果ての先へ
2010/12/2


「引退するんですって?」
 女は、応接室のソファに座るなり、前置きも何もせず、真っ赤な唇を動かした。対面のソファに腰掛けようとしていた男が僅かに眉根を寄せる。
「耳が早いな。さすがは孔雀舞とでも言おうか」
「こっち界隈じゃ結構な噂よ。海馬瀬人がデュエルをやめるって。アンタで賭博やってる奴ら多いから」
「オレは競走馬ではないぞ」
 無論、表立ってではない違法賭博だ。彼女の口の軽さは、同じ世界を視界に収めるものへの連帯感ゆえだろう。端的に言えば、孔雀舞は海馬瀬人を気に入っていたし、その噂を聞いて彼を心配してもいた。
「……引退、なんていうからもっと憔悴してるのかと思ってたけど。意外に元気そうね。いい顔色してるじゃない」
「そうか」
「これなら城之内たちの方が酷かったわ。慢性睡眠不足みたいな顔しちゃってさ。アンタはむしろよく眠れてそうよ」
 女の言葉に、海馬はほんの少しだけ口角を持ち上げて見せた。
「眠れているからな」
「あら」
 あの激しく美しく輝かしかった夢の舞台が閉幕してから数月後。全て嘘だったのだと言われても驚けないような非現実的な日々に終止符が打たれてからは、数週後の朝だった。


「で、早々に話を逸らしておいてなんだけど、本題はなんなのかしら? アタシを呼ぶってコトはデュエルかカジノ。どっち?」
「デュエルだ。簡潔に言うと、デュエリストを職業にしたい。スポーツ、或いは将棋や囲碁にプロがいるように」
 アイシャドウに彩られた瞼が、ぱちぱちと瞬いた。本気? と、疑るというよりも確認するような声音が言う。
「冗談でこんな話をすると?」
「しないわね。アンタはそういう冗談は言わないタイプよ。アタシの知る限り、だけど」
 足を組み替え、ふうと息を吐いて女は言葉を続けた。
「計画は今どの辺り?」
 話を聞くつもりはできたということだ。応接用のローテーブルに海馬が資料を広げる。その中から、色刷りのパンフレットを一冊、舞は取り上げた。
「プロになることを諾とするデュエリストが揃えば、リーグはすぐに開ける。初めの内は海馬コーポレーションとインダストリアル・イリュージョン社がスポンサーに付くが、一年でマーケットを成り立たせて見せる。そうなったら勝手に好きなところと契約して構わない」
 二つの勝気な視線がぶつかり合う。
「つまり、アタシにショーをしろってのね。思いっ切り派手で、人目を惹くような」
「もの分かりが良くて助かる。あとは、やるか、やらないか、だ」
 舞がものを受け取る形に手のひらを突き出した。なんだ、と、海馬が怪訝な声を上げる。
「契約書。読むから貸して」
「パンフレットくらい見終えてからにしてはどうだ」
「いいのよ、アンタのやりたいことは解ったから。重要なのは理念より実際の契約内容だわ」
 パンフレットを置き、海馬の出した契約書を受け取る。一通り文面に目を通し、舞は再び手のひらを突き出した。
「今度はなんだ」
「ペンを貸して頂戴。サインするから。この話乗った」
 赤い唇が弧を描く。海馬もまた満足げに胸に刺していたペンを彼女へ渡した。
「随分こっちに有利な契約ね?」
「まずはデュエリストを集めなければならないからな。それに、誘いを掛ける全てのデュエリストに同じ条件を提示しているわけでもない」
 契約金からスポンサー解除の条件まで、そのデュエリストをどれくらい獲得したいかによって変わる。有利な契約なのは、それだけ獲る価値のあるデュエリストだからだ。
「お高く買ってくれてどうも。ところで、最初はこういう形で始まるとして、本格始動後にプロになるにはどうしたらいいの? プロの世界は自己登録制かしら、それとも招待制かしら」
「今だけ招待制だ。以降は、スポンサー登録をしている企業の目に適ったデュエリストがプロだ」
「登録企業は一年で増えるのよね? だったらいいわ、知り合いにも面白そうなことが始まりそうよって声掛けといたげる。でも」
「でも?」
 前のめりの、詰め寄るような姿勢を女は取った。
「タイミングが悪いんじゃないの? デュエルキングもアンタも引退なんて」
 海馬が顔を顰める。彼女の言葉には、表面上、嘘があった。
「武藤遊戯は引退しない。プロの件も承諾済みだ」
「だけど中身アレじゃないんでしょ」
 舞は、はっきりと、二人の遊戯について聞いたことがあるわけではない。それでも、今の遊戯のデュエルがこれまでと異なっていることは解る。デュエリストなら、きっと、誰にでも解ることだ。
「……今の遊戯は、ショーマンには向いてないわよ」
「承知の上だ。だから急いでいる。向いていないことが明るみになる前にプロというものを確立させる」
「アンタが引退しないってのは?」
 ふと、せせら笑うような調子の息が吐き出された。
「誰がリーグの運営とショー性の高いソリッドビジョンシステムの開発を?」
「……それもそうね」
 舞が肩を竦める。彼女はそれ以上の追及をやめ席を立った。短くタイトなスカートの皺を伸ばし、契約書の控えをハンドバックに押し込んで、ドアに向かう。
「ありがとね」
「何がだ」
「最近さ、ちょっと覚悟してたのよ。引退をね。暫く優勝無いからさ」
 デュエルはスポーツではない。舞は、デュエルキングやその周囲の面々より七つばかり年嵩だったが、年齢は引退の要因にはならない。だが、新しく出るカードや戦略に付いていけなくなれば、それ以降を勝っていくことは難しい。舞は決まったカードを主軸に据え、そのカードで勝つというスタイルを崩したがらないデュエリストだった。
「悩んだんだけど、結局、純粋に強さを追い求めるデュエルはアタシには向いてなかったんだわ。遊戯ともう一度デュエルをしてみたいかって聞かれたら、多分、そうじゃない。けど、アンタとは一回やってみたかった。可愛いしもべちゃんを三体、どっちが先に並べられるか勝負するの。楽しそうでしょ。アタシがしたいのって、そういうデュエルだったのね」
 一緒にするなと言うこともできた。海馬は強さを追い求めるデュエリストだった。だが彼は何も言わなかった。彼は、強さを追い求めると同時に、これと定めたカードを持ちそれで勝つことに拘ってもいた。
「ショーは得意よ。だから、ありがと。お陰で、アタシ、もうちょっとの間あのキラキラした世界にいられるわ」


