A violet -a piece of the troll-mirror-
2006/8/16
兄の心には悪魔の呪いがかかっている。
一種醜形恐怖にも似た不安のようなものが、その心を凍てつかせている。兄が自身を嫌うその気持ちが、想像を遥かに上回って大きかったと気付いたのはつい数日前のことだ。
兄が自身の身体をもって穢れていると信じるのは勝手だ。勿論兄がその責任の所在を兄自身にあると思っているのなら否定しなければならないだろうが、汚い悪魔が触れたから穢れたというその考えならば、兄は既に、その部分に置いては、過去からの回復を得ているのだから。問題は、兄が次の段階、つまり自分がどのような状態であろうと大切にされてしかるべきなのだと理解する段階へ至れていないことにある。兄にとって、大切にされない自分が、当たり前過ぎるのだ。
凍りついた心は脆い。ガラス細工よりもひび割れ易いそれを、壊さぬよう、崩さぬよう、オレは少しずつ温める。そのためだけに、炎を使う。
オレがそれを放り出すと、男は頭を下げた。
「申し訳御座いません、どうしましても、それだけは断り切れず……」
部屋に沈黙が下りる。元凶はたった一部の冊子だ。秘書室より持ち込まれたそれは、オレのために誂えられたものである。尤も、オレはそんなもの欲しいなど一度だって言ったことは無いのだが。
「仕方がないな。行って来い」
兄は諦めたようにそう言った。視線は冊子に注がれている。重厚な木製のデスクの上に投げ捨てられた、薄っぺらな、見合いのための、冊子に。
「どうしても?」
「仕方ないだろう。断り切れなかったと言うのだから」
多分に厭味を含んだ兄の言葉に冊子を持って来た男が再び申し訳御座いませんと謝った。長らく兄の腹心を務めていても、あの鋭い眼光に慣れることは無いらしい。兄が冊子から男に視線を移すと、男は首を僅かにオレの方へ向けた。
「お見合いね」
「解っているだろうが、断りに行くんだぞ」
机上の冊子に手を伸ばした途端兄の視線はオレに移った。鋭く見えた眼光が、今は不安定に揺れている。
一旦開き直りを得た兄は、元来の性格がそうなのだろうが、恐ろしく独占欲が強かった。そしてその反動のように不安症だった。何も心配は無いと、オレは貴方が大切だよと、繰り返しても繰り返しても足りないようだった。繰り返すことは厭わないけれど。
こんな風に実物を見たことも無いような相手にまで嫉妬の欠片を向けていては、兄が疲れてしまわないだろうか。それは気掛かりである。
「……相手の女の人に恥掻かせてもいいなら行くけど」
「は、恥といいますと……」
男はオレの言葉に冷や汗を拭う仕種をしてみせた。
「どうしても断り切れずこの場には来てしまいましたが、申し訳ないことに僕はゲイなので、貴女の夫になることはできません。……って言って断る」
「それはお前の恥だろうがっ!」
兄が怒鳴った。部屋の中でその声は反響して、言葉尻を繰り返した。
「別にオレは恥だとは思わないよ。そうやって断ればこんな話はもう来なくなると思うんだけれど」
「そういう問題ではない。普通に、断って来い」
断って、に強勢を置いて、兄はそれがまるで濁悪か何かであるかのように冊子を視界から外した。横を向いた白皙な兄の顔を見ながら思う。どんな女も男も貴方と共に居るオレには欠片の魅力も無いものにしか映らないのだから、どうかこんな下らない事柄には、僅かでも悩んだりしないで欲しいと。そう願う。
見合いは、兄の言う通り、普通に、断った。相手方の女性は美貌と知識と話術を正しく身に纏っていたと客観的には感じたが、それで何か心を動かされたかといえばそれに対しては否定以外の言葉が無い。ただ何と言って断れば大人しく女性とその背後の家に引き下がってもらえるだろうかとそればかりを始まる前から考えていた。
女性はあっさりと引き下がった。家がどう出るかはまだ判らない。しかしたとえ再び話を持ち出されることがあったとしても、それは今日の再現にしかならないと、それだけは確かだと言えるだろう。
「断ってきたのか?」
帰宅して部屋を訪れた途端兄にそう尋ねられた。一日それを気に掛けていたのだろうか。そんな問いはもっと自信を持ってしたらいいのだ。断ってきたに決まっているのだろう、と、そう聞けばいいのだ。そんな風に、まるで息絶える寸前の動物のような弱々しい声で聞かずともいいのだ。
