Tin Man’s Heart
2009/12/24


 海馬瀬人は悩んでいた。彼という人は頭脳明晰で身体能力も悪くなければ見てくれだって優れていて、十七の若さながらも大企業を切り盛りする社長業なぞをやりつけ、住んでいる家は豪邸で、彼に悩みがあるのなら世界中に悩みの無い人は一人もいないのではないかという人である。生い立ちに幾分難があり性格は少しばかり捩じくれているが問題はそれでもなく、では何が不満なのかといえば、彼は、世の中に不満を抱いていた。
 しかし、まぁ、世の中といっても色々ある。彼の会社の関わるところを彼に言わせれば児童福祉やら何やらにはまだまだ足りぬ点もあるとのことで、だが、今彼が悩んでいるのは、もっと個人的な話であった。
 彼は、世の中の恋愛主義というものに悩んでいたのだ。
 といっても、もうじきのクリスマスをともに過ごす相手を捉まえられそうにないだとかそういうことではない。先に述べた通り彼という人は一見すると恋愛の相手には願ったり叶ったりと見えるので、彼がその気になれば恋人などというものは十でも二十でも幾らでも作ることができるだろう。
 しかし肝要なのは『その気になれば』ということなのだ。彼の悩みというのは、彼が恋だの愛だのというものを、全く理解できぬことであった。
 おまけに、理解できぬのは精神的な部分のみではないときている。彼は十七という年頃で、にも関わらず申しわけ程度に通っている高校のクラスメイトたちが回し読んでいるようなアダルト雑誌の類へ一つの希求心も感じず、誰もが振り返るような美女を見てもただ女という性別の人間が一人いるとしか思わないのだ。
 彼は、初め、自分がそうであることを特に気にした風ではなかった。彼の無関心は同年の男たちにはからかいの種であったが、そのからかいも陰湿な性質のものではなかったから、彼も聞き流して終わりにしていたのだ。
 ではますますもって彼は何故悩んでなどいるのかということになる。興味が無く周囲の声も気にならないというのに、世の恋愛主義の何や彼の不都合たらんか。単純なことである。
 彼は、確かにそういったものに興味が無く興味が無いことを気にしてもいず、ほんの数分前、放課後の教室で気ままに一人本なぞ読んでいた時までは、恋愛主義がどうこうとさえ考えていなかった。だが、たった今、彼に向かい恋愛主義を体現したようなものが、彼の無関心を無視して押し寄せてきているのだ。
「もうすぐクリスマスだし、言うだけでも言っとくかな、なんて」
 有体に言えば、その言葉を聞いた瞬間に、彼の悩みは始まったのだった。


 世の恋愛主義を口実に彼へ好いているということを伝えたのは、何の因果か、以前アダルト雑誌を差し翳しながら彼の無関心を笑った同年の男子生徒であった。傷付いたり焦ったりということはしていなかったがそれを覚えていた彼は、ふと思い付いた疑問に首を傾げる。
「城之内。オレの性別を知っているか?」
 彼の問いは金色頭の男子生徒――城之内――の心を刺したらしかった。
「どっからどう見ても男じゃねぇか。クソ、遠回しな言い方すんなよ。男に好かれるなんて気味が悪いって、はっきり言やいいだろ」
 返答を聞き、彼は自分の質問の意味が取り違えられたのに気が付いた。目の前の金髪は悪態を吐きながら頭を垂らしている。
「あぁ……そういう意味ではなくて。前にお前がこれ見よがしと見せびらかしてきた雑誌には、お前が言うところの酷くお前好みでグラマラスな女が載っていたと記憶しているが、ああいうのが好きなのではなかったのか」
 そうなのだ。この城之内という男の好みは、彼とは全くの正反対である筈だった。健康的な小麦色の肌に、熟した果実を連想させるような身体付き。抱き締めれば腕の中に納まるような小柄さ。明るい笑顔。そういったものが、男の好みである筈だった。対する彼は、城之内自身に色の白さを不健康だと笑われたことすらあるのだ。男の身体にたわわな果実が実るわけも当然無く、かといって逞しいかといえばそうでもなく、なら小柄かといえば背丈ばかりはひょろりと長い。笑顔に至っては更に絶望的で、嘲笑う高笑うといったものを除けば、途轍もなく大袈裟に表現しても「少し微笑んだ」と書くのが精一杯という有様である。
「そりゃ、好みはああいうのだけど。でも、好みでも好きになんないことはあるし、好みじゃなくても好きになっちまうこともあるだろ」
「そういうものなのか」
 彼は知らぬのである。人を好くことも知らねば何が好みだと考えることも知らぬ彼にとって、男の言葉はさっきから一々不可思議なことばかりであった。
「そういうモンだろ」
「そうか」
 彼が黙り込むと男も黙った。放課後の教室に気まずい空気が立ち込める。一度閉じた口を開き直すのは、どちらにとっても勇気が要った。どこぞの運動部員が張り上げる声や下校の生徒達のざわめきをビージーエムに、先に勇気を示したのは彼だった。
「城之内。お前はさっき、男同士を気味が悪いと思うのならと言ったが、オレは別にそうは思わない。だが、オレは気味が良いとも思えないし、もっと言うと、それに対して、本当に、一片の思いも浮かんでこない」
 え、と、男が頓狂な声を上げた。
「男同士を男女に置き換えても女同士に置き換えても同じだ。オレは、そういう、愛するだとか愛し合うだとかいう概念を、一切理解できない」
 城之内はもう一度おかしな声を上げた。男はからかったくらいだから彼の無関心を知ってはいたのだが、そんなものは所詮人目を憚った振りに違いないと考えていたのだ。本心から恋愛やそれに付随する行為に何も感じない人間がいるとは、男は思っていなかった。
「それ、断る口実に言ってるんじゃなくて?」
「残念ながら。そもそも、ただ断るだけのことに口実など必要ないだろう」
「じゃあなんで今の話したんだ?」
 男の問いに、彼は再び首を傾げた。何故か。何故だろう? なるほど、言われてみれば断るという動作には口実同様真実も必要が無い。彼という人は容赦の無い性格の人でもあったので、普段の言動に照らし合わせてみれば思い浮かぶ断り文句など幾つでも挙げられるというものだ。「そうか、だがオレは嫌いだ」「お前と付き合うことになんの生産性も見出せない」。酷い話だが、こんなものこそ彼の返答としては相応しいところだろう。既に書いたことだが、彼は少しばかり性格の捩じくれた人なのだ。
 首を傾げ続ける彼を見て、城之内はううんと一唸りした。
「なぁ、ところでオレはコレ断られてんの? それとも返答待ちしてればいい?」
「え? あぁ、返答か……」
 虚を突かれ我に返った彼は、そこでまた思考の淵に沈んでしまった。全く彼の明晰な頭脳はどこへ行ってしまったというのか、彼はこの不慣れな恋愛という題材をちっとも処理できないまま時間を経過させている。
「あのさ、オレの言ってることが理解できなくて、理解できないから断ることも承諾することもできないってんなら、取り敢えず試しってことでクリスマスまで付き合ってみねぇ?」
「試し?」
「そう。クリスマスまでっつったけど、お前が嫌んなったら途中でやめてもいいし。解んないなら実際にやってみりゃいいだろ。やってみて嫌だったらそん時には振ってくれ。そんで、もしこういうのもいいなって思ったら、多分それが好きってことだよ」


