致死量に届くまで 5
2006/12/10


「海馬」
 酷く気だるいのを我慢して、海馬は呼ぶ声に答え目を開けた。
「ごめん、海馬」
 目の奥がちかちかして痛い。頭は酸素不足のように働かなかった。痛む目で辺りを見渡すとそこはあのトイレではなかった。
「大丈夫……じゃないと思うけど。何か言えよ、なぁ」
 ここは空き教室か何かだろうか。視点が異様に低い。寝かされているのだと漸く気が付いた。そういえば頭の下に何か柔らかいものがある。そう理解してから見ると城之内が学ランを着ずに指定外のシャツ一枚で居るのに合点が行った。
「……寒くないのか」
 望み通り言葉を発すると途端に城之内は安堵の表情を浮かべて、それから乾いた声で笑った。
「寒い?」
「別に」
「……痛い?」
「別に」
「嘘吐けよ」
 そう思うなら初めから聞かなければいいのに。
「ごめんな。ろくな準備もしなかったからさ……お前は女抱くみたいにしろって言ったけど、濡れないし、やっぱ違うから、もっとちゃんとしなきゃ駄目だったんだろうけど」
「別にいい。オレがそうしろと言ったのだから謝る必要もない」
「謝らせろよ。ちゃんとしたかったんだ本当は。言い訳にしかならねぇけど、始めるまではそう思ってたんだ。始めてからも、思うだけなら」
 城之内に目許を指で撫でられて、こういう、性的でない接触は平気なのかと海馬は考え、そうだとすればいつも遊戯たちとじゃれていられるのにも納得が行くと結論付けた。
「腫れてる。ごめんな、痛いって泣いてたの分かってたんだけど、身体が勝手に動くんだ。とっととイって終わっちまえって、自分がイケたらいいって、道具みたいに扱ってたと思う」
 速く終わらせたいとしか思わない程に体温を嫌う理由は何なのだろう。聞いてみたかったが怒らせるのではないかと思うと聞けなかった。冷たい声はもう聞きたくない。
「マジでごめんな。でも、なんで抵抗しなかったんだよ? しろって、逃げろよって、言ったじゃねぇか」
「本気で駄目だと思ったら、だろう? 思わなかった」
「……馬鹿だ、お前。思っとけよ、オレあんなに滅茶苦茶なことしたんだぜ」
 最終警告を聞いたのだから、分かっていたことだった。痛みでも何でもいいからと、望んだのは自身だった。言わないけれど好きなんだ。だから全てを許してしまえる。
「痛かったよな。傷、酷いみたいだったから、本当なら病院とか行った方がいいのかもしれない」
「問題無い。そんな必要」
 起き上がろうとして眩暈がした。痛みに下腹を押さえると城之内が慌てたように身体を支えた。
「まだあんまり動くなよ。痛いんだろ」
 言いながら城之内は時計を見上げた。つられた海馬も視線を向ける。もう、一時間目が終わってしまう。何の授業だったかなど、海馬は知らないが。
「戻らなくていいのか」
「あー、うん。だってよ……」
「放って行って構わないぞ。動けるようになったら勝手に帰る」
「帰る? 家に?」
「そうだ」
 こんな状態で授業なんか出られるわけが無い。会社に行っても何もできそうにない。頭がぼんやりして何も考えが纏まらないのだ。
「学校に何しに来たんだって感じだよな」
「……セックス」
「馬鹿だ。こんな目にだけ遭いに来たなんて」
 馬鹿みたいなのは自分が一番良く分かっていると海馬は憮然とした。城之内は気付かない。海馬が何を思っているのか。気付かない。だから、残酷に優しい。
「戻らないのか」
「あー、お前が動けるようになったら戻る」
「放って行って構わないと言っている」
「馬鹿、これ以上オレを人でなしにさせんなよ」
 ここに居る方がよっぽど人でなしだ。そう言いたかったけれど、約束を勝手に破っているのは自分だから何も言えなかった。城之内は宣言通り海馬の身体が動くようになるまで傍に居た。城之内に二時間目もさぼらせてしまった。彼は気にしていないようだった。