「断ったよ。ちゃんと断ってきた」
兄は腰掛けていた寝台の上で詰めていた息を吐いた。側へ行くと薄い肩が震えていることに気付く。隣に腰を下ろしてその細い身体を腕の中に抱き込んだ。
「どうせ断るのだから二度とあんな話持って来ないで欲しいよ」
服の袖を兄の白い指が遠慮がちに掴む。カフスが爪に当たりでもしたのだろうか。硬質な音が響いた。
か黒い己の片手を添えて後ろを振り返らせ、何事か言い掛ける唇を塞ぐ。相変わらず冷たいそれから離れ兄の顔を見ると、同じようにゆっくりと持ち上げた瞼が震え、長い睫毛が青白い影を頬に落としていた。
「冗談でなく、ゲイだと公表しようかな」
こうして兄を不安にさせるくらいならそれも構わない選択肢だと思うのだ。兄は袖口のカフスを指先で転がしながら困ったように眉根を寄せた。
「本当にゲイなのか?」
どうだろうか。兄より他に愛した人間などいないからその答は解らない。そのように話すと小さな溜め息が聞こえた。
「判らないならやめておけ。その内オレに飽きて他に誰か女をと思った時不都合になるぞ」
「……そんな時は来ないからいいんだ」
己で言ったことに自嘲気味な笑いを向ける兄の唇を再び塞ぐ。
この胸の内で燃える炎の、決して消えることの無い存在を、どうすれば信じてもらえるのだろうか。この想いが永遠であると、例えば胸を開いて心臓にそう書いているのなら幾らでも見せるのに。口よりも雄弁である筈の瞳にその証があるのなら幾らでも捧げるのに。
「オレはこんなにも貴方を愛しているのに」
ただ信じてくれるだけで構わないのに。
心臓の署名の代わりに、瞳の証の代わりに、告げるこの言葉をただ信じてくれさえすればそれで何も案ずることは無いと解る筈なのに。何度告げれば信じるに値すると思ってくれるのだろうか。
「他の誰かをこんなに真剣に愛せるとは思えない。貴方が、最初で最後だよ。それを信じて」
袖を引かれて戦慄く唇にくちづけた。例えば触れ合ったところから互いの想いが流れ込んでゆけばいい。そうすれば次から次へと溢れ出すこの想いが余すところ無く伝わるのだろう。
兄を抱き締めたまま上体を後ろへ倒した。寝台が僅かに軋む。
例えばこれが愛無しには決して為されない行為であったなら、今この時だけでもその不安を完全に取り除くことができただろう。けれどそうでないことは過去の悪魔たちが証明してしまっているのだ。
全身を寝台の上に乗せ、開いていた天蓋を閉じた。厚い遮光性のヴェールが外と内を分ける。濃くなり過ぎた闇を薄めるため窓に面したヴェールを少し持ち上げた。夜と呼ぶにはまだ幾分早い時間、窓の向こうには白い月が浮かんでいる。
「月の満ち欠けを」
兄が不意に呟いた。声は静かだったけれども、衣擦れの音よりは大きく響いた。
「心変わりに喩えた作家もいたな」
「シェイクスピアは嫌いだよ。たとえ人の目に見えずとも、真実の月は常に満ちている。そう言わせなかったのだから」
「見えないものをどうして信じられる」
互いに窓の月を見ている所為で兄の表情は窺えない。囁きは全て聞き取ることさえ困難なか細さだった。
「ずっと見えないままなのではないでしょう。人前で体面を取り繕っている時と二人きりの時で態度が違ったとしても、それを不思議だとは言わないでしょう?」
小さな返答が為される。耳の後ろに数度唇を落とした。
「貴方が望むなら衆人環視のもと愛してると叫んだって構わないけれど」
「それは、望まないから」
今ここでという望みに従う。言葉を繰り返すと強張っていた兄の背が胸に凭れ掛かってきた。布越しの体温は感じられない。衣服の合わせ目を開き兄のそれも取り去ってしまうと、漸く冷えた背に熱を分けることができるようになる。
何度目かも判らなくなるほどには繰り返した行為であるのに、いまだに脈は始まりの日と変わらぬ速さで打つ。
「聞こえるでしょう。鼓動が、愛していると言っているのが」
強く抱き締めて問う。見えなくとも、触れて解るものならば信じるに足るだろうか。
「オレの心はいつでも満ちている。真実の月がそうであるように、貴方への想いで、いつも」
言葉が全く無力であるとは思わない。少しずつでもそれは胸の内の炎を燃え移らせ、いつの日にか、悪魔の呪いで氷漬けにされた兄の心を融かしてくれるだろう。そう信じて言葉を紡ぐ。