 彼女を見送ったすぐあとだった。応接室に残り広げた資料を片付けていた海馬の許へ、秘書が来客の報せを持ってきた。
 予定にあった来客だ。海馬は資料をテーブルに置き直し、ペガサス・J・クロフォードをこの部屋に呼ぶようにと秘書へ命じた。秘書が部屋を出る。そして、数分して、男が一人案内されてきた。
「ハロー、海馬ボーイ。受付でミズ舞孔雀を見掛けましたヨ。彼女はユーに取られてしまいマシタか?」
「つい先ほど海馬コーポレーションとの契約が確定した。インダストリアル・イリュージョン社で使うことは諦めるのだな」
 大仰に頭を抱え込みながら、ペガサスは先ほどまで舞のいたソファに腰掛けた。鬱陶しい演技はやめろと海馬が言葉を投げ付ける。
「鬱陶しいとはあんまりデース。……彼女は、何か言っていマシタか? デュエリストとして」
「タイミングが悪い、と。だが遅らせることはできまい。急ぐ分には、可能な限り急いでいる」
「タイミング、デスか。ユーの引退のことを?」
 海馬は頷き、それから首を横にも振った。引退のことで舞がそう言ったのには違いない。だが、彼女の言った引退は二人分だった。
「デュエルキングがもう一人の方でなくなったことについても。今の武藤遊戯はショーには向いていないと。だが、それこそ、タイミングでどうにかなる問題ではない」
 俯き、真面目な顔をしてペガサスがふむと唸る。眉間に皺を寄せる表情は、滅多と見ない類のものだ。
「しかし、彼女の言うことも一理ありマース。カリスマの不在は競技人口の低下を招く。この場合、世代の交代で新たなカリスマが生まれるわけでも無い。全盛期だった筈の二人が、揃ってやめる。いえ、一人はやめるわけではありマセンが、以前のようなデュエルをしなくなる。これは重い」
「だから相談している。不在を、どう埋めるか? 台本を書け。マジック・アンド・ウィザーズを流行らせた時のように」
 マーケティングに関して、男の手腕を海馬は買っていた。でなければ、どうして舞の言葉を伝えることをしただろう。当てにならない相手に話すより先に、自社でどうにか解決する方法を探したに違いない。
「私にあの眼はもう無いのデスが……そうデスね、不在を逆手に取るというのは?」
 顔を上げ、今や空洞である筈の左眼で海馬を見据えながら、ペガサスはそう言った。
「武藤遊戯に喋らせなサイ。実は今までデュエルをしていたのは自分ではない。彼は戸籍上の問題で大会にエントリーすることができず、そのため自分が名前を貸していた。と」
 一拍置いて、海馬が唇を笑みの形に歪めた。
「戸籍、か。事実には違いあるまい。鬼籍の人間はエントリーなどできないからな。それで? 今までただ名前を貸していただけの遊戯が表に出て来た理由は?」
「名前を貸していた相手がいなくなってしまったから。事情を知らない人間に解りやすく言うなら、死んだから、デショウね」
「傍で見ていて興味を持った、今度は自分でやってみたい。か?」
 イエス。言って、ペガサスが深く頷く。
「彼の遺志を継ぎたい、だけど自分は彼ではないから……デュエルキングである筈の武藤遊戯が何故かノーシードで出場する大会の、開始前インタビューの出来上がりデース」
 ペガサスの視線を受けながら、海馬は浅く二度首を縦に振った。そういう答を期待していたのだ。そういう、情に訴え掛けるような発想は、海馬自身からは出て来ない。
「幾らか口裏を合わさなければならない連中もいるが、台本としては悪くない。大衆が好みそうなお涙頂戴のエンターテインメントではないか。問題は、遊戯がこの台本で行くことを了承するかだな」
「それはユーの頼みようデース。マァ、問題とはならないデショウ。渋るようなら魔法の呪文を唱えなサイ」
「魔法の?」
 幾ら幻想趣味のある男でも、この流れで気休めのまじないなどを言いはしないだろう。ではなんだというのか。訝る海馬に、ペガサスが続きを告げる。
「遊戯ボーイに諾と言わせる魔法の呪文デスヨ。遺跡でのデュエルの顛末は聞いた、だが、自分は、あの男以外をデュエルキングと認めたくない。……今の遊戯ボーイは人の心情を踏み躙れるタイプには見えマセン。これで充分では?」
 今度は一拍でなく間が開いた。眉を寄せ、目を瞑り、一つ溜息を吐いて、海馬が唇を開く。
「それもまた……事実には変わりあるまい」
「嘘ばかりでは見抜かれマス」
 もう一度、海馬が溜息を吐く。
「遊戯自身もデュエルが強かったのは幸運だな」
 意図的に、彼は話題を逸らした。どういう意味かと、ペガサスがその逸らされた話題に乗ってくる。
「大会が終わった時、替え玉であったことへの風当たりは弱いだろう」
「アー……それは同感デスが……風当たり、というならユーの方では? いまや対人対戦型ゲームはマジック・アンド・ウィザーズの一人勝ち状態。プロリーグが成功すれば、それはより確かなものとなる」
 部屋には二人しかいないというのに、ペガサスは無意味に声を潜めた。
「邪魔は、必ず入りマスヨ。過去を持ち出す輩も、出てくるかもしれマセン」
「想定はしている。海馬コーポレーションの土台は、中傷ごときでは揺らがない」
「海馬コーポレーションはそうデショウ。私が心配しているのはユー自身の方デス」
 ぱちぱちと、海馬は瞼を瞬かせた。
「オレ自身?」
「イエス」
 ペガサスの心配は、海馬にとって全く思いもよらないものだった。といっても、自身に向けられる中傷を想定していなかったわけではない。そのようなものを、自分が気に掛けると思われていたことが、彼にとっては意外だった。
「……以前、オレや貴様に、結束の力だの一人で無いことの意味だのを、説いた奴がいたな」
 彼には珍しい思い出話が、微かな笑みとともに語られる。
「恐れるものなど何も無い。オレは、一人でそれに立ち向かうわけではないのだから」
 大勢のデュエリストがいる。ともに夢を追う弟がいる。こうして計画を練り合う相手もいる。彼らが、いるということの意味を、教えた男がいた。
 瞬間と言えるほどに短い期間だった。だが、その瞬間は今でもまだ彼の中で続いているのだ。