 呼び付けた車に乗って帰った海馬を執事が苦い顔で出迎えた。
「ですから今日はお休みになりますよう申し上げましたのに」
 執事は当然だが学校で何があったのか知らない。突然の帰宅理由は朝からの体調不良、疲労が悪化した所為だと思っている筈だ。
「今日はもうゆっくりお休みなさいませ」
「……昨日の、企画書を見なければ」
 別段急ぎの仕事は無かったし、だから執事も休むように言ったのだろうが、できる限りのことを前倒しにしておいてしまいたかった。そうすれば明日も学校に行けるし、それにどうせ眠れやしないのだから、休めやしないのだから、このぼんやりして何も考えられない頭でもできることがあるのなら今してしまおうと思った。企画書はモクバが持って来たものだ。確認なんて本当は必要無い程よくできたものなのだろう。あの聡い弟のことは信頼している。
 執事は海馬が企画書を取り出したのを見ると渋い顔をしてご自愛をと言い部屋を出て行った。自愛など自分以外の誰かに愛されている人間だけができることだ。
 海馬は企画書に目を通しやはり手直しなど要らなかったことを確認すると必要箇所にサインを書いた。不思議なものであれだけぼんやりしていた頭は仕事を始めると急速に冴えていった。ノートパソコンを開いて社長業の方ではなく開発業の方のデータを立ち上げた。
 時間も忘れてC言語を打ち込み続けた。途中一度だけメイドが昼食を取るよう声を掛けに来たが、必要無いと追い返した。プログラムが恐ろしい速さで半ばまで組み上がった時、初めて時間を思い出した。外界から自分を呼ぶ声がしたからだ。
「兄サマ、あんまり根詰めない方がいいよ。食事にしよう、ね?」
 時計の針は八時を指し示していた。食欲は困ったことに全くと言っていい程無かったが、これ以上モクバに心配を掛けたくなくて食堂に向かった。


「兄サマ、大丈夫?」
 今日のメニューはメインが蒸した白身魚だった。脂が乗り過ぎていたわけでも、まして不味かったわけでもないが、口に入れた途端に言いようの無い嫌悪感が込み上げ、無理をして飲み込んだそれを、魚の半身も食べない内に全て吐き出してしまった。
「昼も食べなかったんでしょう? 食べられなかったの?」
 自室に戻り胃液しか出て来なくなってそれでもまだ吐いてとうとう何も吐けなくなって漸く汚してしまった服を着替えた。洗面所から居室に戻るとモクバが栄養剤を持って立っていた。
「朝から殆ど食べてないでしょう。身体壊しちゃうよ」
 モクバはサプリメントの類を普段はよしとしない。食べられないのだから仕方が無い、今回は特別に、ということなのだろう。
「具合が悪いんじゃないんでしょう? もうやめなよ。いつから、なのか知らないけど。辛い、だけなら」
 ご自愛をという執事の言葉を思い出した。誰にも愛されていないわけではない。懸命に抱きしめてくるこの子供の腕だけで満足できたらよかったのに。どうして他の腕を求めてしまったのだろう。
「嫌だ」
 愛が偽りでも、あの腕を差し出してもらえるならこの関係をやめたくない。
「嫌だ」
 抱きしめる腕の力が強くなった。この腕が城之内の腕だったらよかったのにと思ってしまって、海馬はモクバに対する罪悪感で、どうしようもない程苦しくなった。


