クリスマス・キャロル その1
 初めに言っておくと、エジプト王アテムという人間はもうこの現世にいない。これはまず間違いが無いことである。不思議な力によって一時の生を得ていた彼が、正しく冥界の門を潜ったのを、彼の依り代となっていた当時の少年も、親友たちも、冥界の扉番であった人たちも見送っている。海馬瀬人もそれを承知した。そして、海馬瀬人が承知したということは、いかなる場合にもそれが現実味を帯びて確かだと認められるものであった。彼の承知は、信頼がものをいう証券取引所の中でさえ、もっとも影響を及ぼすものの一つである。
 だから、エジプト王アテムは、墓地に置かれたカードのように死に切っていた。
 断っておくと、墓地に置かれたカードがどのくらい死に切っているかについては、正直疑うところも多いだろう。あれらは死者蘇生や速すぎた埋葬、或いは魔宝石の採掘などで簡単に場や手札に戻ってくるし、カードを引いて死に切っているとまで言うのなら、除外されたカードこそが何よりも相応しいのではないかと思う。だが、死と墓地を結び付けるのは先だってより当然とされることである。その当然をここで曲げてしまっては、比喩表現というものまでもが死に切ってしまう。故に、今ここに、エジプト王アテムは墓地に置かれたカードのように間違い無く死に切っていると、繰り返し書くことをお許し頂きたい。
 海馬瀬人は彼が現世にいないということを知っていたか。既に書いた通り、勿論知って承知していた。彼を直接に見送ったわけではなかったが、どうして知らないままでいることがあるだろう。海馬瀬人と彼とは、年数で数えることができるかできないか程度の短い時間ではあったが、好敵手というものであった。唯一依り代の少年と彼とを分断して考えたもので、唯一友人とは別の枠に分類されたもので、また唯一彼の本性を知るものであった。だが、海馬瀬人ばかりは、冥界の門が開かれたその時、それを悲しむでも喜ぶでもなく見終えたものでもあった。
 アテムが冥界の門を潜った時のことを書いたところで、本題に入るとしよう。アテムが冥界へ還ったことは砂漠の砂一粒ほどの小さな疑いも無い。このことは、必ず確かであると了解されていなければならない。でなければこのあと始まる話に説明が付かないのだ。例えば、ペガサスの恋人シンディアが死んだと言うことを理解していなければ、千年眼の持ち主となったペガサスにシンディアが姿を見せたことも、なんら変わった話とは思えないように。



クリスマス・キャロル その2
 さて本題は海馬瀬人の話である。海馬瀬人は、オカルト嫌いの割りに、アテムが不思議な力で現世に留まっていた痕跡を消し去らなかった。冥界の扉の件から幾年も、アテムの功績は残され続けた。それはアテムの名ではなく彼の依り代であった少年の名で残ったものだが、同時に、功績を真に残したのは古代エジプト王の魂なのだという噂が伝説になっていくのを、海馬瀬人は止めなかった。オカルト主義の噂は時に彼を巻き込んで、彼に神官の魂だのなんだのが宿っていると噂したが、彼はそれも止めなかった。二人を一纏めに伝説の決闘者と呼ぶ向きもあったが、彼はそれも許容していた。
 だが、しかし、彼は非道のものであった。少しばかりの許容は、彼が寛容であることを示すものさしにはならなかった。海馬瀬人は、強欲で傲慢で貪欲な青年だった。何と組み合わせても融合素材にならないカードのように扱い辛く、結束を拒み、人付き合いの嫌いな、閉じた貝のごとく孤独な男であった。彼の身の内の冷気は彼の整い過ぎた顔付きを凍らせ、その高い鼻を澄まし返らせ、その頬を翳らせて、足取りを荒々しくした。また、瞳を石のようにし、薄い唇をどす暗く沈ませた。酷薄な声の調子にも、冷気が滲み出ていた。皮膚の白さは凍った霜が降り積もっているようであった。彼はいつでも自分の低い体温を改めなかった。どんな夏の日にも彼自身を打ち解けさせることは無かった。