 そういうことになったもので、あれから一両日が経ったが彼の悩みは継続している。クリスマスだから言った。取り敢えずクリスマスまで。その真意を彼はやはり理解できない。どうして行動の基点が自分自身ではなくたかが季節の一行事の上にあるというのか。その程度のものに縛られるような気持ちは、本当に真剣なものだろうか。
 私室へ押し掛けてきた男は些細なことを面白おかしく話す天才だったが、その話も彼の耳には半分ほどしか入ってこない。時折触れてくる手のひらの温度は寒い冬場に心地好かったが、同じように触れてみることはできなかった。
 海馬瀬人は悩んでいた。彼の悩みは少しばかり形を変えていたが、彼自身はまだそれに気付いていない。初め恋愛主義に踊らされた男の迷惑さに悩んでいた彼は、今、恋愛主義に踊らされた男の誠実性を気にして悩んでいる。


 クリスマスがやってくるのは早かった。
 試用期間が終わる日の朝、彼の枕元にプレゼントが置かれていた。緑の包装紙に赤いリボン。見るからにクリスマスの贈りものであるそれに彼が手を伸ばす。すると箱はひとりでに弾けて辺りに薄い煙と紙吹雪を撒き散らしながら消えてしまった。幻覚でも見たのだろうか。敷布の上、箱のあった位置に彼の指が触れる。空を切るような感触がして、彼は目を覚ました。
 もしもサンタクロースが実在するのならば、前の晩にそう思って眠りに就いたからであろうか。彼が欲したのは物理的なものではない。恋だの愛だの、そういうものを理解できる心が彼は欲しかった。彼に愛への具体的な興味が湧いたわけではないが、今日出す答が承諾と拒絶のどちらにせよ、知らぬままに答えるのはあまりにも不実なことのようで、それが彼は嫌だった。
 そういう精神性のものを欲したからあのように夢の中で贈りものを受け取ることになったのかもしれない。だとすれば自分は願ったものを得られたのだろうか? 彼は自分の胸に手を当てて考えてみたが、やはり何も変わっていないように思える。落胆し彼は寝台を出た。
 だが、本当は、彼は何も落胆する必要などないのだ。相手に誠実さを求め己も誠実でありたいと思う心は言うまでも無く恋する人のものである。彼の問題はそれを欠片も自覚していないことだった。
 またも冒頭で紹介した彼の人となりを思い出して欲しいのだが、彼の生い立ちには幾分難があった。そして実のところ今に至るまでの間に彼は一度心を病んでいる。彼という人は献身的で情も厚ければ面倒見だって良くて、恋でこそないながらも家族や友人を愛することには惜しみなく、そういう少年だったのだが、彼はそういう自分のことを全て忘れてしまっているのだった。
 彼は忘れたままクリスマスを迎えた。夕方まで仕事をして過ごし、そのあと屋敷へ帰って城之内を待った。試用期間の結果を聞きにきた金色頭の男は、緑の包装紙に赤いリボンが掛かったプレゼントボックスを抱えていた。
「最初に聞きたいんだけど、お前、今もう結論出てる?」
「いや」
 彼は正直に答えた。この数日をともに過ごし、それは嫌でなかった。だが愛しているかと問われれば、彼にはまだどう答えるべきかも解らぬのだ。
「あれから考えてみたが、やはりオレには好きだとか嫌いだとかの感情を理解できない。お前は嫌だったなら振れと言ったが、今日まで過ごしてみて、オレはお前がいることを嫌だとは思わなかった。だが、嫌でなかったからというだけで、解りもしないのに応えるのは誠意の無いことだと思う」
 彼の返答に城之内が頷き、箱を抱えたのとは別の手で頬を掻いた。
「あのな、オレも考えてたんだよ。お前は解らないって言いながらそういう真面目な話をするから。お前は本当に理解できないものは不要なものとして捨ててくタイプだと思ってたのに」
