Act0.京都駅にて
『絶対帰るから!』  悲痛な叫びに瀬人は思わず受話器を耳から離した。電話の相手はモクバである。
『絶対帰るから、絶対家にいてよね』
 何度目か分からない確認に瀬人は息を吐いた。別に無理して帰ってこなくてもいいぞと、言うのはやめておく。それを言った結果が今のこの念押しの嵐なのだ。
「分かったか分かった、今日は残業も泊り込みもせず家にいてやる。だから、早く仕事に行け。お前が行かなければ何のための出張だ」
 先程新幹線が駅に着いたと掛けてきた電話だ。交通経路から考えるとまだ少し余裕のある時間だが、少々うんざりしつつ瀬人はそう告げた。
 尤も、うんざりするのは些か可哀想でもある。
『それにしたって、何で今日に限って出張なんて……ウチは誕生日休暇導入してるんじゃなかったの』
「従業員にはな。我慢しろ、役員」
 何しろ、今日は七夕、そしてモクバの誕生日であるので。



Act1.交野ヶ原の磐船神社にて
「それじゃあ、そこが磐船神社なんですけど、本部はこっちで」
 現地の駅までモクバを迎えに来た社員は、賑わう神社から少し離れたところで車を止めた。
「まぁお弁当食べながら打ち合わせでも」
 打ち合わせ。これから半日ほどこの七夕発祥の地だという交野ヶ原のあちこちを――正確には天野川沿いを――飛び回る、それについての詳細だろう。何しろ、このところ忙し過ぎてモクバは殆ど何も聞いていないままにここへ来てしまったのだから。どれほど忙しかったかと言えば、昨日は支社へ出かけたまま帰れず近隣のホテルに止まり、今日早朝に本社へ戻って最低限必要な荷物を持ち、そのまま家に帰る暇も無く新幹線に飛び乗ったくらいである。
 はあ、とモクバは溜め息を吐いた。誕生日だというのに、顔も見れていない。
「お疲れですか?」
「いや、疲れたっていうかさぁ。誕生日休暇がある筈の会社でなんで誕生日に働いてるんだろうと思って」
 今日の出張が決まった時からそれはもう何度も何度も気が乗らないと言い続けていたが、仕事は無情である。年々規模が大きくなる七夕サミットの祭りだの何だのは広告を打つ場所として申し分なく、それはモクバも認めざるを得なかった。そして開発室の都合で瀬人が広告塔として動けないならモクバが動かなければならないのは仕方が無い。だからモクバもそのサミットの協賛の仕事を取ってきた社員に文句は無い。むしろ褒賞を出したくらいだ。
 ただ、一つ不平を零したくなるのは、全国規模のそのサミットの会場が、どうしてまたこんな関西の私鉄しか通ってないような、しかも私市だか何だかその私鉄の本線駅ですらないような、つまるところ来るにも帰るにも時間が掛かり過ぎる、そんな場所なのかということだ。閉会後飛んで帰っても童実野町に着くのは十一時を大きく過ぎた頃。屋敷に着くのは滑り込みで十二時に間に合うかどうか。
 無論、なんでも何も、ここが七夕発祥の地だからに決まっている。仕方無い。仕方無い、理屈の上では。天野川って実在したんだ、と、目の前を流れる川を見ながらモクバは再度溜め息を吐いた。
 もう少し下流では、かささぎが橋を渡してもいるらしい。



Act2.交野ヶ原の星の里にて
 本部での打ち合わせを終え、モクバが連れて行かれたのは渓谷にひっそり開けた広場だった。見上げると、近くに大きな吊り橋が架かっている。
 その密やかな空間は、しかし今は賑わっている。先の神社は祭りの様相だったのだが、ここもまた屋台に笹にと人集めに余念が無い。そして、打ち合わせで聞いた限り、今日は交野ヶ原一帯、どこもかしこもこれと変わらないのだという。思えば、到着時の駅にすら笹が置いてあった。
「兄サマも一緒だったら観光気分だったのに」
 ぽつりと呟いた言葉に案内をしていたスタッフ――に扮した海馬コーポレーション社員――が振り返る。
「何か仰いましたか?」
「んー、仕事で来るとこじゃないよねって」
 擦れ違った親子の会話に聞き耳を立てれば、その昔この地には星が降ったのだという。星の降りてきた土地だから星の里。その星の里で七夕の祭り。実にロマンティックだ。一人で来たのでなければ。
 まだ時刻も早く親子連れが大半だが、夕方になればカップルも増えるという。出来れば夜に来たかった。二人で。
 出張の本題である製品紹介のため登る舞台を前に、モクバはまた一つ息を吐いた。



