致死量に届くまで 3
2006/11/20


 城之内が指定したファミリーレストランに着くと海馬の機嫌は再び上昇した。日本語に仮名が振られ写真まで付いたメニューは、海馬には懐かしかった。
「決めた?」
「……同じものでいい」
「オレ、ステーキセットだぜ。いいのか?」
「あぁ。いや、セットにはしなくていい」
 海馬の言葉を聞くと城之内はちょうどテーブルの横を通り過ぎようとしたウェイトレスを呼び止めて二人分の注文をした。注文が繰り返されウェイトレスが立ち去ると城之内は水をコップ半分程飲んだ。咽喉が渇いていたのだろうか。それとも、水と一緒に何か言葉でも飲み込んだのか。
 大方さっきの話だろう、あの女のことだろう、そう思って海馬もまた水を飲んだ。浮上した筈の気分が再び沈んでいくのを海馬は他人事のように感じていた。喧騒に近い話し声や何かの中にいると気が触れそうになる。騒々しさは城之内に纏わり付く女を連想させた。海馬は海馬自身で思っているよりもずっと、本当に愛されているのが自分でないことを気にしていた。
 本当は、好きで、愛しているのだ。海馬は、城之内を。再び水を飲んで、海馬は零れそうになる言葉を胃に押し込んだ。
 ウェイトレスは少しして料理を運んで来た。慌ただしく料理を置くとすぐに厨房に戻ってしまう。店は少し混み始めていた。
「食わねぇの?」
 鉄板の上でジュウジュウ音を立てる肉を一切れ口に運びながら城之内が尋ねた。その視線は手付かずでいる海馬の鉄板に注がれている。海馬はいや、とそれを否定して肉にナイフを入れた。飲み込んだ言葉で胃が溢れかえっているのか、正直あまり食欲は無かったが、取り敢えず肉を切り分けていくと漸く城之内が自分の鉄板に視線を戻した。
 海馬は肉を細切れにしながら城之内が食べる様を見ていた。城之内は食べるのが速かった。肉もパンもサラダもスープもぺろりと平らげてしまったのを見て、海馬は細切れの肉を半分、城之内の鉄板に移した。
「何、くれんの?」
「あぁ」
「……くれるのは嬉しいけど、お前全然食べてないだろ」
 僅かにも減っていない海馬の鉄板の上を見て、城之内は顔を顰めた。城之内が食べている間、海馬は肉を細切れにしていただけだった。ナイフとフォークが動いていたから、食べているものなのだと城之内は思っていたようだが。
「食欲が無い」
「だったら、なんで食いに行かないかなんて誘ったんだよ?」
「食べられると思ったんだ」
「……何だよそれ」
 呆れた顔をして城之内は移された肉をまたぺろりと平らげた。その間もずっと海馬は肉を細切れにしていただけだったが、見る影も無いくらいぐちゃぐちゃにされたその肉は、今度はもう城之内の鉄板に移されなかった。
「もう出るか? それとも、他のモン頼むか?」
 ステーキだった肉片の塊を見て城之内が海馬に尋ねた。店はさっきより混み出していた。
「もういい」
「じゃあ先に出てろよ」
「会計は」
「何も食ってない奴に払わせるかよ」
 自分が勝手に食べなかっただけだと文句を言おうとした海馬の眼前に城之内は細長い紙切れを突き付けた。
「ヘルプの時に貰った只券。有効期限もうすぐなんだよ」
 スタッフ用、と書かれたそれに海馬は大人しく外へ出た。学生服だけでは寒い。今は秋と冬の丁度変わり目くらいだった。いつもいつも家と会社と偶に学校を、車で移動しているから、季節なんて気に留めていなかった。
「うわ、寒いな」
 支払いを済ませて、といっても紙切れ二枚を渡しただけだが、出て来た城之内が大袈裟に震えて見せる。多少演技がかったそれとは対照的に、海馬はカタカタと小さく震えた。
「寒いよなー。で、もういいのか?」
「何が」
「もう帰る? ってこと」
「あ……あぁ」
 少し震えた声が、馬鹿みたいだと海馬は思った。