「愛してる。だから、何も心配しないで。貴方を愛しているから」
揺れる肩に拘束を緩めた。片腕を外し柔らかな抱擁へと変える。空いた手で兄の頬に触れると指先に微かな湿り気を感じた。
窓の月ではなくこちらを向かせる。融けゆく氷にくちづけると兄が小さく笑う。美しく笑う。
大丈夫だ。きっと心もじき融ける。
「最近、少し楽になった」
「え? ああ、身体?」
違う、と兄が首を横に振る。柔らかな、マロニエの実に似た色の髪が薄桃の枕の上で乱れた。
「こうすることが、精神的に」
細い腕が身体と身体の間に入り込み、支柱のようにオレの胸を支える。そう体重を掛けていたわけではないけれど、寝台に附いていた腕の位置を直して体勢を整えた。
「今まで辛かったの?」
心臓の位置に置かれた兄の手はぴたりと張り付いたまま動かない。
「嫌だったんじゃない。ただ、どうしても、色々思い出されて……」
瞳を閉じてゆっくりと言葉を吐き出す兄の、支柱となった手をさする。支柱は震えてくずおれ、シーツの上にぱたりと落ちた。その腕ごと全身を抱き締める。
「大丈夫だよ、もう、全部……」
兄の腕が背に回る。二の腕をオレの腕で固定されているために肘から先を曲げただけのそれが背を回り切ることは無い。首を下げ、唇を重ねると兄は目を開けた。
「お前は、優しいな」
「そう、かな。だとしたら貴方が大切だからだ」
反射のように応えると氷色の瞳が細められた。
「それが、うれしい」
続いた言葉に返答を忘れる。伝える感情に対して明確に言葉が返されたのは最初の日を除いて初めてだった。態度に表れる人だからそれでも構わないとは思っていたけれど。
兄の言葉はまだ続く。肩口に息が吹きかかって少しくすぐったい。
「お前の言葉を、信じるのはまだ怖い。だが、お前の言葉がうれしい」
途方に暮れたような口調に何故か口元が緩む。
「大丈夫だよ、信じて。オレは、貴方がとても大切」
「こんな身体でも?」
「大切だよ」
言い聞かせるように言葉を繰り返す。少しずつ、少しずつ、心は融けている。融ければ傷も幾らかは癒えるだろう。
林檎色の唇を啄んですっかり止まってしまっていた愛撫の手を再開する。兄がこんな身体というその身体。穢れているなんて思ったことは無い。だが兄がそう信じるのならそれは勝手だ。下手に否定して混乱させるよりは、そうだとしても気にしない、それでも今の貴方を愛していると、そう教えたい。
うっとりとシーツの海に身を任せている身体に接吻を散らす。以前残した跡がまだ残っていて、それはまるで乾燥させた薔薇か何かの花びらのようだった。
「あぁ……もう……」
雪を思わせる白い肌がしだいに血色よく艶めいてゆく。身体ではなく唇にくちづける。
「ねぇ、愛してるよ。貴方を愛してる」
自身を埋め込んで掻き抱くと、兄は薄らと痣の残る白い咽喉を仰け反らせ切れ切れの声を上げた。
月は幸い住むと人の言うその場所へ入りつつある。
兄は、よく眠っている。あまりにも呆気なく体力を使い果たした兄は今日、きちんと食事を取ったのだろうか。あとで何か果実でも運ばせようと思う。月が幸いに逢いに行く頃にでも。
眠る兄の髪を梳くとその唇が微かに動いた。象られた己の名への返事の代わりに、梳いたばかりの髪へ唇を寄せる。
彼方にある幸いがどのようなものであるかは知らないが、この腕の中、その範囲の幸いこそ抱き締める価値のあるものだろう。兄を抱き締めてそう思う。今暫くは起こさぬよう、夢人が優しくあるよう、羽で包むように抱き締めてそう思う。
月は幸い住むと人の言うその場所へ、尋めゆくことにしたようだ。
タイトルのtroll-mirrorというのはアンデルセンの童話「雪の女王」に出てくる鏡のことです。欠片が目に入ると心が凍ってしまう悪魔の鏡。「雪の女王」ではカイという少年の目に入ってしまいます。綴りはKAIじゃないんですけどね。
最後の所はカール・ブッセの詩を参考に書いてます。著作権は切れてる筈なので、上田敏の訳で全文載せておきます。モクバの科白(?)を、あー、と思ってもらえれば幸い。
やまのあなたのそらとおく「さいわい」すむとひとのいう。
ああ、われひとととめゆきて、なみださしぐみ、かえりきぬ。
やまのあなたになおとおく「さいわい」すむとひとのいう。