A violet -betwixt-
2007/7/7


「眠たいなら寝なよ」
 シーツに隠れて欠伸をする兄に声を掛けた。いいや、と間延びした答が返される。
「少し疲れただけだ。眠いわけじゃない」
「疲れた?」
 痩身は寝台へ気怠げに横たわっている。
「加減したのに」 
「お前は若いから……」
 布から出てきた兄がそう溜息を付いた時、部屋の片隅で振り子時計が鐘の音を鳴らした。
「あぁ、これで二十一だな」
「何、それで起きてたの?」
 頷く兄の頬にくちづけをして立ち上がる。皺になったパイル地のガウンが床に落ちた。拾い上げて羽織り、帯を探す。
「こっちに」
 シーツの間から出てきた帯を受け取ってガウンの前を合わせた。適当な結び方で帯を留める。どこに行くのかと問う兄に、居室のカウンターを指し示した。
「水持ってくる。声掠れてるよ」
 咽喉を押さえる仕種に少し笑うと、兄は持ってくるなら早く持ってこいと、言って唇を尖らせた。
 備え付けの冷蔵庫からミニボトルの軟水を取り出す。寝台に戻り蓋を開けて渡すと、兄は肘を附いて上体を起こし、ボトルに軽く口を付けた。
 ふう、と息を吐いた兄が寝台の向かいに設置された本棚へ視線を送る。
「モクバ」
「うん? 何?」
 本棚には西洋古典の全集や哲学書が収められている。寝しなに読むための趣味の本なのだろう。書斎の本とは系統が異なっている。
「この本棚を動かせるか?」
「これを?」
 天井近くにまで届く背の高い本棚だ。横幅もそれなりにある。
「どうかな、本を幾らか出せば動かせると思うけど。どこに持っていきたいの」
「どこにも」
 兄の目線は本棚に注がれているようで全く別の空間を見ていた。本棚でなくその向こうを、焦点のずれた瞳で見詰めている。
「少し、ずらすだけでいい。そうだな……右に」
 本当は右でも左でも構わないのだと、そう言いたげな、投げやりな指示だった。ただ少し右手の方が広く開けているというだけで、実際どちらでも構わなかったのだろう。
「今動かす?」
「あぁ、動かせるのなら、今」
 返答を受けて上段の本を抜き出した。樫の枠に手を掛ける。持ち上がらなかったらどうしようかと思ったが、案外楽に、本棚は床を離れた。


