致死量に届くまで 6
2006/12/17


 三日間登校しなかった。その間、海馬は三人の男を金で買った。三人とも、金を払った分だけ愛している演技をした。二人目の男が一番の役者だったが、所詮は虚構だった。
 男たちは皆カナリヤ色の髪をしていた。彼らの抱き方は虚しいくらい優しかった。けれど誰も海馬の身体を気遣いはしなかった。やつれた身体も目の下の隈も不気味な程白い顔色も、彼らは気に掛けなかった。本当は、誰も優しくなんてなかった。
 登校をやめて四日目の朝に、海馬は金で買った男たちと寝るのはもうやめようと思った。彼らは何の慰めにもならなかったし、何より自分が惨めだった。同じ惨めな状況なら、城之内に会う方がずっといい。
 学校に行こうと思って学生服に着替え、階段を下りている最中に周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。眩暈が酷くて立っていられない。倒れたら階段を転がり落ちることになる。危険だと思ったが、どんどん暗くなる視界では対処のしようも無い。
 最後にどさっという音を聞いて、海馬は気絶するように眠りに付いた。


「海馬?」
 目が覚めても瞼が重たくて開くのが億劫で、体勢を変えようと僅かに身動いだだけでそのまま寝ていようと思った。その身動ぎに反応した声が無ければきっとそうしたが、聞こえたその声が幻のようにあり得ない声だったから、思わず飛び起きてしまった。
「よう」
 ついに幻聴が聞こえるのみならず幻覚が見えるようになってしまったらしい。昨日までの三日間に会ったどのカナリヤ色の髪の男とも違う男が傍に居た。男の髪はカナリヤ色で、夢にさえ出て来てくれない薄情な男と同じ顔をしていた。
「おーい? 何か言えって」
 幻覚が会話をしろという。眼前で手をひらひらと振る。それからその手がぺちぺちと軽く頬を叩いた。
「城之内?」
「おう」
 幻覚じゃなかった。でも夢かもしれない。彼がここに来る理由など無い。
「何をしに来た」
「や、モクバが……」
 ふと気になって海馬は時計を見た。五時。十時間近く寝ていたらしい。ここ数日の分を補ったかのようだ。
「お前が倒れたって言うからよ……。モクバ、知ってんだろ? 見舞いに行かないってのも変に思われるんじゃないかと思ってさぁ」
 これは現実だ。夢なら、もっと自分に都合のいい優しい言葉を聞けただろう。
「気を回す必要など無かった。モクバは知っている。全て」
「え」
「好き合って付き合っているわけではないことも知っている」
 城之内は驚いたような顔をした。それからばつが悪そうにカナリヤ色の髪の頭をカリカリと掻いた。
「道理で態度がトゲトゲしてると思ったぜ……」
 モクバはあまり多くのことは城之内に教えなかったようだった。密やかに安堵している海馬に向かって城之内は少し笑った。
「でも、お前のこと心配しなかったんじゃないからな。モクバのことは、大義名分にしただけだぜ」
 この、不意打ちのような優しさを、いったいどうしろというのだろう。どうせ誰にでも気軽に優しさを与えてしまうくせに、こんなものに一々嬉しくなって、自分が馬鹿みたいじゃないか。
「城之内」
「うん?」
「したい」
 城之内は呆れたと言わんばかりに深い溜息を吐いた。
「お前な……倒れたんだろ。駄目に決まってんじゃねぇか」
「したい」
「……おい」
 あぁ、とうとう城之内の前で泣いてしまった。ずっとずっと耐えていたのに、とうとう涙腺が壊れてしまった。
 視界が滲んで表情なんか見えやしないが、城之内は困った顔をしているだろう。見えないけれど想像は付く。思えばそんな顔ばかり見ている気がする。困らせてばかりだ。
「何なんだよ、オレ泣く程キツイこと言ったか?」
 だってそれしか自分にはないのに、セックスしかあの女を追い抜くものはないのに、いっそ嫌いだと言ってくれれば諦めたのに、納得もいったのに、誰にでも与える優しさでその他大勢みたいに扱うから、約束だけが中途半端に残って、惨めで、惨めで、どうしようもなくて。
「あ、どっか苦しいのか?」
 見当違いな問いに海馬は首を横に何度も振った。
「何なんだよー」
 涙が止まらない。また目が腫れてしまう。きっと涙腺だけじゃなくいろんなものが壊れてしまったのだ。
 今まで自分が屋敷の内外でどんな風に言われていたかくらい海馬は知っている。冷酷非道、躊躇無く全てを切り捨てる、休んでいるところを見たことが無い、二元論でしかものを考えていないのではないか、人間じゃない。そう、まるで機械のようだ、と。
 きっと、口に出せない言葉が詰まって、機械が壊れてしまったのだ。海馬はそう思った。
「したい」