 外の暑さも寒さも海馬瀬人には然したる影響を与えなかった。どんな陽気も彼を温めるに至らず、どんな寒空も彼を冷えさせられなかった。彼より厳しく吹く風も彼より一心不乱に降る雪も無く、どれほど土砂降りの雨であろうと彼よりは情け深かった。いかなる自然の力も彼に比べれば穏やかで、或いは一瞬の内に過ぎ去るだけのものであった。
 彼は、強欲の成果か、若いなりに一企業の社長なぞをやっていたが、彼が自社の廊下を歩いても、彼を呼び留め嬉しそうに挨拶をするものはいなかった。取引先も、彼の顔色を窺うことはあれ甘い答を期待した問いを口に出すことはなかった。子供にはまだ慕われる性質だったが、それすら、年々、慕う子供の数は減っていた。
 だが、そのようなことの何を海馬瀬人が気に掛けようか。くだらない人の情など、彼は元より願い下げであった。人生を道に例えるなら、人ごみを押し分け人を薙ぎ倒しながらでも己の行き先を確保すること、それこそが彼のしたいことであった。



クリスマス・キャロル その3
 ある日、選りにも選ってクリスマスの日の前夜に、海馬瀬人は自社工場の事務室に座って忙しくしていた。寒い、霜枯れの目立つ、刺すような冷気の日だった。おまけに靄まで出ていた。彼は廊下で人々が白い息を吐いたり胸元を手で押さえたり少しでも身体を温まらせようと大きな動きで足を動かしたりしながら往来しているのを耳にした。工場の時計はつい先ほど三時のベルを鳴らしたばかりだというのに、どこもかしこももうすっかり暗くなっていた。もっとも、この工場は朝も昼も晩も明るくはなかったのだが。元々採光の良くない立地に、灯りも空調も最低限しか入れていないのだから、この工場はいつでも薄暗く、どんより垂れ下がった雲に何から何まで覆い隠されているようだった。
 海馬瀬人のいる事務室の戸は、工場の生産ラインが正しく稼動しているかどうか見張るために、がらんと寒々しい空間に向かって開け放しになっていた。事務室には申し訳程度の空調が入っていたが、ラインのある空間には申し訳程度よりも更に申し訳程度の、二酸化炭素の排出量削減に配慮し過ぎたかのような空調が動いている程度であった。皆寒いと思っていたが、空調の温度調節パネルは事務室の中にあるので、温度を上げに行くわけにもいかなかった。そんなことをしに行ったら、どんな難癖で首を切られることだろうか。なので労働者は皆、個々人精一杯のウォームビズに励んでいた。



クリスマス・キャロル その4
「メリークリスマス、兄サマ!」
 一つの明るい声がそう叫んだ。それは海馬瀬人の弟の声であった。彼の弟海馬モクバは、兄が工場の視察に行っていると聞いて予定を変えここへ立ち寄ったもので、海馬瀬人はその声で初めて弟が来たことに気付いたくらいだった。
「何を馬鹿馬鹿しいことを」
 瀬人がモクバに向かって言った。
 彼は、寒い中を駆けて来たので、身体は温まり、血色が良くなっていた。無論、彼とは弟モクバのことである。青年期に差し掛かり肉の落ちた頬や鼻を、まるで子供に戻ったかのように赤くして、白い息をふうと吐いていた。
「クリスマスが馬鹿馬鹿しいって?」
 モクバが大仰に驚いた様子を見せる。
「まさか、玩具会社の社長がそんなこと言うつもり?」
「その通りだ。メリークリスマスなどと、玩具会社や外食産業の作ったブームに乗せられてどうする。乗せる側の人間が」
「けどさぁ」
 明るさを失わない様子でモクバは続けた。
「だからって、辛気臭いクリスマスを送らなくたっていいじゃない。ちょっとやそっとブームに乗せられて踊っても問題無いくらいの準備はあるんだから」
 それはその通りで、贅沢でもなんでも、クリスマスに限らずとも、できるだけの資産を彼は持っていた。だが瀬人は、再び、何を馬鹿馬鹿しいと、繰り返した。
