致死量に届くまで 4
2006/12/7


 翌朝は眠らない内に訪れた。今日、本当なら出社して纏める筈だった資料を徹夜して纏めた。学校に行くために、そうしなければならなかった。
「おはよう御座います、瀬人様。昨夜はお眠りになれませんでしたか」
 執事は疲労の色が濃い海馬の顔色を見てそう言った。その言葉で、姿見に映った自分が酷くくたびれているのに気が付き海馬は背筋を伸ばした。目の下の隈は仕方が無いが、姿勢だけでも良く見せたい。
「……授業中にでも寝るとしよう。学生らしく、な」
「いっそお休みになってはいかがです。或いは、午後から登校なさってもよいでしょう」
「いや、登校する。そのための徹夜で休んでは、本末転倒だ」
「さようで」
 執事は海馬に先立って歩き食堂の扉を開けた。食堂ではすでにモクバが朝食を取っていた。
「おはよう、兄サマ」
「あぁ……おはよう」
 トーストと目玉焼きとサラダと牛乳がモクバの前に並んでいた。海馬の分は丁度運ばれて来たところだった。モクバが食べているものより薄いトーストとサラダと朝だからとミルクを多めに足されたコーヒーが並べられた。海馬は申し訳程度にトーストを齧り、サラダを食べ、半分程コーヒーを飲んだ。
「下げてくれ」
 側に居たメイドにそう言って海馬は席を立った。メイドは何か言いたそうな顔をして、四分の一も減っていないトーストとサラダが入っていた器と半分残されたコーヒーを下げた。朝の海馬が食事を残すのはよくあることだったが、今日はいつもにも増して食欲が無いようだった。
「兄サマ、ちゃんとご飯食べないと」
「食欲が無い。昨日の晩食べ過ぎたのかもしれないな」
 全くの嘘を吐いて海馬は食堂を出た。一階へ降り、玄関ホールで使用人たちに見送られて胴長の車体に乗り込んだ。黒塗りの車は学校へと滑らかに走り出した。


「おはよう、海馬君」
「あ……あぁ」
「珍しいね、海馬君が二日続けて学校に来るの」
 海馬は遊戯に声を掛けられて振り返り、城之内にも言われたが、自分が連続で登校することはそれ程までに珍しかっただろうかと暫し考え込んだ。
 教室には疎らに人が集まっていた。城之内はまだ来ていない。だがもうすぐ姿を現すだろう。昨日はこれくらいの時間に来ていた。
 遊戯は、海馬が相手をしなかったからか、すぐに既に登校しているいつもの仲間の所へ行ってしまった。まだ来ていないのは城之内だけかと思いながら海馬は席に着こうとした。海馬の席は教室の廊下側一番後ろにある。遅刻早退が当たり前の海馬のために、その席は何度席替えがあっても固定されたまま変わることが無い。
「海馬」
 名前を呼ばれて海馬は机に落としていた視線をはっと上げた。城之内が教室に入って来て、その途端に気付いてくれて、嬉しくなって海馬はほんの少し微笑んだ。
「あ、城之内君、おはよう!」
 城之内に気付いた遊戯が再びこちらに戻って来た。手に何か紙切れを持っている。
「よ、遊戯。何持ってんの?」
「あ、これねぇ」
 城之内の意識が紙切れに向いてしまい、遊戯への恨み言を考えながら海馬は座ろうとして引いたままになっていた椅子に腰を下ろした。遊戯は城之内に紙切れを手渡している。
「昨日ボクのところに舞さんから電話が掛かってきて。城之内君と連絡が取れないって言うから、ボクも試してみたんだけど繋がらなくて」
「あ……悪ぃ、電話代払ってないからだ」
「え」
「や、振り込むの忘れてただけだって。通帳分けてるとつい忘れちまうんだよな」
「よく解んないけど、そうなの? まぁ、それでね、ここに掛けて欲しいって、舞さんが」
 遊戯が城之内に渡した紙切れには十一桁の数字が書かれていた。携帯の番号だろう。周りに居た生徒が騒ぎ出した。
「うわ、それってあの巨乳のおねーサマの?」
「赤いスポーツカー校門の前に止めて城之内待ってたことあるよな」
「マジ、彼女だったり? 羨ましいぜ」
 城之内は面倒臭そうに頭を掻いた。
「舞とはそんなんじゃねぇって」
「うぉ、呼び捨てかよ!」
 否定の言葉にさえ周囲の興奮は高まる。酷く不快だった。周囲があの女を城之内の付き合っている相手だと思っていることも、城之内があの女を舞と呼ぶことも。
「あのな……ダチだよ、ダチ」
「でもあのおねーサマは城之内に気があると見た!」
「そーそー、マジでただのダチだって言うなら、紹介しろよ」
 城之内は誤魔化すように曖昧に笑った。紹介なんてできる筈が無いのだろう。城之内はあの女が好きなのだから。
「だからよ……」
 城之内が一瞬ちらりと海馬の方を窺った。
「……もうこの話はやめようぜ。それよりさぁ、最近駅前でよ」