 帰りもまた電車に乗った。行きと比べてそれは格段に混んでいた。二度目の帰宅ラッシュに会ってしまったのだろう。まだ車両の中は幾分自由に動けたが、次の駅で身動きも取れない程になるだろう。
「な、ちょっとこっちに立って」
 ドアの横に申し訳程度に空いた場所があった。混むと半端でなく苦しい場所だが、奥に入ってしまうと降りられなくなるかもしれないからと城之内はそこに海馬を立たせた。童実野駅は降りる人よりも乗ってくる人の方が多い。海馬コーポレーションがあるからだが、海馬は知りもしないことだった。
 乗り込んだ次の次の駅で車両内はやはりぎゅうぎゅう詰めになった。城之内はさり気無く壁に手を附いていて、海馬は座席と壁と城之内に挟まれていた。狭い空間だったが押し潰されて苦しいということは無かった。
 こういった混雑に慣れていないのは確かだが、こんな風に、か弱い生き物のように護ってもらう必要は無い。しかし、女たちはこの行為に優しさと名前を付けて喜ぶのだろう。
「海馬?」
 俯くと城之内が名前を呼んだ。顔を上げられなくなった。酷く泣きそうになったから。
 ずっと俯いていると人の足元しか見えない。不快な気分になった。息苦しい気がする。密閉空間に多くの人が入っているからだろうか。
「おい、大丈夫か? 具合でも悪いのかよ」
 丁度電車のドアが開いた。童実野駅は二つ先だったが、城之内に引き摺られるようにして海馬は電車を降りた。背後でドアの閉まる音がして、続いて列車の走り去る音が聞こえた。
「酔ったのか?」
 城之内は海馬の顔を覗き込んだ。蝋人形のようなそれに驚いて、彼は椅子を探した。それは小さな駅の構内には無くて、仕方なく城之内は海馬を連れて改札を出た。
「ほら座れよ。貧血か? 飯食わねぇからだぞ」
「気持ち悪い」
 それ切り黙ってしまった海馬に、困ったような顔で城之内は小さな溜め息を吐いた。
 海馬は気分の浮き沈みが激しい。行きの電車でもそうだったことや細切れにされた肉片を思い出して、情緒が不安定なのだろうと城之内は結論付けた。
「何か飲むか?」
 自販機を指差して城之内が尋ねた。そのままその自販機まで歩いて行ってしまいそうな城之内の服の袖を海馬は緩く引いた。
「何?」
「何も要らない」
 腕に縋ると城之内は座っている海馬に視点を合わせるように少し屈んだ。
「要らない、から」
 一瞬だけ、掠めるように唇を合わせた。血の気の無い唇はちゃんと冷たかっただろうか。そんなことを考えながら海馬は城之内の腕を掴んだまま深く俯いた。
「……海馬。何なんだよ、こんなトコでそういうのやめろよ」
「誰も居なかった」
 俯いたままで答えると、城之内は今日一番に大きな溜め息を吐いた。思わず腕を掴む手にびくりと力が入る。
「何て言うかさ、そういう問題じゃねぇだろ。こういう、公共の場でやめろよ」
 海馬は黙って腕を放した。それでもずっと俯いたままで居ると頭上で城之内の溜め息が聞こえた。さっきの、聞かせるための大きな溜め息とは違って、本気で吐いたような自然な溜め息だった。
「……具合は?」
 これでまだ心配されているだけ有り難いのだろうと海馬はぼんやり考えた。自分ならば、好きでもない相手に、それもこんな面倒な相手に、優しくなんかできやしない。
「もういい」
「え?」
「もういい。帰れ」
「何」
「オレのことは放って帰れ」
 海馬は顔を上げずにそれだけ告げた。城之内が戸惑うのが分かる。彼は残酷なまでに優しいから、弱った人間を放っては行けないだろう。
「お前はどうすんの」
「迎えを呼ぶ」
 海馬は携帯を取り出した。真っ白いボディに海馬の目の色そっくりな青いストラップが付いている。
「今日は付き合わせて悪かった」
「……は、お前が謝るのって変な感じ」
「そうか」
 海馬は犬か何かを追い払うように手を振った。城之内は一瞬顔を引き攣らせて、それから諦めたように溜め息を吐いた。今日の彼は溜め息を吐いてばかりだ。
