A violet -in my empty arms-
2006/9/3


 明後日から一週間ほどアメリカへ行ってくると告げると、兄は大儀そうに身体の向きを変え、オレの肩口に頭を乗せて吐息のような声を吐き出した。
「工場視察か?」
 それはある程度定期的に行われていることの一つで、睦言にしては色気の無い単語であるけれども、この行為が日常の一つに組み込まれた証としての話題ならばそれも構わないだろう。
「うん。兄サマ忙しいでしょ、オレ行ってくるから。明日許可出して、ね」
「……出したくない」
 胸の方へ移動してきた頭を抱え、その幾らか汗ばんだ檜皮色の髪を梳く。数度の瞬きの後、兄の瞼は微かな明かりに煌く氷色の瞳を月から隠すよう静かに閉じられた。
「オレも出されたくないなぁ」
 言いながら兄の額に唇を寄せる。ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。吐き出された息が胸に掛かって擽ったい。
「一緒に行けたらよかったのに」
 この行為が日常になるほどに、この幾らかの期間、こうして過ごした夜は多い。たとえ行為には及ばなくとも、兄を抱き締めて眠った日は多い。離れるのは、それが僅か七日ほどのことでも、心許無くなるというものだ。
「プレス発表を欠席したら……営業が泣くな」
 互いに社会人であるのだから、この世界に既に長く身を置いているのだから、離れたくないなどという我侭が通る筈のないものであることくらい、どちらも解っている。だからこれはただの睦言となんら変わりない。変わりないけれど、多くの睦言がそうであるように、少しばかりの本音が含まれているのは確かだ。
「その内休暇取ろうよ。一緒にさぁ……短くてもいいから、どこか北の方か、それか南でも……」
 胸に乗せられた頭が重みを増した気がして言葉を止める。
「兄サマ? 寝ちゃったの?」
 返答は無い。耳を澄ますと聞こえる呼吸の音は規則正しく、穏やかだ。
 起こさないようにそうっと、抱えていた兄の頭を離し、自由になる腕先で天蓋を閉め、腰元を漂うシーツを引き揚げる。今度は頭でなく肩を抱き込んで、闇に溶けてよく見えないその顔を見ながら目を閉じた。


 そうしてアメリカにある数箇所の工場を回ったが、そのいずれにも些細な問題があり、そしてそのいずれにも重大な損失を引き起こすものは無かった。
 しかし些細な問題とて放って置いてよいものは無い。今は些細でも、捨て置けば重大になる可能性が高いからだ。少しの気の緩みから、蟻の穴で堤が崩れるように、傾き倒れた企業をオレは何社も知っている。
 今までのところ、スペイン語系従業員の言語の問題や、機器の耐用年数が近付いているなどの、すぐに対策を取れるような問題が殆どである。途中支社にも寄ったが、巧く機能しているようだった。明日行く工場が最後だが、そこも大きな問題は無く終わって欲しいものだ。
 考え事をしながら今日の部屋のドアをくぐる。移動ばかりでどうせ落ち着く暇も無いのだからと適当に選んだホテルの部屋は衛生的そうではあるが簡素だ。もし兄と共に来ていたとしたらこの部屋には決して泊まらなかっただろう。そういう部屋だ。
 だがこの六日間、泊まった部屋といえばこれに似た部屋ばかりだ。そうでなければ移動の乗り物の中か、一度は工場の宿泊施設も借りた。そういうことができる点では一人で来たのも気楽でよかっただろう。無論、一人といってもSPは連れて来ているわけで、その気楽さに付き合わされるのは堪ったものではないかもしれないが。
 入ってすぐのクローゼットを開け、ハンガーにスーツを掛ける。兄と揃いの型で作ったダークグレーのスーツだが、色の違いか体格の違いか、並んでもあまり揃いのようには見えないという代物だ。
 細い通路の、クローゼットの隣がバスルームだった。通路の先にトランクを放り出し服を脱ぐ。一人は気楽だが、先に入ってもいいかと聞く相手が居ないのはやはりつまらない。
 バスルームはユニットの所為でもあるが少し狭い。使用に当たってカーテンを引いたが、床はともかくカーテンを泡だらけにしてしまった。硬いビニルカーテンに付いた泡を浴槽の中で洗い流しバスタブを出る。適当に水気を拭き、通路に脱ぎ散らかした服を拾い集め部屋に戻った。
 ホテルらしくベッドの上に用意されているナイトウェアを着てそのままベッドに倒れ込む。大半が移動疲れのような気がするが、疲労が一挙に押し寄せた。
 手足を伸ばすとどちらもベッドからはみ出て苦笑を禁じ得ない。普段ならばこんなことは無いのだ。このところ自分の部屋で眠った記憶が無いが、自分のベッドは勿論自分に合わせたサイズのものであるし、兄の寝台はそれよりも広い。
 時折華美が過ぎるようにさえ思える兄の寝台だが、あの厚い天蓋も、幾重となく重ねられたシーツも、特に独り寝には広過ぎるだろう面積も、それに慣れてしまったのか無ければ物足りないものだが、ここにはそのどれも無い。
 そして、何より、このベッドには兄が居ない。