 話題は城之内が新しく提示した方へ流れた。城之内は優しい。だから、あの女の話を聞かなくて済むようにくらいは気を払ってくれる。だが、遊戯の手前だけでなく、城之内はあの番号に電話を掛けるだろう。そして自分はそれに何も文句を言えないのだ。それが約束だから。
 席を立つ。吐き気がした。恐らく、どうしようもなく、精神的なものだ。
 人前で醜態を晒したくはない。どうにか堪えて人気の無いトイレに駆け込んだ。胃袋が引っ繰り返っているみたいな感覚で、耐えるのをやめるとすぐに吐けた。吐いたのは殆ど胃液だった。当然だ。昨日の夜は何も食べなかったし、今朝も二口トーストを齧り殆ど水気か食物繊維のサラダを少し食べただけなのだから。
 トイレの水を流しながら、胃液を吐くと歯に悪いらしい、と、何となくそんなことを考えた。手洗い場に行って口を漱ぎ、目尻に浮かぶ生理的な涙を拭う。生理的なものであった筈の涙は拭っても拭ってもとめどなく溢れて来て、抱き締めて好きだと言ってもらえればすぐにでも止まるのにと思った自分を、海馬は馬鹿みたいだと思った。
「酷い顔だ」
 鏡に映った自分の顔を見て思わず海馬はそう声に出した。目の下には隈ができ、それはともかく、泣いた目は赤く充血して微かに瞼が腫れている。これでは教室に帰ることもできない。
 授業が始まるまではまだ少しばかり時間がある。もう暫くここに居ようかと思った時、ガコン、と音がして廊下と手洗い場を隔てるドアが開いた。咄嗟に顔を逸らせたが、掛けられた声に振り向いてしまった。
「ここに居るとは思わなかった」
 城之内は手に携帯電話を持っていた。彼のものではないだろう。遊戯辺りに借りたのかもしれない。人気の無い所であの女に電話をするつもりだったに違いない。
「さっき、ごめん」
 城之内はその携帯を制服のポケットに仕舞って謝った。
「……何故謝る」
「嫌だったんじゃないかと思って」
「どうして。それが約束だろうに、気にする必要は無い」
 一歩、二歩と城之内は海馬に近付いた。これ以上近付かれたら目が赤いのがばれてしまう。それを恐れて海馬が後退りしようとしたと同時に、城之内のポケットの中で彼のものでない携帯が鳴った。
 携帯は電話のようでなかなか切れなかった。城之内は仕方なしに開いて番号表示を見てみると海馬に向かって申し訳なさそうな顔をした。
「……出ればいい。あの女か?」
「ごめん」
 城之内は通話ボタンを押して廊下に出た。自分を追い出せばよいだろうにと海馬はドアの向こうに消えた城之内が何を話しているのか考えながら思った。
 少しして城之内はまた戻って来た。海馬は鏡を見て、さっきよりは随分マシな顔になっていることを確認してから城之内の方を向いた。
「何故戻って来た?」
「……お前が出て来難いんじゃないかと思った」
 海馬は無言で俯いた。また泣いてしまいそうだった。
「会わないか、って話だったんだ」
 城之内が急に始めたのが何の話か初め海馬には判らなかった。電話の件だと思い当たって、優しいくせに無神経だと内心で罵った。
「……会うのか」
「会わない」
「何故」
「だってさ、夜のお誘いだったんだ。会ったらしなきゃいけない気がするだろ」
 酷いセックスしかできないからしたくないと言う。酷くてもいい、身体だけでも、あの女を出し抜きたい。そう思ったから不毛な約束を持ち掛けた。つい昨日のことだ。約束を持ち掛けたのは、つい昨日のことだ。
 そんな風に思うようになったのがいつだったかは忘れてしまったけれど。
「昨日」
「うん?」
「昨日、モクバに」
 自分を卑怯だと思う。城之内の気持ちを変えられないから、代わりに、逃げ道を潰している。卑怯で、惨めで、馬鹿みたいだ。
「見られていた」
「だから言ったのに」
 間髪居れず城之内は呟いた。何を、と海馬は言わなかったけれども、そんな風に言うようなことは一つしかなかった。
「だから、あんな公共の場で」
「反対は最終的にされなかったからな」
「そういう問題じゃねぇよ」
「昨日と同じことを言うのだな。城之内、オレたちは付き合っているんじゃないのか? 反対されなかったというのは、重要なことじゃないのか?」
 捲くし立てて、海馬はさっきよりもさらに深く俯いた。怖くて、顔を上げられなかった。『試し』なのにと思われているだろうことが怖かった。
「何なんだよ。舞のこと、気にするなって言うくせに、そういうことを言うのかよ」
「あの女に関することは何も言わない。そういう約束だ。だが、貴様と、付き合っているのはオレだ。これも約束だ。好きでなくていいし好きにもならない。それでも、付き合っているのは貴様とオレだ。そうだろう?」
 城之内に俯いた海馬の表情は読めない。海馬の方が上背はあるが、例えば遊戯やモクバとのように、そう差があるわけではない。
