A violet -bygone days-
2006/8/13


 兄に胸の内を曝してからまだそう日は経っていない。だが、沈黙の期間としては長過ぎる。いまだ返答が無いというのは、果たしてオレと兄とどちらの往生際が悪いのか。
 オレはもはや何を憚ることも無く兄に接しているが、兄の方ではそれを受け止めてみたり受け流してみたり或いは拒絶してみたりと対応が定まっていない。何を悩むというのか。互いの想いが一つであり、差し迫った障害も無いのであれば何を悩むと。
 倫理ではないだろう。神も信じない兄が火と硫黄の雨や塩の柱を恐れるとは思えない。
 体面であるとすれば、人目など幾らでも避けられる。この屋敷の中で何が起ころうと外の人間は誰一人それを知るには至らない。それは今までの悪魔たちの所業が、兄かオレが告発でもせぬ限り、決して白日の下に晒されないことから兄とて解っていることだろう。
 だが、原因がオレ自身にあるとすれば。兄はオレが結婚し子を成し暮らすべきだと思っていたようだ。それが正しく幸福な道であると信じていたからこそだろうが、そうでないことは既に告げた。オレの幸福は兄と共に在る。兄が兄の心により決めた道ならば幾らでもそれに従おう。だがそうでないのなら、誰にか、或いは何にか、遠慮した結果になど従いたくはない。ましてその遠慮の原因が自分であるのならば従う謂れも無い。たとえオレがそう思ったとしても。


 本当は、兄の考えが解らぬでもない。兄が自己肯定を殊更に大仰に行ってみせるのは、ともすれば自己否定に向かいがちな精神を奮起させるためであると知っているし、そのようにしなければならないほどに兄が自身を嫌っていることにも気付いている。
 兄は自分が処々諸々の点において穢れていると信じているのだ。
 信じるのは勝手だが、事実が穢れているか穢れていないかどちらにあるのかに関らず、オレが愛していると言ったのは現状の兄であることを失念されては困る。
 困るが、倫理、体面とが問題でないとし、かつ、このところの兄の態度を振り返ればどうもそれが沈黙の原因であるような気がするのだ。家庭を理想郷とする考えを捨てたとしても、自分は新たな理想郷となるに値しないと思っているようであるのだ。
 貴方は穢れてなどいない、貴方は美しいと、そう言ってやればよいのだろうか。だがことはそんなに簡単でない気もする。言葉一つで考えを改める兄であれば既に悩むことも無いだろう。
 ただ、可能性として言葉一つでも兄に影響を与えられるものがあるといえばある。兄が失念していることを指摘するのだ。伝え方、それが問題だが、恐らくオレの思うようにやればそれで構わないだろう。
 そこまで分かっていてどうして今までそれを言わなかったかといえば、理由が無いのではない。やはり兄が自分でそれに気付いてくれればいいと思ったのだ。しかし兄に気付けないのであればオレが告げるしかないではないか。
 オレが愛しているのは、全ての過去を通過し、今そこに在る貴方であるのだと。
 美しかり得ぬ過去すら、現在のためには必須の案件に違いないのだ。



trigger:引き金、誘因、きっかけ



 しかし兄はそれを認めたがらないだろう。過去がオレに兄を愛させたということは、兄に過去へのさらなる憎悪を持たせるだけだろう。だからオレが指摘するべきはオレ自身の心のことではない。
 だが氷色の瞳が融けたその理由は、それだって過去に何の関係も無いとは言えないのだろうから。
 兄は少しの時間を欲した。もう充分に与えただろう。考えるための時間には充分過ぎるほどに、それを与えた筈だ。これ以上の時間は無為であり負荷となるのみだろう。己の中に二律背反を持つ兄が理性たる考えによって答を導き出せるとは初めから思っていない。それでも期待したのだ。兄が自らその命題を統合する事実に気が付くことを。
 兄は気付くべきだ。理想郷の姿など決して定まったことは無いのだと。それはそれを思う人の数だけ何らかの差異を持って存在しているのだと。在りし日々がどうであれ、兄と共に在る日々こそがオレにとっての理想郷の姿なのだと。
 たとえそれが兄を苦しめたものであろうと、兄の心の来し方に思う。
 願わくばオレの進退が共に兄の負担であるという日々に早く終止符が打たれんことを。