「そうだな」
「うん。でさ、考えたんだけど、多分な、お前が理解できないのって感情の方じゃないんだ。それを理解してるってことを理解できてないんだ、お前は」
 男は持っていた箱の包みを解き出した。赤いリボンがほどかれ緑の紙が広げられる。小さな箱の中には、ハートの形をしたチョコレートが一粒入っていた。
「つうか、お前自覚無いのかもしんねぇけど結構態度に出てんだよ」
「何がだ。それに、そのチョコレートはなんだ?」
 彼は箱の中のハートをよくよく見たが、何度見ようとそれはただのチョコレート一粒である。しかしたった一粒厳重に包装されていたからには、何かあるのだろう。彼は回答を求めて城之内の顔を見た。
「なんだと思う? アレだよ。お前の心、に、これからなるやつ」
「心?」
「そ。まあ、なんつーかさぁ、ぶっちゃけお前、オレのこと好きだろ」
 言い終わりに、男はハートのチョコレートを口に銜えた。会話の流れからすればそれは男ではなく海馬瀬人の心で、当然、食べるのも彼である筈だ。男の行動は一見不自然である。だが真意を問おうと口を開いたが早いか、彼はその行動の意味を理解させられた。
 彼はくちづけられていた。開いた唇の隙間から甘い塊と軟体動物のような柔くて硬いものが挿し込まれてくる。驚き後退りかけた身体も、頭も、がっちりと抑えられていてちょっとやそっとでは逃れられない。とはいえ彼も男であるからして本気で抵抗すれば拒絶など簡単なことに思われるのだ。しかし彼はすっかりと融け切ったチョコレートを全て嚥下してしまうまで、そのあとも、大人しく押さえ込まれるままになっていた。
 チョコレートが無くなったあとのくちづけは、激しいものではなかった。軽く唇の表層で触れるだけの時間が長く続いた。彼の頭が酸欠でもないのにぼうっとし出して、そこで漸く唇が離された。
「ぁ、な、なにを。今のは」
「いいから、胸に手ェ当ててみろ。そんで、そこの鏡で自分の顔見ろ」
 彼は混乱しながらも言われた通りにした。まずは自分の胸の、心臓の辺りを押さえてみる。今朝夢のあとでそうした時には何も変わっていなかった場所を、彼は押さえた。そして異変に気付き、慌てて傍の姿見に向かった。磨き抜かれた曇り一つ無い鏡に、頬も耳も真っ赤にして、早鐘を打つ心臓を抑えた人の姿が映っていた。
「心を手に入れた感想は?」
 掛けられた声に、彼は振り返った。男が笑っていたが不快ではなかった。むしろ彼はそのことを嬉しく思った。そして、そういう風に思うのは初めてではなかった。
「どうやら、初めから持っていたようだ」
「お、自覚したな。そんじゃま、改めて」
 コホン、と金色頭のサンタクロースが咳払いをした。
「取り敢えずクリスマスまで、なんて、期間限定するのやめにしねぇ?」
「あぁ……そうだな」
 それから数日経って、海馬瀬人はまだ悩んでいた。だが今度の悩みは所謂惚気以外の何ものでもなかったため、その後の話をここに記すのは割愛させて頂くこととする。
 だいたい付き合い始めの二人の悩みなど、書かれるまでも無く簡単に想像が付くだろう。賢明なる読み手の皆様には、ただ彼が今、些細なことに一喜一憂しつつもどうやら幸せにやっているらしいということだけ、お伝えしておこうと思うしだいである。


the finis.

 クリスマスだからいつもと違う感じでと思ってエセ文学風にしてみました。城之内君の科白が入る度にエセ文学のエセ度が上がることに後半気付きましたが手遅れでした。まぁ、これはこれで! 最近実験的な文体をやってなかったので書くのは面白かったです。