12cmのコンプレックス
2007/10/23


「兄サマ?」
 ウィンドウの向こうにブーツが飾られていた。グレーの織り柄布を張ったデザインは、この間買ったコートに良く合うだろうと思う。
「何か気に入ったなら入って見る?」
 店の扉を開けようとしたモクバを慌てて止めた。デザインは気に入ったけれども、そのブーツの踵は自分が履くには高過ぎる。華奢な作りを見ても解るが、きっとこの靴は小柄で可愛らしい容姿の持ち主が履くことを前提にデザインされたのだ。例えば生まれ付いての女だとかのために。
「いいの?」
「あぁ。少し目に付いただけだ。足を止めて悪かったな」
 再び歩道をだらだら歩く作業に戻りながら、以前どこだかの雑誌で読んだ、理想の身長差は十二センチだという文句を思い出した。確かに十二センチなら踵の高い靴を履いてもそうそう相手の身長を追い抜きやしないだろうし、踵の無い靴を履いている時でも相手の顔を見るために首が凝るほど見上げたり見下ろしたりせずに済むし、そのくらいを理想とするのは妥当なように感じられる。男女ならよくある身長差でもあるだろう。
 隣を歩くモクバを見る。背は結局幾つになったと言っていたか。随分頑張って伸ばしたようだがそれでも十二センチ差には程遠いし、あんな踵の高い靴を履いたらあっという間に抜かしてしまう。
 いずれ身長も整形で縮めたり伸ばしたりできるようにならないものだろうか。無い筈のものを付けたりある筈のものを取ったり、外観だけなら生殖器ですらどうとでもできる現代の外科技術を持ってしてもたかが身長を縮める程度のことができないとは、どうにも理不尽ではないか。
 等々考えていると知らずの内に眉根が寄ってきていた。考えるのをやめ、恐らく不機嫌面になっていた顔を元に戻す。商品を見る振りでちょうど通り掛かっていた店のウィンドウを鏡代わりに覗き込み、眉間に皺の跡が残っていないことを確認して安堵した。


 そんなことがあったのが半月前で、その間に気温はめっきり冬へ近付き、寒がりの身にコートは欠かせないものとなった。モールは私事で出掛ける際にはよく使う道で、あれから数回、同じ店の前を通過している。
 コートを着るようになってから見てみると、ショーウィンドウに映ったコートとウィンドウの中のブーツは、思った通り元からそうコーディネートされているものように似合っていた。何度目かに気付いたことだが靴の脇に輸入もののマークが付いていたので、サイズは大きなものもある筈だ。展示されている分が既に大きいような気もした。
 本当に、もう少し背が低ければきっと買っただろう。
 そうして通り掛かる度未練がましく見ていたブーツは、その内ウィンドウから姿を消した。商品なのだから在庫が無くなればウィンドウから撤去されるのは当然だし、専門店でなければ輸入ものなんてそう数を仕入れてはいないだろうから、半月程度で無くなってしまっても不思議ではない。
 不思議ではないが、誰があれを履くことになったのだろうと見もしない人間を羨ましく思う。誰であれ、自分よりは小柄に違いない。
 あとになって羨むくらいなら買えばよかっただろうか。買ったところで履けはしないけれども。
 そういえばもうすぐ誕生日だ。付き合いのある方面から何かしら贈って寄越されるだろうが、その中に背の縮む薬でも混ざっていれば社交辞令でなく嬉しいのにと思った。


 誕生日当日の夜になったが、まぁ、当然、背の縮む薬など届きはしなかった。製薬系に知人がいるからといって、本気で期待していたわけではない。
 大体今は諦め切れずに製薬会社名義からの包みをひっくり返している暇など無いのだ。これから今日が終わるまでの間に出掛けて食事をしてデートコースを回らねばならないのだから。支度をするのだ支度を。
 顔は問題無い、服も着替えた。ハンドバッグの準備も終わっている。あとはコートを着て室内履きを外出用の靴に履き替えれば完璧だ。椅子の背に掛けておいたコートを羽織り、もう一度鏡に向かう。問題無い、視点が少し高過ぎる以外は。
 靴を履きに部屋の扉前へ出た。ぺたんこの靴ばかりが収められた靴箱を開け、出したローファーをタイルの上に並べる。これだって悪くはない。悪くはないけれども。
 靴箱の脇に置いてある角椅子に座り、室内履きを脱いだ。靴を履かなければ出掛けられないことくらい解っているが、その気になれず、座ったままどうせ部屋まで迎えに来るだろうモクバを待つ。
 数分椅子の上でうだうだとマニキュアの出来を眺めたりしている内に扉は叩かれた。鍵は閉めていない。開いている、と声を掛けると目の前で扉が動いた。
「……今日は支度早いね」
 開けたすぐそこに居たのが予想外だったのだろうが、その言い方ではまるで普段の支度が遅いようだ。いや、いつも待たせているのは確かだが。
「まあいいや。あとは靴だけ? ちょうどよかった」
「お前の支度は終わっているのか?」
「ううん、まだ一つやることが。誕生日の、プレゼントを渡さないと」
 そういえば扉を開けてからずっと手を背後に回していたなと気が付いた。
「お誕生日おめでとう。サイズ合うといいんだけど」
 言葉と共に、背後に隠されていたグレーのブーツが取り出された。織り柄布を張ったデザインの、誰の元へ渡ったのかと羨んだあのブーツのように見える。
「一瞬だけど兄サマいつもこれの前で立ち止まるからさ、本当は欲しかったんじゃないかと思って」
「あぁ……今し方も、買えばよかっただろうかと」
 受け取ったブーツの踵に触れる。どう見てもあのウィンドウに展示されていたブーツに見えるというのに、モクバもあのブーツだとして話しているというのに、踵だけが記憶にあるそれと異なるのだ。
「踵が、高過ぎてとても履けないと思っていた。この靴、ヒールこんなじゃなかったか」
 親指と人差し指を軽く開いて、記憶の中のヒールの高さを表してみせた。何度も見て覚えている。間違ってはいない筈だ。にも拘らず、今目の前にある靴の踵は、その半分の高さも無い。
「靴の修繕する所あるでしょう。そこで切り落としてもらったんだ。持っていったらローヒールに作り直してくれるって聞いて」
 手に持ったままでいたブーツを床に下ろされる。
「よく解ったな、ヒールの高さで躊躇ってたと」
「だって普段からちょっとでも踵高いと履くの嫌がるじゃない。オレは、ハイヒールのままでも似合ったと思うけどね」
 タイルの上に揃えられたブーツへ足を入れる。サイズは大丈夫かと聞くのに、立ち上がって数歩動き、オーダーメイドのようにぴったりだと答えた。
「それじゃあ、これで出掛けようか?」
 あぁそうだ、靴を履いて終わりではない。これから出掛けるのだった。
 開けられた扉を抜け廊下へ出る。誰がこれを履くことになったのだろうと羨んだ先が、まさか自分だったとは。
 浮かれた気分で歩き出す。低くなったヒールが、床を叩いて小さな音を立てた。


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 瀬人誕フライング更新。
 ハイヒールの踵を切り落とし底付け直してローヒールへはやってくれる所だと本当にやってくれるそうです。できる靴とできない靴があるようですが。
 背が高いのを気にする瀬人は可愛いですよね! モクバは多分部下の雑談か何かで聞いたんだと思います。