Act3.交野ヶ原の逢合橋にて
「あれ? 今の橋渡んなくていいの?」
 渡された資料の中に合った名所地図を思い出しながら、モクバは運転する社員に声を掛けた。
「あ、はい、混んでるので別の橋から渡ろうかと。もうちょっと行ったところに逢合橋というのがありまして」
 年に一度、織姫と彦星がそこで逢うらしいですよと彼は続けた。
「あー、それで逢合。あ、けどそしたら、かささぎ橋は?」
 それもまた織姫と彦星の使う橋の筈だ。
「……かささぎ橋は雨の日用です。多分」
「結構アバウトだね伝説も」
「天津橋、なんてのもありますよ。他にも、橋だけなら山のように。全部に伝説が残ってるわけじゃないですけど」
 言う間に、歩道を笹で飾られた橋が見えてくる。間違いなくあれが逢合橋だろう。だがしかし。
「なんていうか、車通り多いんだね」
「織姫と彦星も落ち着かないでしょうねぇ」
 慌しさに自分を重ねてみて、モクバは牽牛に同情した。年に一度の日を、落ち着きなく迎えるなんて。いや、モクバの場合は誕生日こそ年に一度とはいえほぼ毎日瀬人と顔を合わせてはいるのだが。
 天野川を渡る車の中、それでも誕生日は特別なのだ――だってそれは初めて兄サマに逢った日だ――と、恨めし気に、モクバは笹に吊るされた取り取りの短冊を睨み付けた。



Act4.交野ヶ原の機物神社にて
 それはそれは見事な、笹の大群だった。どの笹にも短冊や紙の飾りが吊るされ、今日が七夕の日だと強調している。神社というよりも笹置き場といったその様相に、モクバは感嘆の息を吐いた。
「凄い量でしょう? 近隣一帯から、願いの篭った笹が奉納されてきますから」
 宮司の格好をした男が、多分本物ではなく祭りのスタッフだが、得意気に笹を示す。貴方も吊るして見ますかと一枚渡された短冊を受け取って、モクバは控えのテントへ入った。瀬人と違いパフォーマンスというほどには派手で無い製品紹介まで、あと少し時間がある。モクバは机に転がっていたペンを取った。
「短冊かぁ。最近は書いてなかったけど、ご利益あるのかな」
 くるり、ペンを一回転させる間だけ悩んで、彼は短冊に願いを書き出した。
『今日中に逢えますように』
 願掛けのようなものだ。願掛けにしては、しつこいほど真剣に願っているとはいえ。
 モクバは一度テントを出ると、すぐ傍の笹の葉に触れた。どこに吊るしたものか、逡巡して少し高めの位置を選ぶ。織姫と彦星にはよくよく見てもらわないと困るが、人目にはあまり付きたくないのだ。今日中に、だなんて、書いた人間が何となく類推されそうな願いごとなど。



Act5.交野ヶ原の観音山牽牛石にて
 再び天野川の対岸へ渡って、モクバは妙な形の石の前に立っていた。それは巨石と言うほどではないが大きく、そしてどことなく牛の形に見えんことも無い。だから牽牛石なのだろう。
「さっきの機物神社と、この観音山公園は対らしいですよ」
 案内の社員が簡易ステージを組み立てながら言う。天野川を挟んであちらとこちら、機物がそのまま機織器に由来するとしたら、織姫と彦星に見立てるのは難しくない。
「その前に通った逢合橋、あそこで逢うそうで」
「へぇ。伝説って個々の場所でバラバラに言ってるんだと思ったら、ちゃんと一つの話になってるんだ」
「みたいです。それについては、特にイベントやってないみたいですけどね」
 橋ではなく、それぞれの場所で祭りが開かれているだけだ。しかも、こちらの祭りは規模も小さい。
「そういや、さっきの神社は笹も人も凄かったけど、こっちはそうでもないね」
 公園の中に出ている店も、きちんとした屋台を持っているところは少ない。
「こっちは市やサミットの主催じゃなくて自治会の主催なんですよ。要はただのローカルなお祭りです」
 それでも近年はサミットに便乗する形で大掛かりになりつつあり、それ故にモクバの宣伝ルートにもぎりぎり引っ掛かったのだが。
 組み終わったステージに、なんだなんだと少しずつ、人が集まってくる。ローカルな祭りにも、充分宣伝効果はありそうだ。



Act6.交野ヶ原の天津橋にて
「あ、ひょっとして雨?」
 最後のイベント会場に向かい、車両通行禁止の道を通るべく車を降りたモクバたちは、その降りようとした姿勢のまま暫し固まった。
「あー、雨ですね。小雨の内に急ぎましょう。会場は屋内ですから」
 ぽつぽつと地面の色が変わり始める。本格的に振り出しそうな気配に、通行人たちも慌て出し、そして残念そうに空を見上げるものがちらほらと現れた。七夕の日の雨は、得てして歓迎されないものだ。
「常設のかささぎ橋があるなら逢えないってことは無いのかなぁ」
「どうでしょう。取り合えず、天津橋では毎晩逢ってるみたいですが」
 指差された方をモクバが見る。前方の橋は、欄干の一部にレリーフが埋め込まれていた。小さなレリーフに付いたイルミネーションが、片や織姫、片や彦星を浮かび上がらせる。
「これ、毎晩なの? 今日だから特別にイルミネーションが作動してるんじゃなくて?」
「毎晩ですよ。有り難味減りますよね」
「減るねー。まぁ、毎日会えるのが一番には決まってるんだけど」
 もし現実に「年に一度しか逢うことを認めない」などと言われたら、モクバは全力で拒否し何とかその申し付けを撤回させようとするだろう。たった一日逢えないだけでも一日中早く逢いたいと考え続ける羽目になるのだ。一年など長過ぎる。
「ああ、少し走った方がいいかもしれませんね」
 会場はすぐ近くにある。ぽつぽつと雨粒の降る間隔が短くなりつつある中、モクバたちは走って橋を渡り行った。