 六日だ。あれが日常であった日から。就寝時、意識的に兄のことは考えないようにしていた。考えれば会いたくなる。抱きたくなる。
 明日の晩には帰国の途につける。分かってはいるが、疲労の所為もあるだろうか、一度高まった熱は収まりそうにない。疲労の所為、それは正しいかもしれないが、生存本能を曲げて人を愛しておきながら生存本能を言い訳にするのも滑稽な話だ。美しい兄は、けれど欠片も女のようではない。
 自己処理のために前立てを開ける。衣擦れの音が耳障りだ。
 本当は、この行為は好きでない。だからこそこの六日間ベッドで兄のことを考えないようにしていたのだ。こうすることは罪悪感と共にあった日々を思い出させる。
 義父を初めとする悪魔たちのお陰で、比較的幼い内からこの意味は知っていた。だが、それにも関わらず最初の朝は混乱した。なにしろ夢に出て来たのが惜しげもなく媚態を曝す兄の姿であったのだから。
 それは何度か目撃してしまった悪魔たちと兄の行為を継ぎ接ぎにして作ったフィルムのような夢だった。オレはそのフィルムを何度も使い回し、当然、二度目の上映からは夢の中でなく起きている時に行った。
 折角去った悪魔の変わりに自分がなりつつあるのは恐ろしく罪悪感に満ちたことだった。兄が悪魔の元を逃げ出せなかった原因は間違いなくオレであるのに、その上さらに自分が悪魔になるなど、考えただけでも恐ろしかったのだ。
 それでも年を経るごとにフィルムは原型をなくし、主にオレに都合よく書き換えられていった。兄を抱くのは義父でも他の誰でもなくオレになり、兄が拒絶し悲鳴を上げることも泣き叫ぶこともなくなった。オレ自身の心の内が、好きならば仕方が無い、そう開き直ってからというもの、その書き換えは加速した。
 かつての習慣でフィルムの上演を始めそうになり慌てて打ち消す。何度も書き換えられたフィルムは確かに今の現状に近い内容になってはいるが、しかしあれが全くの虚偽、当時にしてみれば夢と同じだったのは事実だ。そんなフィルムを使うよりは実際に兄を抱いた時のことを思い出した方がまだいい。どちらにせよ空想を抱くに替わりはないが、罪悪感に変わりがある。
 今でも時折これが夢なのではないかと思うほどなのだ。兄を想い独り寝の虚しさと罪悪感に打ちひしがれた日々の長さは。
 夢にしては生々しい兄の素肌の感触や体温を思い出す。皮を剥いた西洋梨のようにぬめらかな皮膚、白樺の小枝のように頼りない細さの、傷付いた腕や足。背後から抱かれるのを好まない理由であろう背の引き攣れ。服の上から、或いは正面から見ると気付かないそれらのもの。
 澄んだ氷の色をした瞳はくちづけで融けて頬を濡らす。苦しいのではないと少し笑って見せる兄の顔。朝露に濡れた百合の花でも届かぬほどのその美しさが、血の凝集を助け、衝動を愛情の位置まで引き上げる。大切に、できることなら今までにそうされなかった分まで、穏やかな夜を与えたいと思う心とそれと同じ大きさまで膨れた欲望とが兄を抱く。
 薄らと開いた赤い唇が求めるものは、いつだって行為ではなく言葉だ。餓えた唇に愛しているという単語を食べさせ、その温かい食べ物が凍えた兄の心を幾らか融かした頃オレは。


