A violet -a demon seed-
2006/7/31
最近、昔のことをよく思い出す。昔、海馬の当主が養父であった頃のことだ。
当主が変わってから十年。オレは二十に、兄はじき二十五になる。
昔と今では状況が違うけれども、オレの心情はどちらもそうそう変わらない。だから、最近はよく思い出すのだ。同じ屋敷に住みながら離れ離れであったあの日々のことを。
あの頃、オレは夜が怖かった。夜は恐ろしいものと共に訪れるものだった。夜になるとオレの心には悪魔が棲み付き、得体の知れない感情で叫びだしたくなるのだった。
悪魔はオレの心の中だけではなく、兄の身の上にも現れた。幼過ぎた子供にはそれが何なのか解らなかったけれど。
今はどちらの悪魔の名も正確に理解することができる。
jealousy:嫉妬、妬み、焼餅
child abuse:子供に対する(性的)虐待
当時、夜間に兄の部屋を訪れることは固く禁じられていた。他でもない兄自身に拠ってだ。しかし幼い子供にその理由など察する術も無い。幼くなかろうと、そうかもしれないが。日中あまり側に居られない淋しさは、理由があるから禁じているのだということさえオレに忘れさせた。
ある夜、オレはその禁を破り、夜更けに兄の部屋を訪れた。扉の隙間からは明かりが僅かに漏れ、まだ起きているのであれば声を掛けて部屋に入れてもらえるかもしれないと嬉しくなった。扉に近付き、それを叩こうとした時聞こえて来た声が無ければオレはそうしていただろう。
声は養父のものだった。聞き間違いかもしれないと、もう一歩扉に近付いて、そして聞こえたのは兄の声だった。
始めは兄の声だとは思わなかった。苦痛か恐怖か或いはそれらに類似する何かに対面した時に人が上げる、所謂悲鳴のような、そんな声を普段の兄と結びつけるのはいたく困難だった。
兄が酷く厳しい教育を受けていることは知っていたし、それは時折折檻を伴うものであることも承知していた。だがその声は尋常ならざる響きで持って、普段のそれらとは違うことが兄の身に降り掛かっていることを想像させた。
恐る恐る、オレは扉を開いた。音を立てないように、爪の先ほどの隙間だけを。除いた先には声が示していた通り兄と、養父が居た。
体毛の濃い、醜い肉の塊のような身体が兄を押し潰していた。兄の今より格段に華奢で小さく、そして今と同じくらい白い身体は憐れにもその肉の下で玩具か何かのように乱暴に揺すられ、病の人のように痙攣していた。それが意味するものをオレは知らなかったが、何か恐ろしいものを見てしまったことだけは直感で悟った。
そっと扉を閉めた。幸い、或いは不幸にも、二人はそれに気付かなかった。オレは自分の部屋に逃げ帰り、今自分が見たものは何であるのか震えながら考えた。
答が解ったのはそれから数年後のことである。その時はただあの恐ろしいもの故に兄は自分が夜にあの部屋を訪れることを禁じたのだと遅まきに理解しただけだった。
翌朝、朝食の前に再び兄の部屋を訪れてみたが、兄に別段変わった様子は無かった。オレはそのことに安堵したが、今なら解る。オレはあの時安堵などすべきではなかった。その何一つ変わらない兄の様子こそが、あれが初めてではなかったのだと、あれは度々起こっていることなのだと知らせるものだったのだから。初めの一回であったなら、さしもの兄とて、言葉には出さずとも態度なり表情なりに、夜の暴挙に対する隠しきれない恐怖、ないし嫌悪を見せただろう。
兄に連れられ食堂に行き、養父とも顔を合わせて朝食を取った。兄は平然としていたが、むしろオレがその顔を直視できなかった。恐怖と、そして何か得体の知れない感情がオレにそうさせたのだ。
その夜からオレの下には夜な夜な悪魔が現れるようになった。
悪魔は養父が死んで兄が当主となったあともオレの心に居座り続けた。何故なら兄の身の上の悪魔も、消えることが無かったからだ。悪魔は一匹ではなく、複数居たのだ。