 好きだと言えない代わりに口に出す言葉さえ受け取ってもらえないのなら、スクラップにでもなってしまえばいい。壊れた機械なんか何の役にも立たない。邪魔なだけならいらないものだ。
「ああもう、分かったよ、しようしよう、セックスしよう!」
 唐突に叫んで城之内は彼の袖口で海馬の目に溜まった涙を拭った。視界がはっきり見えるようになって海馬は城之内を凝視した。
「何にそんなに執着してるのか知らねぇけど、取り敢えずしよう」
 城之内が妥協して、セックスをしてくれることになった。それはいいが、ずっと寝ていたからその前にシャワーを浴びたい。言い出し難かったが海馬がそれを告げると、彼は何でも無い顔でいいけど、と言った。
 鏡を見ると顔はぐちゃぐちゃで目も当てられない有様だった。シャワーを出して顔を洗う。ふと思い付いてシャワーを冷水にしてみた。頭から冷水を浴びる。普通、冷たいものに触れた箇所は時間が経つと逆に熱くなる。体内の血がそこに集まるからだ。体内の血が全て冷たくなれば、そうなるまでこうしていれば、冷たい身体を城之内は少しは優しく抱いてくれるだろうか。
 眩暈がしてタイルに座り込んでしまった。シャワーはザァザァ流れ続ける。冷た過ぎて身体中に震えが走る。もうさすがに止めないとと思うのに、動けない。
「海馬?」
 唇が震えて返事ができない。
「おい……入るからな?」
 がらりと浴室の扉が開いた。
「うわ、大丈夫かよ? 動けるかーって、コレ、水!?」
 城之内はシャワーを止めると海馬を浴室の外へ引き摺り出した。お湯を掛けようとしないのは、こういう時は急に温めてはいけないのだと知っているからだろうか。
「なかなか出て来ないと思ったら……何やってんだよ」
 バスローブをバスタオルのように使って城之内は海馬の身体を丁寧に拭いた。髪の水気も切ってしまうと置いてあった服を適当に着せ、多少ふら付きながらベッドまで運んだ。天蓋付きの豪奢なベッドの中央に下ろし、毛布と羽根布団で海馬を包む。
「ほら、やっぱり今日は大人しく寝てろ」
「嫌だ」
「嫌だじゃねぇっての。もう泣き落としも効かねぇからな」
 子供をあやすように頭を撫でられた。その手を捕らえて頬に寄せる。
「今なら、こんなに冷たい」
「な、おまっ……わざとかよっ?」
「ここまでやるつもりは無かった」
「……とにかく駄目だっ。テメェも、もっと自分の身体大事にしろって」
 城之内に彼の手首を掴んでいた手を離させられた。離された手はすぐに布団の中に入れさせられた。
「ほら、寒くねぇか?」
 寒いに決まっている。だが、そんな風に、気遣われるためにしたことじゃない。身体を大事になんて、愛されていればそうしたけれども。
「セックスに使わないなら」
「え?」
「セックスに使わないならこんな身体いらない」
 城之内は酷く驚いた顔をして、動揺した。
「その科白、聞くの二回目だぜ」
 複雑な、ともすれば泣き出しそうな表情で城之内が呟いた。
「二回も言ってない」
「お前から聞いたんじゃねぇもん」
「じゃあ」
 そんなことを言われるような関係を他にも持っていたことがあるのか。考えるだけで胸がむかむかしてくる。こんな、権利も無いのに嫉妬するような真似は見っとも無いと思うのに。
「昔話してやるよ。だから、今日は大人しくしてろ」
 どこか遠い目をしていた。城之内がベッドの端に腰を下ろす。
「オレが、触れ合ったり、そういう時に乱暴にしかできねぇの、それにはわけがあるんだよ」
「わけ?」
「まあ、切っ掛けっていうか。オレがまだ中学に入ってすぐの頃、親父が家に愛人っていうかセフレっていうか、そういうの連れて来てたことがあって。……見ちまったんだよな」
「セックスを?」
 城之内は苦笑した。そうなのだろう。だが、それがトラウマになったのだとすれば駄目なのは体温でなくセックスの筈だろう。疑問が顔に出ていたのか、城之内は苦笑しながらも先を続けた。
「それだけなら、親父もお袋と別れて結構経ってたしさ、見なかった振りでもして遣り過ごしたんだけどよ」
「……何があった」
「その二、三日後にその女の人がまた家に来て、親父は留守だったんだけど、何したと思う?」
 分からない。何か良くないことがあったのだろうけれど。
「酒飲んで、酔っ払って、まだ飲もうとするからオレがこう言ったんだ。飲み過ぎたら身体壊すよ、って」
「それが一度目?」
「そ。セックスに使わないならこんな身体いらない、ってな。まだほんのガキだったオレは、いいようにおびき寄せられて」
 城之内が咽喉でクックッと笑った。自嘲気味な笑い方だと思った。
「そのセックスをやらされちまったってわけだ。まだ全然免疫も無いし、ちょっと弄られただけで収まりが付かなくなってよ。それをいいことに、逆レイプだったぜ、あれは」