 似たようなことを一週間続けて八日目に、朝から学校へは行けなくなった。さすがに溜まり出した仕事を放り出すことはできない。それでも必死にそれを片付けて、四時間目が終わる頃に教室に入った。
 授業が終わってすぐに城之内が席を立った。どこに行くのかと遊戯が問い掛けている。城之内はちょっとな、と曖昧な返事をして輪から抜け出した。どこへ向かうのか海馬は知っている。城之内は屋上に向かうのだ。屋上には出られないように鍵が掛かっている。しかし城之内はヘアピン一本で魔法みたいにその鍵を開けてしまう。そして中から鍵を掛け直せば屋上は開かれた密室となるのだ。
「よう」
 海馬が屋上に向かうと城之内は思った通りそこに居た。海馬が内側から鍵を閉める。いつも通り。
「今日は遅かったんだな」
 城之内の隣に腰を下ろす。この一週間ずっとこうして密会じみたことをしていた。
「城之内」
 いつも通りに海馬は掠れた声で城之内の名を呼んだ。セックスをトイレでしたのは最初の一回だけだった。誰かが入って来るかもしれないし、入って来なくても声を抑えなければ外に筒抜けになっているかもしれない場所はあまりよいものではなかった。立ったままになるのも海馬には辛かった。
「城之内、したい」
 いつもならこれで、困った顔をしながらも城之内が流されてセックスになる。今日もそうなるだろうと思ったのに、城之内は笑ってそれを拒んだ。
「今日はやめとけ。顔色悪ぃぞ」
「問題無い」
「……マジでやめとけって。疲れてんだろ、余計体力使うようなことすんなよ」
 城之内は傍らに置いていたパンを一つ放り投げた。彼はもう一つ拾い上げて包装を開け、中身のカツサンドに齧り付いた。
「食えよ。飯持って来てねぇんだろ」
「いらない」
「……いつもそれだな。なんで食わねぇの」
 食べたら吐いてしまう。ここのところずっと食事をまともに取れていない。家では食べるようにしているが、結局は全て戻してしまう。栄養の摂取源がサプリメントから栄養剤注射になっても、モクバはもう何も言わない。子供の腕で抱きしめてくるだけだ。
「食べたくない」
「じゃあちょっと寝とけよ。目の下隈できてるぞ」
「眠くない」
 折角空けた時間なのにそんなどうせできないことをするのは御免だった。
「したい」
「……お前が飯食ってちょっと寝て顔色良くなったらな」
 それじゃあ、いつまで経っても無理じゃないか。城之内の出した条件は今の海馬に取っては厳し過ぎた。
「なんで」
 城之内がセックスをしてくれなくなってしまった。自分だけに与えられるものはセックスしかないのに、それをしてくれなくなってしまった。身体だけでもよかったのに、誰にでも与える優しさならいらなかったのに、そんな風に、気を使うようなことはしないで欲しかった。優しくされたい、けれども。自分だけに優しくして欲しいなんて、約束だから言わないけれども、それなら代わりに何か一つでいいから自分だけに与えられるものが欲しかった。酷いセックスだけでよかったのに。
「なんで」
「なんでって……なぁ」
 城之内は言葉尻を濁した。本当にするつもりが無いのだ。
「帰る」
「え、もう?」
 驚く城之内の横で海馬が立ち上がった。立ち眩みを堪えてドアへ向かう。
「おい、本気で帰るのかよ。何しに学校来てんだよ」
「……セックス」
「おい」
 追い掛けて来そうだったから勢いよくドアを閉めた。鉄のドアは重たい音を立てて屋上と校舎内を分けた。階段を下りる。止められなかったしゃくり声は響いた足音に掻き消された。


 それから何をどうしたのか海馬はよく覚えていない。だが今自室に居るということは、どうにかしてここまで帰って来たのだろう。習慣だから迎えを呼ぶくらいはしたと覚えているが、見っとも無く泣き顔を晒している主人を運転手はどう思っただろうか。屋敷の中をどう歩いて部屋に着いたのだろう。誰と擦れ違ったか、全く分からない。主人として屋敷の人間に不安を与えるような言動は控えるべきであるというのに、この一週間で屋敷の中が騒然とし出したのは海馬の気の所為ではないだろう。
 大きな姿見を覗き込むと当然ながら自分の姿が映る。これでは城之内がセックスを拒むのも無理は無いと思った。吐いてばかりいるからすっかりやつれてしまった。眠っていないから目の下の隈は見たことも無い濃さだった。元々良くない顔色は蒼白いのを通り越して蝋人形も斯くやという有様だった。泣いた所為で瞼は腫れ上がり目は赤く充血している。何が直接の原因なのかは知らないが、肌は乾いてガサガサになっていた。
 鏡から顔を背けた。愛されず見向きもされない身体なんて持っていても意味が無い。虚構でもいいから、身体だけでいいから、そう思ったからあの不毛な約束を持ち掛けたというのに。
 虚構でもいい。もうどうでもよかった。自棄になっていると言われれば否定できない。初めから約束がそこにあったのに、傷つく方が馬鹿なのだ。
 虚構は虚構に求めればいい。海馬はそう思った。


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 後書が書き辛い……
 残り二話くらいだと思います。