しかし兄の身の上の悪魔はやがて消えた。悪魔の抜け殻は今でもどこだったかの大病院でたくさんの管に繋がれ存在しているらしいが、悪魔の本体は、一旦は電気信号となって機械の中に封じ込められ、そして最後には完全にデリートされた。兄に飼いならされた状態で良しとしていればそうなることも無かっただろうに、所詮悪魔は欲の塊、人間を取って食うという夢を捨て切れなかったようだ。ともあれ、オレが思うのは、兄を裏切るから悪いのだということだ。
そうして兄の下からは全ての悪魔が消え去った。それなのにオレの心の中にはいまだに悪魔が残っている。おまけに日々その存在感を増しているという始末だ。
既に消えた悪魔のことなど気にしても仕方が無い。それはオレが感情の無い人形であれば正しい理論かもしれないが、不運にもオレは心に悪魔を飼う人間であるのでその理論は受け付けない。
ところで、最近悪魔に新たな名を付けてやるべきかオレは迷っている。
lust:(通例好ましくない)強い欲望、(過度の)性欲・肉欲、(罪とされる官能的)欲望
最近、ろくろく兄と会えていない。お互い忙しい上に意識して避けているのだから当たり前と言えば当たり前だ。兄がオレを避けている、と思われる、理由は判らないが、オレが兄を避けているのは偏にこの悪魔の所為である。
いい加減に観念して悪魔が自分とイコールであることを認めてしまえとも思うのだが、一度それをしてしまうと二度とこの心情を吐露させずにいることはできないだろう。果たしてそれがオレと兄、互いの為なるかどうか、それが問題だ。
情欲は火に似ていると思う。燻っているところに切っ掛けを与えると一気に燃え上がって炎となってしまう。そうなったら最後、もう元の小さな火種に戻すことはできないのだ。
だから隠している。しかしそれも限界が近いのだろう。一生を演技し通すことはできない。いつまでも幼い、害にならない弟の振りをし続けることはオレには不可能だ。
折りしも、今日このあとは兄と顔を合わすことが確定している。
勘を信じることにしよう。火種に酸素を与えてその本性を露わとするかどうかは、今から兄を見てその場で耐え難い衝動を感じたかどうかに任せようと思う。そう感じたのなら、恐らくそれこそが酸素であるのだから。
「顔を合わせるのは久し振りだな」
早くに帰宅したオレよりもまだ早く、兄は帰宅していた。瀬人様がお待ちですと言うメイドの声に急かされて来た食堂には、既に着席して寛ぐ兄の姿があった。
「忙しかったから……ああ、兄サマも忙しかったよね。ちょっと痩せた?」
「気の所為だろう。お前が社外のことを一手に引き受けてくれて助かった」
「それくらいは任せてよ。開発室の様子はどう?」
「機械の仕上がりは上々だ。人間には暫く休息が必要だろうがな」
兄が新しくチームを組んで取り掛かっていた開発プロジェクトは今日の昼に仕上がったらしい。そしてオレの受け持っていた些末な事々も今日で凡そが片付いた。互いに会えない言い訳にしていた忙しさは無くなってしまったのだ。
「ところで、企画部のことだが……」
給仕が現れ食事が始まり、そして終わっても、兄は饒舌に喋り続けた。こんなことは珍しいのだが、その内容が仕事の話に一貫していることに妙な違和感を覚える。それは、確かに兄は仕事人間だが、話がそれのみなんてことは今までから考えれば有り得ない。多少脱線して何かしら別の話題になる筈なのだ。そもそも、普段饒舌に喋るのはオレの役目だ。
兄は気付いているのかもしれなかった。兄の目には火種すらもが見えるのか。
まるでオレに話す切っ掛けを与えまいとしているかのように兄は喋り続けた。したがってオレは自分の言いたいことを言う為に、無理矢理に兄の言葉を遮らなければならなかった。
「……何だ」
「あとで話が。兄サマの部屋に行ってもいい?」