 開放感よりも虚しさが勝る。だから今日まで堪えていたというのに。
 今となっては罪悪感が残ることも無いが、抱き締めて眠る身体が無い事実を思い知らされては罪悪感の代わりに残った虚しさが重たく圧し掛かるというものだ。
 帰国は明日の晩だ。時差と距離を考えれば二十四時間ではまだ会えない。
 以前はその三百六十数倍前後の日数を独りで耐えたというのに、一度二人の夜を知った身体は、さもなくば心は、酷く貪欲なようだ。
 帰りたい。仕事を疎かにするつもりは無いが、できるだけ早く、兄の下へ。


 朝が来れば、恋する男ではなく社会人として、帰りたいなど顔にも出さず仕事をする。最後の工場に目新しい問題は無いようだ。
「ダイキャストマシンの整備だけか」
 呟きに一歩下がった位置から相槌が打たれた。工場を歩き回る間側に控えていた工場長は現在の生産量とマシンに対する酷使状況を簡単に説明し、耐用年数よりも早い劣化に理由を付けた。
“ああ、分かった。整備費の見積もりを出したら連絡を”
 してくれ、と言った上に陽気な大音量の音楽が重なった。曲は五秒ほどで止まり、機器の稼動音を除けば静かだった工場内が人の声でざわめく。
“何の音だ?”
 憶測を立てながらも尋ねると、昼の休息を知らせる音だと言う。陽気な音であるわけだ。
 案内を続けようとする工場長に休むよう指示し、一人停止したラインを見て回る。組み立ての最中でコンベアに取り残されたアルミの金具は内部構造の軸となる部分だろう。製品の設計図を脳裏に浮かべながら考える。
 今は休息に出ている従業員がネットを被りマスクをしていたことを思い出してラインから少し離れた。見たところ精密部ではないようだが、役員が規定違反をしては示しが付かない。
 梱包ラインでは従業員の立ち位置ごとに写真ほどの大きさの広告が積まれている。先日兄がチームを率いて開発室に篭っていた成果がその広告の製品だった。一昨日だったかにプレス発表も終えた筈だ。多忙故その時の様子はまだ聞けていないが、悪いものではないだろう。
 一通り工場内を回り、問題が報告に違わず要整備のマシンだけであることを確認すると作業場を出た。中庭、と言っていいのかは判らないが、そこに面した建物の壁に寄り掛かる。申し訳程度の影に入ってはいるが、きつい陽光に目を細めずには居られない。
 それでも新鮮な外の空気は作業場内に戻るには惜しかった。中に居る間は気付かなかったが作業場の空気は人の集まる場所特有の淀みを保有していたのだ。この時間に休息を挟むのは正しい。
 この工場の見るべき所はもう見たが、帰国の便まではまだ大分時間がある。すでに取ってあるチケットをキャンセルして予定より早く帰国しても構わないだろうか。


「……随分お疲れみたいデスねー」
 凭れ掛けていた壁のすぐ横で扉が開く。聞き覚えの有り過ぎるイントネーションに居住まいを正した。
“お久し振りですMr.ペガサス。我が社の工場に何か御用ですか?”
「オー、なんて素敵なビジネス英語デショウ。……気楽にして下サーイ」
 過去に数度の敵対と和解を繰り返し今に至る相手は肩を竦めてそう笑った。
“それで、どうしてここに?”
「エレイは私の庭デスヨ。KCのエグゼクティブが来ているというから会いに来たんですけどネー。情報を正しく伝える訓練をさせなければなりマセーン。……ヴァイスが抜けてマース」
 要は兄に会いたかったらしい。繰り返した衝突の回数の割りに二人の仲がいいのは共通の話題の多さ故だろう。妬きはしないが、体面を取り繕う必要の無い気楽な付き合いは時折羨ましい。
「海馬ボーイは元気デスか?」
“どちらの海馬ですか?”
「ユーが疲れているのは見れば判りマース」
 そんなに酷い顔をしているだろうか。兄は元気だと告げながら、帰国を前にして気が緩んだのだろうかと考える。
「心配しなくても今は元気そうに見えマスヨ。さっきは早く帰りたいって顔をしていましたけどネ」
 早く帰りたいのは事実だ。本当は、こんな所で話をしている暇があるなら一刻も早く空港に向かいたい。視察は終わったと工場長に告げればそうできるのだ。
“さっきのは、早く帰りたい、ではなく、早く帰ろう、ですよ。今から帰国する”
「アー、海馬ボーイに宜しく。ビジネス以外で会いたいと言っていたと伝えて下サーイ」
 ファラウェル、といつもながら酷く悪趣味な赤いスーツの男が、芝居掛かった仕種で胸に挿していた僅かばかり悪趣味な白いハンカチを振る。それに応え、工場長を探しに作業場へ戻った。