「それで、駄目に?」
「まあな。酔っ払ってるわけだからすげぇ体温高くなっててさ。その時に人肌って気持ち悪ぃって思っちまったんだよ。ヤな話だろ。今でもムカつくぜ。だからかもしんねぇけど、同じような状況になるとその時にムカつきながらしたようなことしかできなくなんの」
 心底嫌そうな顔で城之内がそう言った。ムカつく。城之内にしてみればそうとしか思えないだろう。だが、海馬はその女に憐れみと共感を覚えた。憐れみと、共感を。
「許してやれ」
「は?」
 その女はきっと城之内の父のことが本当に好きだったのだろう。たとえ自分が城之内の父にとってはただの愛人、あるいはセックスフレンドの一人に過ぎなかったとしても。城之内の父はその日留守にしていたという。どこに出掛けていた。恐らくは、他の誰かのところに。
「許してやれ。憐れな女だったのだ」
 憐れな女だ。虚構に手を出してもいっそう惨めになるだけだと知らなかったのだ。自分を抱いたカナリヤ色の髪の男たち。髪以外、誰も城之内に似てなどいなかった。彼らに比べれば、城之内は城之内の父に似ていただろう。同じ血が流れているのだから。その女は酔っていた所為だけじゃなく判断力が鈍っていたのだ。苦しかったから、虚構でもいいとその時は思ってしまったのだろう。
「一度切りか、あったとしても僅かな期間だっただろう?」
「一回だけだよ。そのあとは、親父とどうなったのかも知らねぇ」
「やはりな。……貴様にとって、トラウマを植え付けられたということは許し難いことかもしれない。だが、許してやれ。本当に、憐れな女だったのだ」
 虚構を求める程にその精神が病んでいた。
「何だよ、お前に、何が解るって」
「解るさ。貴様は解らないだろうが」
 城之内はその女の心情を考えたことなど無いに違いない。それが普通なのかもしれない。きっと、解る方が異常なのだ。海馬はそう思いながら城之内の髪を眺めた。
「……なぁ、普通はオレを慰めてくれるモンじゃねぇの?」
「許してやれ。そのトラウマは、きっとそうすることでしか慰められない」
 もしその傷が癒えてしまったら、城之内はあの女のところに行ってしまうだろう。だからその女が城之内に抱かれた理由までは教えてやらない。卑怯なことをしている。核心だけを与えないなんて。
「オレは……やっぱり許せねぇよ」
 城之内が立ち上がった。それでいい。城之内はその反発心が大きい性格によって、決してその女を許さないだろう。許すとすればその行動の理由に気付いた時だろうが、きっと気付かないに決まっている。
「もう今日は帰るな。マジで、身体大事にしろよ」
 愛してくれるのなら。言えない言葉を海馬は飲み込んだ。


 モクバの指示を受けたSPたちが部屋の前に常時待機していたため、次の日海馬は部屋の外にすら出られなかった。それなら残り半分のプログラムをとパソコンを開こうとしたが、肝心のパソコンそのものが部屋から持ち出されていた。いつの間に持ち出していたのかは知らないが、休めという無言の圧力だった。
 仕方なく海馬は丸一日何もせずに過ごした。何もしなかったというのは違うかもしれない。色々なことを考えた。今まで考えたくなくてずっと放っていたことを考えた。社長としての自分、兄としての自分、海馬瀬人としての自分、どれが一番大切なのかを考えた。海馬瀬人としての自分は選べない。このことについて考えるのは、城之内との今の関係を終わらせることについて考えるのと同じだ。
 海馬瀬人であることを選びこのまま衰弱を続け休養を取らざるを得ない状況でいれば、いずれ海馬コーポレーションは立ち行かなくなる。モクバは、ひょっとしたら海馬よりも経営の才覚があるかもしれないが、あの子はまだ幼過ぎるのだ。優秀な部下もいるが、社を明け渡すことへの不信は無くならない。
 兄であることだけは捨てられない。人は生きてきた意味を捨てることはできない。
 答はこんなにはっきりしている。解答を先延ばしにしていた。社長であることも兄であることも捨てられないけれど、海馬瀬人であることも捨てたくなかったから。
 答は出てしまった。今の状態を終わらせなければならない。手段はもう決めてある。どう転んでも絶望的な結果にしかならないのだろうけど、結果がどうであれ、その手段によって導き出されたものならそれを受け入れようと海馬は決めた。
 今日は学校に行く。


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 瀬人がちょっと持ち直してきたところで、次がラストになります。当初から言っていた通り二種類のラストとなりますので、お好きな方をご覧下さい。