「時間は充分にあげたと思うんだ」
 やはり優美な兄の部屋で再び話をする。あれ以降ここには入っていなかった。それは無理強いは趣味でないと訴える理性の言うことを聞いた結果と兄に過去の悪魔どもと同列にされないための保身によるものであったが、この状況に置いても兄の警戒が薄いところを見ると正しい選択であったのだろう。
「本当のことが聞きたい。何に憚ることもない答を聞かせて」
 兄はあの日と同じ腰の低い椅子に座り手を組んでいた。指先に力が入って赤く色付いている。窓から差し込む橙色の光の所為もあるだろうか。光は兄の白い服の釦を赤く輝かせている。
「お前の気持ちは嬉しい。できることならそれに応えたいとも思う。だがやはり、お前には他の道があるだろうという考えを捨てることはできない」
 拒絶するのなら、どうかそんな苦しそうな顔ではしないで欲しい。それでは、オレは頷けない。
「道は、確かに無数にあるだろうけど。でもオレが選びたい道は他の道なんかじゃない」
 燻る火種の内になら、この想いを隠すこともできただろう。それが本当に兄の望むことであったなら、燃え上がった炎さえ、消すことは不可能であれ、抑え通しもしただろう。
「貴方の選びたい道はどれ。選ぶべき、ではなく」
 兄は黙り込んだ。ちょうど人一人が部屋を通り過ぎるのに所要するだろう時間と同じくらいの間。
「……どうして、選りにも選ってオレなんだ」
「兄サマこそ、オレのこと好きは好きでしょう」
「オレは」
 言葉を探すように、兄は一度口を閉じた。少し背けた横顔を浮き立たせるように陰影が付いている。
「身近な男をそうと認識しているだけかもしれない。お前は、知っているな? ここに来てからのことを」
 頷いた。誤魔化しは聞かないのだろうから。
「そういう生活が長かったから身近に居るお前を手頃だと思って認識しているに過ぎないかもしれない」
「それじゃあ、磯野や河豚田を見て同じこと思う?」
「……あいつらはあくまで使用人だ」
「だったら、もし生きていたとしたら、剛三郎に同じこと思う?」
 椅子を大きく揺らして、目に見えて兄は動揺した。敷かれた毛の長い絨毯のお陰で椅子自体が音を鳴らすことは無かったけれども、その上に座っている兄の爪が、そう、いつの間に組んだ指先を解いていたのか気付かなかったが、兄の爪が、椅子の肘に当たってカチカチと、音を立てている。意図的に立てているリズムではない。長く伸びた細く黒い影が指の動きに合わせて兄の身体の上で揺れる。
「ごめん。仮定でも生きてたらなんて言って」
 横に膝を附いて震える指先を手の内に握り込んだ。反射のように握り返してくる指先の爪が皮膚に食い込んで、鈍い痛みを媒体に来し方の意味を伝えてくる。



post-traumatic stress disorder:心的外傷後ストレス障害



「ごめん。でも嫌でしょう? 誰でもいいわけじゃないんでしょう」
「それでも、こんな身体ではお前にくれてやることはできないな」
 語尾が上擦っている。無理矢理吐き出したかのような声だ。兄の思うところは想像と違わなかった。
「それこそが欲しいと言っても?」
 美しかり得ぬ過去すら、現在のためには必須の案件なのだ。
 兄の視線は少し下を向き、丸テーブルの盤上を彷徨っている。テーブルの上に何があるわけでもない。話を進めるために指先を握る手にほんの少し力を込めた。静かに息を吸う。
「オレが愛していると言っているのは、過去の貴方でもなければ、違う過去を歩んだかもしれない仮定世界の貴方でもない。全ての過去を通過し今ここにいる貴方を愛していると言っているんだ」
 兄の唇が薄く開きその隙間から小さく吐息が漏れる。
「オレは貴方の憎む過去を同じように憎むけれど、それによって現在が成り立つという事実を憎みはしない。だって現在の貴方がオレを愛してくれているのだから。貴方の言うようにそれが少なからず過去に影響を受けたものであろうと、その事実は確かなのでしょう?」
 首を横に振ろうとしたのだろうか。だが半ばでそれは失敗した。
「……そうだ」
 微かに響いたそのたった三文字の言葉がどれだけ嬉しかったことか。
「この間も言ったと思うんだ。ひとりになろうとしないで欲しいと。自分の幸せを疎かにしないで欲しいと。オレにできるなら与えさせて欲しい。貴方に、貴方の欲するものを」
 握ったままだった指が手の中で僅かに動いた。
「オレは」
 兄の呟きは完結しなかった。暫く待っても再開の兆しは無い。
 ちょうど時の変わり目だったのだろうか。呟きの続きを待つ内に窓からの陽光はその彩度を落として夕闇と消えた。薄闇の中静かに空気が動く。
 半ば開いた兄のそれに恐る恐る重ねた唇が拒絶されることは終ぞ無かった。