「兄サマ、何をそんなに不機嫌になってるのさ」
「不機嫌にもなる。誰も彼もクリスマスだ何だと浮かれて、心を浮かれさせているだけならまだしも、手元まで浮かれさせているのではな。今日のラインの生産率を見ろ。それに、お前とて、メリークリスマスの一言のために仕事を中断しここに来たのだろうが」
 瀬人は大きく溜息を吐いた。
「メリークリスマスと祝いたいのなら勝手に祝え。パーティでも開けばお前の友人やメイドたちは喜ぶだろうさ。そうすればオレもオレのやり方でクリスマスを祝うまでだ」
「全く祝ってるようには見えないけど」
 モクバは肩を竦め、それから、諦めの混じった声で言った。
「まあいいや。明日だけど、皆呼んでのパーティはやるよ。だから、気が向いたら娯楽室に来て」
 そうは言ったものの、きっと来ないだろうとは予測の付くことだったので、モクバはもう一度念を押すようにクリスマスの祝辞を述べた。
「メリークリスマス、家にくらいは帰ってきてよね」
 彼の弟は出て行く時に工場の作業員たちにもメリークリスマスと声を掛けた。作業員たちは皆身体こそ冷え切っていたが、心は温かさを保っていた。というのも、誰も、メリークリスマスなんて馬鹿馬鹿しいとは言わず、丁寧な挨拶を返したのだ。



クリスマス・キャロル その5
 そうする内、作業員の一人が客を連れ事務室にやってきた。二人連れの男は、見るからに慈善家然とした、恰幅のいい紳士たちであった。事務室にやってきた彼らは脱いだコートを手に瀬人へお辞儀をした。
「海馬社長で御座いますね。伝説の決闘者の片翼だと、兼ねてより雑誌などでお顔を拝見しておりました」
 一人が、手帳を開きながらそう言った。
「もう引退して十年になりますが。御用は?」
「いやはや、急な訪問で失礼致しました」
 もう一人が名刺を差し出した。それを机の端に置いて、瀬人は、全く、と言葉を返した。
「お忙しいところかとは思ったのですが、クリスマスという機会に当たりまして」
 手帳を開いていた方の紳士が、ペンを手にした。
「目下クリスマスも年越しも祝う用意の無い人々のため、援助のお願いに各種企業を回っているところで御座います。この時世ですから、回れる先も限られてはいるのですが」
「では」
 瀬人は男たちに尋ねた。
「公共の支援所は無いのでしたか」
「いえ、幾らもありますよ」
「民間の炊き出しは、あれは今年も?」
「やっておりますよ、今年も。やる必要が無くなったと申し上げたいところですが」
「社会保障の、なんでしたか、あの法も充分に活用されていると?」
「ええ、ええ、勿論。活用の支援もしております」
 そこまで聞いて、瀬人は小さく笑い声を上げた。
「それは良かった。貴方々が初めに言われたことからして、何かそういうことごとの有益な運用を阻害するようなことが起こったのではないかと無用な心配をしてしまいました」
 紳士たちは、鼻白んだ様子を隠して言い募った。
「それだけでは、やはり、足りぬことも御座いますから。御社には、特に子供たちへの資金援助をお願いしたいと思っているのです。それで、ご寄付は幾らと致しましょうか」
 皆無、と、瀬人は答えた。
「匿名をお望みでしょうか?」
「何を仰る。今言ったことを聞いておられましたか? 皆無と言ったのです。クリスマスという機会に、私はなんの感慨も得ていない。自分すら愉快で無いこの季節に、他人を愉快にしている暇など。それに、先に上げたものの維持にならば、私は随分と出したものです。まずはそこを活用して頂きたい。話は以上でしょうか?」
 瀬人はそういうと扉の傍で所在無さ気にしていた作業員を呼び付けた。
「お客様がお帰りだ。門まで送って差し上げろ」
 二人の紳士が、どう言っても自分たちの主張が通らないと見て取ったものか、大人しく引き下がる。作業員が気の毒そうな表情で彼らを連れて行くと、瀬人は再び仕事に取り掛かった。