 見送りをせがむ男のために、海馬はホールへ降り、エントランスを出た。回された車に乗りペガサスが去っていったのを、確かめるだけ確かめてすぐに踵を返す。
 夕暮れの太陽がビルの向こうへ沈みつつある頃だった。自社ビルの縁が赤く照らされているのを、彼の青い瞳がほんの一時視界に入れる。
「社長」
 ホールへ戻った海馬に数人の社員が走り寄ってくる。ペガサスとの会談が終わるのを、終わってからは見送りを終えた海馬が戻ってくるのを、待ち構えていたものたちだった。
「利権の件で話があるとA社の会長から会談の申し入れが」
「申し入れですが、こちらにも。K社から、その、先代の件でと」
 ペガサスの言った通りだった。海馬コーポレーションにインダストリアル・イリュージョン社の会長が招かれたことが、邪魔をしたいものたちに行動を起こす契機を与えたのだろう。プレス発表もまだだというのに、この速さは、どれほど彼らが邪魔をしたがっているか表しているようなものだ。だが。
 恐れるものなど何も無い。果ての無いこの道の先に待つものがいると、それを忘れない限り、確かなことがあるのだから。
「スケジュールを調整しろ。両方と会う」
 言ったな。部下に指示を飛ばしながら、心の中、彼は呟く。
 言ったな。憎しみを束ねてもそれは脆いのだと。怒りや憎しみが真の勝利を得ることは無いのだと。だったら、そんなものが幾ら束になって掛かってきたとしても、オレは負けなどしない。
「ですが、社長、A社の利権と言いますと……」
「狼狽えるな。出端から折れるわけにはいかないだろうが。こちらとて特許のカードは持っているのだ」
 恐れるものなど何も無い。オレは一人ではないのだから。この果ての無い道をオレが歩き続ける限り、その先にお前はいるのだから。この道の果ての先にお前はいて、そこへ辿り着くまで、オレが歩むのをやめることなど、あり得ないのだから。
「K社に関する資料を纏めろ。『先代』の資料の中からな」
 恐れるものなど、何も無い。


the finis.

 一つ前のが笑い話だったので、今度は真面目に原作終了後。プロリーグとか、GXなどの原作後世界を少し意識してみました。
 瀬人は、友情の大切さとか、憎しみを束ねることの危うさとか、結束の力とか、これでもかと否定してましたけど、でも心に留めてなかったわけではないと思うのです。という話でした。