 合わせた唇は冷たく、それに体温を分けるかのようにゆっくりと舌を絡め合う。二つの唇が融けると思うほどに長い間そうしていただろうか。兄の息継ぎが巧いことに少々嫉妬したが、もう存在しない相手に腹を立てても仕方が無い。兄自身の非でもないのだ。
 そしてここまで来て何だが、オレは兄に欲を見せることが恐ろしい。これが兄以外の相手であったなら流れのままにことに縺れ込むのだが、それを恐ろしいなどと脳裏を過ぎりもしないが、兄の来し方を考えれば、自分があの悪魔どもと同列に落とされるのではないかという恐怖を感じる。
「モクバ。どうした?」
 見上げる瞳に首を振った。薄闇の中で僅かな光を吸い込み、青い瞳はその虹彩に綺羅を宿している。
「何でもないよ」
「そうか。それならもう一度言ってくれ」
「……何を?」
 直前に会話は無い。見蕩れるほど美しく微笑んで兄はもう一度、と繰り返した。
「今ここにいるオレをどう思っているのか」
 望みを解し望みの通り告げた時の兄の顔を忘れまいと思う。それはあらゆる美術書が完璧と讃える微笑みの造詣よりも完璧に美しく、来し方の悪魔は既に滅びの後にあることを思い出させた。
「愛してる。ああ、何度でも言う。愛してる。オレは、貴方を、愛している」
 睫毛を震わせて兄は瞼を閉じた。闇に同化し掛けた影もが共に震え頬に一段濃い影を落としている。百合の花びらのように白く滑らかな頬に手を添えた。浅黒く日に焼けた己の手と兄の頬では、些か濃さを増した闇の中でもその色の差をはっきりと区別できる。
 再び合わせた唇は多少の温かみを持ってオレを受け入れた。いまだ椅子の上の身体を抱き寄せて唇と同様に重ねる。互いの鼓動が変わらぬ速度で早鐘を打つ。
「モクバ、ここでは」
 離した唇が紡いだ言葉に、抱き寄せた身体はそのまま立ち上がった。
「あっ」
「軽過ぎるよ。忙しいからって食事でも抜いた?」
 抱き上げた身体を寝台まで運ぶ。その行程黙っていたことが質問への返事だろうか。
 片手で天蓋を空け、幾重にもなったシーツの一枚を捲る。その上で、寝台にそっと兄の身体を横たえた。
 服の釦を開け、現れた白磁のような肌に触れようとする指先が震える。震えを押さえ指の腹で触れた兄の肌は、恐らく常よりは温かく、しかしオレよりは冷たい。絹とてもう幾らかは引っかかるだろうというほどに滑らかなその上をてのひらで弄ると熱を帯びた吐息が天蓋の内に篭った。
「あぁ、もう一度」
 白い手に頬骨を捕らえられる。片手をそれに重ねて望む言葉を繰り返した。
「もう一度、もういちど」
 幾度目かの言葉を唇に吹き込むと、美しく澄んだ氷は融けて流れた。


 疲れ果てた兄が腕の中で丸くなって眠ってしまったあと天蓋の片面を開けた。篭った熱を外に逃がすためだったが、窓側の帳を取り払ったことで、カーテンを開け放したままだった窓から月明かりが差し込んで寝台を照らした。
 昇りゆく下弦の月は鮮やかに黄色く、その光はそれに反して柔らかだ。月の光は兄の肌を銀色に染めて照らし、磨き抜かれた石の彫像のように見せている。
 寝台を降り、剥き出しの白い肩にシーツを被せてそこを離れた。窓辺に近付くとガラスは月明かりを撥ね返し鏡のようにオレの姿を映している。即興の鏡の中で裸体の男は冷め切らない熱の余韻を持て余していた。窓を開けてそれを視界から追いやる。
 窓の外は僅かに風が吹き、ゆったりと夜の空気を流動させていた。過ぎにし時間を思い起こし、それに付けるべき名を考える。過去はもはや美しかり得ぬばかりではなく、行く先にまで続くことが願われるものである。



happiness:幸福
bliss:無上の喜び



「モクバ……?」
 呼ぶ声に振り向くと寝台に横たわったままの兄が薄っすらと瞼を開いてこちらを見ていた。夢うつつだろう。瞳は瞼に隠され、空に浮かぶ月のように欠けている。下弦の月に対して、兄の瞳はこれから沈みゆくようであるけれども。
「少し熱を冷ましたら戻るから、そのまま眠っていて」
 小さく声を掛けると、再び瞳全てが瞼の向こうに隠れて消えた。幾許もしない内に密やかな空気の揺れが微かな寝息を伝え出す。
 夜風が身体の表面を流れ抜けた。


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 ちゃんとくっ付けました。この兄弟はお互いを好き過ぎて困ります。
 前編にも書いていますが、本文中に出てくる英単語の訳はあまり信用しないで下さい。嘘は書いてませんが、全ての意味を書き出しているわけではありません。

 以下突っ込み回避。
 下弦の月:昇っている間は上側に当たる箇所が欠けています。ちゃんと閉じかけの目の形です。

 お持ち帰りは333ヒットのここね様のみ可能です。放棄しかけていた後編を気に掛けて下さり有り難う御座いました!