「今度いつ学校来んの?」
「……明日」
「へぇ。珍しいじゃん、連続登校」
「そうかもな。……もういいだろう。帰れ」
 携帯を持っていない方の手で顔を抑えて、海馬はそう言い直した。少し頭痛がする。泣いて、喚いて、そうしたいのを我慢しているからかもしれない。
「……帰るよ」
 深い溜め息を吐きながら、また明日、と言って城之内は海馬に背を向けた。
 ホームに戻って行くその背を見送って、海馬は静かに微笑んだ。自嘲じみたその笑いと共につぅ、と涙が流れて、慌ててそれを拭った。周囲に人気は殆どと言っていい程無かったが、自分で始めたことに自分で傷付くなんて馬鹿みたいなことは御免だった。
 泣いて、喚いて、好きだと言ってしまいたかった。城之内はきっと困った顔をしただろう。彼は残酷なまでに優しいから、きっとそうしただろう。自分のことを好きでなくても、きっとそうしただろう。
 優しくされると期待してしまう。困った顔をして、それから自分もだと言ってくれるのではないかと期待してしまう。あり得ないと分かっているから、優しくされると辛くなる。だって彼は自分を好きでない。最初にそう言われた。
 パチンと音を立てて海馬は携帯を開けた。短縮番号を押すとワンコールで繋がった。
「オレだ。迎えが欲しい」
 『どこにいらっしゃるのですか?』
「ここは……」
 海馬は振り返って駅名を見た。童実野駅から二つ離れた駅名は、海馬にはあまり馴染みが無かった。
「西隣玉駅だ。改札を出てすぐの所に居る」
 『分かりました。すぐにお迎えに上がります』
 通話を切って海馬は辺りを見回した。駅は小さかったが、辺りはそれなりに発展しているようだった。それは隣接している童実野町の発展の恩恵だったが、童実野駅は降りる人よりも乗ってくる人の方が多いことを知らないように、海馬には知るべくも無いことだった。
 海馬は青いストラップの輪を指先で弄んだ。青いストラップは以前モクバがくれたものだった。それまでは何も付けていなかったから、何度か取り落としそうになっているのに見兼ねたのだろう。
 青いストラップを弄ぶのにも飽きてきた頃、黒塗りの車が近付いて来た。それは海馬の前で止まり、幾分驚いた顔の運転手によってドアが開けられた。
「お一人ですか?」
「そうだが、何故だ? 一人で居るのがおかしいか」
「いえ……」
 運転手は海馬が後部座席に乗り込んだのを確認してドアを閉め、運転席に戻った。
「ただ、モクバ様とご一緒かと思っておりました」
「モクバと?」
 モクバの今日のスケジュールを海馬は把握していなかった。学校には行った筈だが、そのあとはどうしたのか。
「瀬人様が西隣玉駅と仰いましたので、てっきりモクバ様とお遭いになったのだと」
「モクバはこの辺りに居るのか?」
「そうですね……もうお帰りになっているかもしれませんが。この間瀬人様が行かれた……何と言いましたか、あの仏蘭西料理店で会食があると今朝伺いました」
「あぁ……そうか」
 あの店はこの近くにあったのかと海馬は内心で呟いた。地理感覚が無くなっている。駄目だな、と思う。
 黒塗りの車は極々静かに海馬を運んだ。先程の電車とは対照的だった。電車はよく揺れて、人でいっぱいで、城之内が居た。今はどれも当て嵌まらない。
 さっきは優しくされるのが辛くて城之内を帰らせたのに、やっぱり優しくされたくて、一緒に乗って行けばいいと言えばよかったと海馬は思った。


 門を抜けて黒塗りの車体が止まると海馬はドアが開けられるのを待たず自分で外へ出た。奥の方で、車庫に向かう同じ色の車が見えた。海馬を運んだものより小型のそれはモクバの専用車だ。
 海馬が玄関扉の前に立つとそれは内側から開いた。執事以下のものたちが並ぶ玄関ホールを抜けて海馬は自室のある二階への階段を上った。