Act7.交野ヶ原のかささぎ橋にて
 ぽつぽつと降り出した雨は、モクバが最後の仕事を終え会場を出た時には、頭を抱えたくなるような大雨に発展していた。バケツを引っ繰り返したような、とはまさにこの状況を差すためにある。傘を叩く雨の音は、まるで雹でも降っているかのようだ。
「ちょっとこの雨酷過ぎじゃない?」
「ですね。関西一帯大雨みたいです」
 答えた社員が、携帯を開き降水情報を調べる。そして、彼は実に申しわけ無さそうに言い辛そうに、もう一度口を開いた。
「関西から関東への新幹線、雨によるレール不具合で運行中止のようなんですが……」
 それは申しわけ無くもなるだろう。今日一日、どうにも帰りたくて帰りたくて仕方ない様子のモクバを案内していた身としては。
「……本当に?」
「はい」
 嘘だぁ、とモクバが天を仰ぐ。復旧を待っていては確実に明日だ。
「残念ですが、今日は近くにビジネスホテルがあるのでそこにでも泊まられるしか」
「ああ、うん、そうだね……ビジネスホテルってどこ……?」
「あそこの、かささぎ橋の向こう、右手に」
 小さなビルが示される。確認して、モクバは男に案内はここまでで充分だと告げた。彼だって、雨の中歩き続けるよりさっさと家に帰りたいだろう。
 社員と別れて、モクバは携帯を取り出した。短縮一番、瀬人の携帯へ掛ける。ワンコールでそれは繋がった。
『なんだ、もう終わったのか。予定より早かったな』
「そう? あー、進行そういえばちょっと早かったかも。それで、さぁ」
『帰って来れないんだろう』
 言いよどんだ言葉の先を、あっさりと瀬人が続ける。うん、と力無くモクバが答えた。
『それで、今はどこにいるんだ。もう会場は出たのか?』
「あー、ええとね、枚方? だっけ? そこの駅の近くの、ビジネスホテルに向かってるところ」
『そうか。……あぁ、橋のところか?』
 言い当てられ、モクバが面食らったような声を上げる。
「兄サマ地図見てるの?」
『いや』
 ぶつりと通話が切れた。ツーツーと機械音を立てる携帯を手にモクバが立ち尽くす。しかし、それも一瞬のことだ。
「おい」
 後ろから掛けられた声に勢いよく振り向く。
「っ、傘を揺らすな、水が掛かる」
「え、ええ、兄サマ? 何でいるの!?」
 むっと眉を寄せた瀬人がそこにいて、降りかかった雨水を払いながら、いては悪いかと呟いている。モクバは三度、何で、と繰り返した。
「開発室の問題が早くに片付いたから来てやったんだろうが。待っていたのでは今日中に間に合うかどうか怪しかったからな」
「え、でも新幹線止まってるんじゃ」
「止まったのは関西発の列車だけだ。向こうからこっちに来る分は問題無い」
 得意気に鼻を鳴らす様は間違い無く瀬人本人である。とうとう幻覚でも見えたかなという考えを、モクバは振り払った。



Act8.交野ヶ原のビジネスホテルにて
「それにしても雨の七夕にかささぎ橋で落ち合うとは、偶然にしては上出来だったな」
 シャワールームから出てきたモクバに、瀬人はそう声を掛けた。傘など気休めにもならないような雨の中ずぶ濡れになってホテルへ入った時には考える余裕も無かったが、少し身体を温め人心地を付けてみれば、実に七夕らしい再会である。
「織姫と彦星みたい。もう他人の願いを叶えてる暇は無いけど」
「オレは、お前の願いを叶えてやったがな」
 瀬人は相変わらず得意気である。モクバは笑って、それから、そうだ、と手を打った。
「それで思い出したけど、短冊に書いてたんだよ。今日中に逢えますようにって」
 雨は酷かったが織姫と彦星も無事に逢えたらしい。常設のかささぎ橋がある以上、逢えるかどうかの心配は無用だったかもしれないが。何にせよ、願いを叶えてくれたことに感謝するのは変わらない。
「あ、でも、もう一つ願いごとあったんだ」
「もう一つ?」
「うん。兄サマにしか叶えられないから兄サマが叶えてね」
 場合による、と堅実な答を返した瀬人の隣へ腰掛けて、モクバは今日の本題を切り出した。
「誕生日。おめでとうって言ってよ」
 朝から――正確には数日前から――忙しく慌しくしていて、その言葉を聞きそびれていたのだ。
「言ってなかったか」
「うん」
「そうか。……おめでとう」
 もうじき今日も終わる頃、漸く望み通りの誕生日を迎えて、モクバは上機嫌に礼を言った。


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 めでたし、めでたし。