初めに言っておくと、エジプト王アテムという人間はもうこの現世にいない。これはまず間違いが無いことである。不思議な力によって一時の生を得ていた彼が、正しく冥界の門を潜ったのを、彼の依り代となっていた当時の少年も、親友たちも、冥界の扉番であった人たちも見送っている。海馬瀬人もそれを承知した。そして、海馬瀬人が承知したということは、いかなる場合にもそれが現実味を帯びて確かだと認められるものであった。彼の承知は、信頼がものをいう証券取引所の中でさえ、もっとも影響を及ぼすものの一つである。
だから、エジプト王アテムは、墓地に置かれたカードのように死に切っていた。
断っておくと、墓地に置かれたカードがどのくらい死に切っているかについては、正直疑うところも多いだろう。あれらは死者蘇生や速すぎた埋葬、或いは魔宝石の採掘などで簡単に場や手札に戻ってくるし、カードを引いて死に切っているとまで言うのなら、除外されたカードこそが何よりも相応しいのではないかと思う。だが、死と墓地を結び付けるのは先だってより当然とされることである。その当然をここで曲げてしまっては、比喩表現というものまでもが死に切ってしまう。故に、今ここに、エジプト王アテムは墓地に置かれたカードのように間違い無く死に切っていると、繰り返し書くことをお許し頂きたい。
海馬瀬人は彼が現世にいないということを知っていたか。既に書いた通り、勿論知って承知していた。彼を直接に見送ったわけではなかったが、どうして知らないままでいることがあるだろう。海馬瀬人と彼とは、年数で数えることができるかできないか程度の短い時間ではあったが、好敵手というものであった。唯一依り代の少年と彼とを分断して考えたもので、唯一友人とは別の枠に分類されたもので、また唯一彼の本性を知るものであった。だが、海馬瀬人ばかりは、冥界の門が開かれたその時、それを悲しむでも喜ぶでもなく見終えたものでもあった。
アテムが冥界の門を潜った時のことを書いたところで、本題に入るとしよう。アテムが冥界へ還ったことは砂漠の砂一粒ほどの小さな疑いも無い。このことは、必ず確かであると了解されていなければならない。でなければこのあと始まる話に説明が付かないのだ。例えば、ペガサスの恋人シンディアが死んだと言うことを理解していなければ、千年眼の持ち主となったペガサスにシンディアが姿を見せたことも、なんら変わった話とは思えないように。