「……今では駄目なのか。ここで話すのでは」
「別に、オレはここでもいいけど。兄サマは多分途中で場所を変えようって言うよ」
オレの言葉に兄は目を瞑った。瞼が微かに震えている。それを眺めていたら唐突に開いて、オレとは全く違う青い不思議な瞳と目が合った。
「解った。部屋で聞こう」
ちなみに酸素だが、確認するまでも無くそれは存在していた。
兄の部屋は古い時代の西洋貴族の住まいのようだといつも思う。屋敷全体もそれらしいところはあるが、ここは特にその傾向が顕著だ。仕切りの無い広い部屋に居室と書斎と寝室全ての機能を一緒くたに設けている。その造り自体もそうだが、何より家具の類は目を見張るほどに優雅だ。
寝台など、二、三人で眠れそうなくらいに広く、それはともかく幾重にもなったシーツや存在感を示す天蓋は、近代日本にはあまりに不似合いだ。ちなみにオレの部屋はこことは似ても似つかない。ベッドは簡素なデザインに近代的合理主義が詰め込まれた、所謂ウォーターベッドであるし、その他の家具も無駄を省き機能性追及に徹したものばかりだ。昔はオレの部屋も兄の部屋の廉価版のようなものだったが、それがオレに不似合いであるということは解っていたので、中学に上がった時今の状態に改装した。
その圧倒されるほどに優美な空間で兄は部屋よりもさらに優美に存在していた。
「話、とは」
兄は腰の低い椅子に座り、目の前の丸い円盤のテーブルに爪を立てていた。
「一つ目は、理由を聞こうと思って。兄サマ、最近オレのこと避けてたでしょう。どうして?」
盤上で爪を立てていた指が握り込まれた。
「気の所為だ」
「嘘。これにはその言い訳は通用しないよ」
「忙しかっただけだ。現に、今はちゃんとお前と居るだろう」
あくまで気の所為だと言い張るつもりらしい。恐らく、論議し続けても主張は平行線上を行き来するだけだろう。
「気の所為だというのならそういうことにしてもいい。でも、二つ目の話を聞いてくれることが前提だ」
「……話せ」
座っている兄のもとへ一歩近付く。いつの間にか随分と高い位置から見下ろすことになってしまっている。もっとずっと昔は、座ってもらわないと話をするにも見上げ続けなければならず、くたびれてしまっていたというのに。時の流れはオレを兄よりも大きくし、比例するかのように悪魔を成長させた。
不思議なのは兄に殆ど変わりが見られないということだ。表情が柔らかくなっただとか、そういう作用的な変化はあれど、肉体的には育ちも、無論老いも、していないように映るのだ。人が最も美しいのは、個人差はあるのだろうが、十七、八であるという。事実かどうかを確認したことは無いが、その時から変わらない兄の姿に、オレはその俗説の信憑性を見るのだ。
美しさを罪だと言ったのは誰か。オレはそうではないと思う。美しさは罪作りなのだ。責任転嫁かもしれないが、オレの心の中の悪魔を意識するだにそう思う。
「モクバ。話を」
「うん。二つ目は、理由を話そうと思って。オレが、最近兄サマを避けていたことについて」
オレの言葉に兄は、いい、と呟いた。
「聞きたくない」
「聞いてくれるって言ったでしょう」
責めるように言うと兄の顔が僅かに歪んだ。何も言わなくなったのを話を再開することへの了承と取って息を吸い込んだ。
酸素を。胸の内で燻る火種に酸素を。
「好き」
なんだ、と続けようとしたが、弾かれたように顔を上げた兄に驚いて言葉を切ってしまった。
「どういう……」
「ええと、あ」
「誰が誰を」
オレが完全に答える前に新たな質問がなされる。その様子は戸惑いそのものだったが、その種類は、困ったようなだとか、拒絶を滲ませてだとかとは違うようだ。少なくとも外面上はそう見える。
「モクバ」
「だから、I love youだよ。オレが、貴方を、愛している」
兄の手が机上から離れてその顔を覆った。まさか、と、嘘だ、が合わせた両手の隙間から聞こえた。