「実感でも欲しいのか? 『試し』に」
 実感がセックスを意味すると海馬が気付くのは速かった。あの女とはできないから付き合わない。裏返せば付き合っているからセックスをするということなのだろう。城之内にとって、セックスすることは付き合うことに等しいことで、だからそれが実感なのだろう。
「貴様に、できるのか?」
 体温が気持ち悪いと言っていた。気持ち悪いものに触れながらその気になれるのか。
「見縊るなよ」
 相当に失礼な言葉には、さすがに城之内も不快な表情を浮かべた。冷たい声。海馬でさえ、一瞬凍り付いた。
「最初に言っただろ。嫌いなだけだ、って」
「だったら」
 実感をくれないか。言い掛けた海馬の言葉は始業のベルが鳴る音に遮られた。
「引き返すなら今だな」
「オレも、お前もな。本当にいいのかよ? オレ、相当酷いことするぜ」
「別に構わない」
 城之内は個室のドアを開けて古く黄ばんだプラスチック製の便器の蓋を閉めた。
「男初めてなんだけど」
「女を抱くように抱け。大して変わりはしない」
「お前、男がイイの」
「……分からない」
 分からないのは本当だった。海馬は、男も、女も、経験がある。男の方が少し多い。男相手には抱かれたことしかないから、そういう嗜好なのかもしれない。いずれにせよ、一方通行な思いでも、好きな人とするセックスは初めてだった。
「体温とか、本当に駄目で。乱暴にしかできねぇし、本気で駄目だって思ったらちゃんと抵抗して逃げろよ。女の子じゃねぇんだからできるだろ」
 最終警告に頷くと城之内が個室のドアを閉めて海馬をそこに押し付けた。押し付けたといってもまだ乱暴な動作ではない。だが恐らく乱暴にされても抵抗はできないだろう。きっと、全てを許してしまう。
 ベルトが外されズボンと下着を一緒くたにを下ろされる。足元で溜まって自由を奪うそれを海馬は完全に脱ぎ去った。まだ普段と変わらない城之内がそれを拾って便器の蓋の上に置く。
「本当に、本気で抵抗しろよ」
 城之内は意を決したように海馬の白くて人よりは冷たい足に触れた。ささくれ立った手に内股を撫で上げられて、海馬は震えた。快楽にではない。幸せに、震えた。
 愛撫は短く性急で乱雑だった。潤いも何も与えられず指を差し入れられた秘所はキシキシと音を立てた。
「まっ……い……たい、いたい、い、た、あぅ」
 一本目の指にさえ慣れない内に突き入れられた二本目の指は乾いたそこに亀裂を入れた。流れ出した血が潤滑油の代わりとなって少しだけ指の動きを滑らかにする。
 まだ十分に慣らされたとは言い難いそこから二本の指を抜いて城之内は幾分硬く起立したものを宛がった。綻んでいない細い穴にそれは太過ぎて、海馬はみしみしという音が身体の底からするのを聞いた。
 立って居られなくなってずるずると落とした腰がより深くそれを咥えこんだ。入り口近くの裂傷から流れる血の他潤いの無い内部が深い場所に新たな裂傷を作る。
「う、ぅ、っく、ひ……っく」
 酷くなった痛みに言葉も喋れず海馬はただただしゃくり上げた。しゃくり上げて、城之内にしがみ付いて、多分そのために余計酷い目に遭っていると分かっていて、そうしたくて仕方が無かった。
「畜生、畜生、畜生」
 城之内は顔を歪めながら乱暴に身体を揺さ振った。
「畜生っ」
 熱くなり出した身体を手酷く扱われながら海馬はそれでも一切の抵抗をしなかった。城之内は何度も畜生と繰り返していた。何故かは知らない。彼の感情と行動は、実は一致していないのかもしれない。
「う、うぁ……ぁ、っく、ぅ」
「畜生っ……!」
 こんなもの、普通ならセックスとは呼ばない。それでもこれが城之内のセックスならそれでいいのだと海馬は思った。優しくされたい。けれども、それは後回しだ。痛みでも何でもいいから自分だけに与えられるものが欲しかった。あの女が与えられないものなら何だってよかった。優しくされたい、けれども。
「あ、う、うぅっ、じょうの、ち、ぃ……ひっ」
 名前を呼ぶと一瞬だけ正気に返ったみたいに、太腿を折ってやると言わんばかりに強く掴んでいた手が緩んだ。本当に一瞬の出来事だったけれども、その一瞬だけでも正気の城之内に抱かれたことが嬉しくて嬉しくて、痛みも何もかも忘れて海馬は綺麗に微笑んだ。
「あ、ぁ」
 涙や何かでぐしゃぐしゃの顔を恍惚に染めて、綺麗に微笑みながら海馬は意識を手放した。


<BACK NEXT>

 瀬人ファンにも城之内君ファンにも申し訳ない展開になってきました。石投げるのは勘弁して下さい。ラストはきっちり収束付けますので!
 あ、あと、舞さん好きな人にもごめんなさい……! 瀬人視点だとどうしても悪者になってしまいますが、個人的には舞さん好きです。