまでも変わらぬ姿で、ある日唐突に姿を消した。彼はなんだったのだろうか。彼は今どこにいて、何をしているのだろうか。
 彼は二面性の人だった。良きものであり悪しきものだった。良き彼は平和を好み、貧困を厭い、人のために身を削った。悪しき彼は闘争を好み、浪費を旨とし、人を踏み躙って歩いた。彼に中間は無かった。彼の行動はいつだって極端だった。私の見る限り。
 彼は、卵を温める母鳥だった。自由に飛び、だが決して巣を離れられなかった。羽の合い間に空気を暖め、じっと耐えて蹲る鳥だった。
 しかし、彼はまた彼の巨龍だった。彼が気のままに羽ばたくと、ちっぽけな存在は皆消し飛ばされた。彼の吐く言葉は滅びの光だった。彼が一言不可と言えば、何もかもが終わった。
 彼は優秀な技術者で、天才と狂人は、と言い表されるそのものだった。ある人は彼を傲慢だと言った。また別の人は真摯だと言った。強欲とも言われ、無欲とも言われた。臆病とも、自信家とも。私はその全てが正しく、そして間違っていると思った。
 海馬瀬人とはなんだったのだろうか。見れば見るほど、聞けば聞くほど、彼という像はぶれた。彼を知る人たちは皆違う彼を語る。そして実際、彼とは多様なものだった。マクベスを諳んじながら深淵を覗き、超人でありながらナイフの幻影を見ていた。彼は複数だった。ぶれる軸全てが実体を持っている、彼とはそういうものだった。
 彼の論理はいつでも正しく、それでいて支離滅裂だった。だが説得力だけは間違いなくあった。海馬瀬人とは、恐らく、そうあるべき規範の名だった。その固有名詞は自然に生じたものではなく、彼自身が選んで名乗ったものだったのだから。矛盾を抱えながら己の倫理を貫き通すもの、それが彼だった。
 海馬瀬人とはそういうものだった。彼は優雅な蛮人で、恐ろしい善人で、大人を嫌う子供で、子供を庇護する大人で、人の兄であり、孤独の人であり、偉大な愚者かつ傲慢な賢者だった。彼が今どうしているかは知れず、ただどこにいるとしても、彼とはそういうもののままだろうと思わせる過去を残していた。
 多分、海馬瀬人とは、こうしてあれこれと人に思わせることができるだけの存在だったのだ。海馬瀬人とは、その名を誇りにするただ一つの存在だったのだ。それがこの書き連ねた文の全てなのだ。これ以上言葉を尽くすまでもない。それは、誰もが本来既に知っていることなのだから。


the finis.

 ブログより再掲。
 (初出2009/5/13・再掲2009/5/24)