 全ての用件を終え、一週間の出張から漸く帰国の途につく。航空機の移動時間さえもどかしい。この一週間、国内出張と違い生じる時差のため、電話で兄の声を聞くことも侭ならなかった。
 だが、従業員の問題、機器の問題、どれも今なら大事には至らないで解決できるものだ。取り敢えずは悪い報告と共に帰国させられる羽目にならずにすんで、それに安堵する。
 あとは眠って起きれば日本に着く頃だろうか。夕方かそれより少し早い時間には本社に戻れる筈だ。道が込んでいたら空港からそのまま屋敷に帰ろう。それなら兄の帰宅時間とほぼ同じ頃になるだろう。
 オレが兄を恋しく思うのと同じくらい、兄もオレに会いたいと思っていてくれればと思う。でなければこのもどかしさは伝えようの無いものだから。


「どちらに帰られますか?」
 乗り込んだリムジンの運転席からそう尋ねられる。季節柄日はまだ高いが、カリフォルニアのように日差しは強くない。時刻としてはもうじき夕方だ。辺りには明るい色の車が幾らか走っている。その中ではこの黒く大きな車体は悪目立ちしているのだろう。赤い乗用車が走り出したところなのかゆっくりと横を通り過ぎた。
「道は込んでるのか?」
「そのようですね。多少混雑しているようです」
 会話の間にも一台の白い車が横を通り過ぎた。一瞬見えた車内には日に焼けた子供とその両親だろう二人の大人が乗っていた。里帰りの妻と子、或いは夫と子を迎えに来た車だろうか。
「そうだな……込んでいるのなら屋敷に向かってくれ」
「畏まりました」
 静かに景色が動き出す。窓の外を流れる建物をぼんやりと眺めながら風景が屋敷に近付くのを待った。


 どうやらオレの帰宅よりも兄の帰宅の方が早かったらしく、屋敷に着き玄関の扉を開けたオレを出迎えたのは整列した使用人ではなく兄一人だった。兄自身帰って来たばかりなのか、その格好はスーツのジャケットを脱いだだけのものだ。
「ただいま」
「あぁ……おかえり」
 詰め所に戻るのだろうSPによって扉が外から閉められる。二人切りになった再会の場で、手にしているトランクを置く暇も無く兄のくちづけを受けた。兄から求められることはあっても行動に移されることは滅多にないそれを驚きの中で受け止める。首に回された細い腕に不安定に込められる力が、つま先で立つ兄の体勢を気遣わせた。重ね合わせた唇が深さを増す予感に兄の腰を支える。
 絡め合わせた舌も抱き寄せた腰も離すには名残惜しいが、玄関ホールではいつ使用人がやって来るとも分からない。息継ぎのあとを続けず、互いの唇を啄ばむように軽く触れ合わせ離れた。
「……一週間は、思っていたよりも、長いな」
 呼吸を整えながらそう言う兄の頬は上気して明るい薔薇色に染まっている。性急さを恥じて取り繕うようなその言葉に返答を贈る。
「オレも同じことを考えたよ。以前は耐えられた一週間が今では辛かった」
 足音も何も聞こえない。再び重ね合わせた唇が離れた時、会いたかったと、どちらとも無く呟いた声がホールに木霊した。


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 大人モクバは193cm86kg、お前はサーファーか、ってくらい色黒。瀬人でも背伸びしなきゃ唇に届きません。……ウチではそういう設定ですので。身長差とか何も間違いじゃないデスヨー。
 科白ですが、「」内は日本語、“”内は英語で喋っているものと思って下さい。モクバとペガサスの会話が愉快な感じ。