「嘘じゃない」
拒絶は、哀しいが構わない。しかし信じて欲しい。炎を隠し善良な弟を演じるのは、あまりにも骨が折れ苦しい作業であるから。
「拒絶しても構わないよ。そうすれば大人しく出て行く」
あぁ、と、てのひらという仮面の下から呻きとも感嘆とも付かないような声が発せられる。その意味するところは返答ではないだろう。そのような響きではなかった。
「お前が、オレを?」
「そう」
「逆では、なく?」
「逆?」
今度はオレが問い返す番だった。
「逆と言うのはどういうこと。兄サマが、オレを? 愛して、いる?」
表情は窺えないが、隠しきれていない耳が赤く彩られている。
「ねぇ、どういうこと。ちゃんと答えてよ」
「オレは」
兄の言葉は数秒の空白を待って再開された。
「お前を拒絶すべきだ」
「それは答じゃない。すべきかどうかではなく、するのかどうか、それが答だ」
いまだ顔を覆う兄の手を除けようとその手首を掴んだ。白く細い手首はオレの黒い手で簡単に一回りできてしまった。無理矢理に引き剥がすと兄は泣きそうに震えた吐息を吐き出した。
「薔薇かトマトのようだよ」
仮面を剥がれた兄の顔には常に無く血色が濃く現れていた。そしてオレは知るのだ。時に汚らわしい筈の悪魔も美しいものに昇華される場合があるのだと。
love:愛、性交、恋人
「どうして拒絶すべきだと思うの」
互いに火種を持っていて、それに酸素を与えてしまったのならそんなことは無意味ではないのか。
信じ難いことに兄はオレを愛しているという。だがさらに信じ難いことに兄はそれでもオレを拒絶すべきだという。
「オレは、もう隠さないよ。互いに愛しているというのなら、遠慮もしない」
兄の首が横に揺れる。強情な否定が続く。
「お前はちゃんと結婚して子供を作って幸せになれるように生きるんだ。お前はオレとは違うから、それができる筈なんだ」
そのように、オレの将来を慮ってくれるのは有り難いけれど、同時に迷惑でもあるというものだ。
「だけど兄サマ、それが幸せだなんて誰が決めたの」
結婚して子供を作って、それは一般に描かれる幸せの図なのだろうが、そして恐らく兄の思い出という名の理想郷の姿なのだろうが、価値観の多様化する社会でそんなたった一つの決まった図だけが幸せである筈はないのだ。
「そんな風に生きるよりも、ずっと貴方の側で生きたいよ。他の誰かをこんなに真剣に愛せるとは思わないもの。愛の無い家庭に束縛されるよりも、貴方の側に居たいよ」
椅子に座る兄の前に跪き、掴んだままだった腕を引く。倒れ込んでくる上体を縋るように抱き締めた。
「ひとりになろうとしないで。自分の幸せを疎かにしないで。貴方が心から受け付けないというのであれば仕方が無いけれど、そうでないのならそれをオレに与えさせて。貴方に、貴方の欲するものを」
腕の中の兄は凍ったように動かない。だが氷ならば融けるだろう。顔を押し付けられている肩口にそれを感じた。
「少し、時間をくれないか。考えるために」
「いい返事を期待するよ。貴方が誰かを必要だと結論付けるなら、それがオレであることを期待する」
拘束を緩めると兄は顔を上げた。するりと腕の中から抜け、取り繕った様子で体勢を整えるさまを見てから扉に向かった。今日のところは出直すとしよう。しかし火種は燃え上がった。擬態はもはや不可能で、そして無意味である。
「覚えておいて欲しい。オレはもう貴方への想いを隠さないし、消すことも無いと」
兄の視線を背に部屋を出、先程まで兄の顔が押し付けられていた肩に触れた。温かく、湿った感触が指先から伝わる。氷のように澄んだ色の瞳は融けたらしかった。
続き要りますか? ここで終わってもいいかもしれない。少なくともキリはいい……
本文中に出てくる英単語の訳はあまり信用しないで下さい。嘘は書いてませんが、全ての意味を書き出しているわけではありません。