「……扉?」
 棚の後ろに現れたのは、ノブの代わりに装飾的な環状の引き手が付いた、赤茶けた木の扉だった。どこと繋がっているのか、鍵のようなものは見当たらない。
「この部屋の衣装室が広い理由を知っているか?」
 背後から届いた兄の声に振り返る。首を振ると、自嘲気味に赤い唇が歪められた。
「ここが本来女のための……当主の妻のための部屋だからだ」
 だがここは昔からずっと兄の部屋だ。兄が子供部屋のある翼に居たことは無い。
「ここは当主の妻のための部屋だ。そして、夫婦の寝室というものは」
「繋がって、いる?」
 建築様式から考えればその筈だ。
「じゃあ、この扉の向こうは」
 閉め切られ、開かずの間と化した当主の部屋。入り口は離れた位置にあるが、当主の部屋がそう狭いとも思えない。
「殊更に大きな音を立てて扉が開く」
 抑揚を落とした声で兄が呟いた。止めるべきか聞くべきかを迷って、選べない内に兄の言葉が続きを並べ出す。
「今日はいったい何が起きるのだろう。痛いことでなければいい。苦しいことでなければいい。辛いことでなければいい」
 場景は、あまり想像したくなかった。脳裏によぎるそれを打ち消そうとし、不可能であると諦めた。
「たった五年間のことだ。だが、今でも、オレはこの扉の存在が恐ろしい」
「……五年は、長いよ」
「そうか」
 ようやっと出てきた言葉は至極単純で、オレはそれを取り繕うように、寝台に戻り兄の傍へ腰を下ろした。手を伸ばし髪に触れる。亜麻糸のような感触が指の合い間をくぐり抜けた。
「貴方とオレの間も五年だ。もしこの五年が無ければ貴方の五年も無かったかもしれない」
 それは、長年考え続けていたことだった。良い暮らしを、何らかの護り盾を、もし年の差が無くても、兄はそう思っただろうか。もし年の差が逆だったならばどうか。思う、わけがない。
「年を経るごとに五年の重みは薄れていく。だけど、少なくともあの頃のオレにとって、五年は絶対的な壁だったよ」
 どうあっても超えられない壁だ。今でも、低くなっただけで超えることはできない。
「貴方より先に生まれたかった。そうでないなら、生まれなければ良かった」
「そんな」
 苦労を掛けるくらいならその方が良かったと、本心から思う。
「なのに、貴方逢いたさに生まれてきちゃったんだ」
「モクバ」
 困ったように兄がオレの名を呼んだ。兄の唇が開いて閉じ、再び開いて声を立てる。
「誕生日おめでとう。お前がどう思っていようと、今日は良き日だ」
「……貴方がそう言うのならそうかなと思うよ」
 良き日、兄にとっての良き日であるならそれでいい。
 兄はオレの背中を数度叩くと、徐に視線を扉へ向け直した。本棚に隠されていた扉は、久しく人目に晒されることが無かった反動のように、存在感を溢れかえらせてそこに立っている。
「この扉の向こうをお前にやろう。誕生日のプレゼントだ」
「扉の向こうを?」
 聞き返すと兄は頷き、要らなかったかともう一つ問いを重ねた。
「要らないとか、そういうことではなくて。いいの? 当主の部屋に住むべきは貴方だし、それを抜きにしても、この扉が恐ろしいと言ったばかりじゃない」
 兄が曖昧に笑う。剥き出しの薄い肩を抱くと、白い指先がガウンに縋り付いた。
「今日は何が起きるのだろうと、期待と共に待てるようになれば、扉の意味も変わると思わないか」
 単に忘れるのではなく上書きするのだと兄は言った。
 兄の部屋と一続きの部屋を使えるのは、部屋割りとしては理想的な構図だ。部屋の持つ意味を考えて重荷に思う反面、その重荷を背負えることが嬉しくもある。
「いつかお前にと。本当は扉の向こうをすぐ使えるようにして明け渡そうと思ったのだが」
 扉と向き合うか決心が付かないまま今日になってしまったのだという。
「いいよ、部屋くらいすぐ整えられる。寝て起きたら改装を始めよう。手伝ってはくれるんでしょう」
「あぁ。そうだな、寝て起きたら」
 ゆっくりと、二人揃って寝台に倒れ込む。縒れたシーツが裾野を膨らませた。僅かに軋むばねの上、暫くの間ふざけ合う。兄は大きく息を吐くと、手伝いはいいが、と笑いに乗せて言葉を発した。
「重労働はごめんだな。寝て起きたところで疲れが取れる気がしない」
「まだ言ってる。何、今日良くなかった?」
「いいや」
 兄の膝がガウンの合わせを割った。悲壮な話など無かったかのように、そうする兄の顔は喜色に満ち、悪戯っぽく輝いてさえいる。
「だが今からもう一度するからな。疲れが取れるわけがない」
「ああ、そういうこと。もう一回、大丈夫?」
 改装はほぼ一人でやることになるのだろうけど。誕生日だから好きにしていいという兄の言葉を、額面通り受け取ることにした。
 扉が開いて起きる出来事がこんなことばかりなら、扉の意味もすぐに置き換わるだろう。そうであるように努めたいと思う。最近の兄は昔よりもずっと綺麗に笑うから、今度こそ憂いごとに押し潰されたりしないで欲しいのだ。
「何を考えている?」
「うん? 好きにしていいって言うからさ。いかに身勝手な恋人になろうかと」
 髪を払い額にくちづける。兄は目を細めて、程々にしておけと、勝手の範囲を付け直した。


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 七夕ネタも入れたかったんですが、欲張るとろくなことにならないのでお誕生日ネタのみで。
 モクバお誕生日おめでとう!