 海馬の私室の前にモクバが立っていた。殆ど擦れ違いのように海馬が帰って来たという知らせを受けたのだろう。
「ただいま、モクバ」
「……兄サマ。お帰りなさい」
 声を掛けるとモクバは一瞬視線をさ迷わせた。海馬にはそれが少し気になった。
「モクバ……?」
「何でもない。それより、これ」
 モクバが差し出したのは何かの書面だった。会食で提示されたものだろうか。それを受け取りながら、あぁ、と海馬は声を上げた。
「そういえば、今日の会食はこの間オレが使った所でしたらしいな」
「……うん」
「西隣玉の、駅の近くにあるところだろう? オレも今日はあの近くに行ってな、それで」
 先を続けようとした海馬にモクバは一言、知ってる、とだけ冷たく返した。
「何?」
「知ってるよ、城之内と一緒に居た」
「見たのか?」
 驚く海馬にモクバは少し顔を険しくした。
「見掛けたのなら声を掛けてくれればいいだろうに。そうしたら、一緒に帰れた」
 気付かない振りで話を続けた。結局、それは失敗だったのだけれども。
「声なんて、掛けれるわけ無いじゃないか! ねぇ兄サマ、何やってるのさ。駅前なんかで、あんな」
「見たのか」
「見えたんだよ。城之内、嫌がってたんじゃないの? なんであんなことしたの」
 口調は幾らか責めるような響きを内包していた。酷く重く圧し掛かってくる声だった。まるで、何も言えなくなるような。
「いいだろう?」
 震える指先を隠しながら、海馬は漸くそれを呟いた。
「いいだろう、オレたちは付き合っているのだから」
 声は多少上擦ったかもしれない。海馬はそう言い放った。
「嘘でしょう」
 疑問ではなく、断言して、モクバは海馬を見詰めた。
「嘘でしょう。城之内が兄サマを好きな筈が無い」
「どうして断言できる」
「兄サマ、オレだってあの時バトル・シップに乗ってたんだ。オレはデュエルしないけど、遊戯たちとは、城之内とは何回も会ってるし、……孔雀舞にだって」
 孔雀舞の名を聞いて、海馬は静かに息を飲んだ。指先の震えは止まりそうにもなかった。
「だが、モクバ。それでもだ」
 少しの嘲笑を含んで海馬は笑った。
「人の考えなど、三日もあれば変わる。あれから、どれだけ経ったと思っている?」
「兄サマ、それじゃあどうして、さっきオレがあの人の名前を出した時に動揺したの」
 だってそういう約束なのだ。咽喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、海馬は俯いた。そうしたところで、海馬よりまだ幾分も背の低いモクバからは表情を隠せない。黙り込んだ海馬をどう思ったのか、長息して、それからなるべくゆっくりと、モクバは言葉を紡いだ。
「兄サマさぁ、きっと幸せになれないよ。男同士だからとか、そういう社会的な意味じゃなくて」
「いいんだ」
 決して好きにはならないと、約束したあの時から。
「それでいいと決めたんだ」
 だが本当にすまないと思っている。本当に、すまないと。心の中で何回も海馬は謝罪を繰り返した。
 約束なんて最初から破っている。でもせめて言わないから。好きだなんて言わないから。約束を守っている振りなら、完璧ではないかもしれないけどできるから。だから許して欲しい。すまないと思っているんだ。騙すようなことになって。
 本当に、すまないと。
「兄サマ」
「……何だ?」
「無茶しないでね」
「あぁ。……有り難う」
 海馬は小さく微笑んだ。それで安心したわけではなかったけれど、それ以上には何も掛ける言葉が無かったので、モクバは悩みながらもその場をあとにした。


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 本筋と全然関係無いですけど、小さいモクバ久し振りに書きました…! このモクバは瀬人のこと普通に兄サマとしか思ってません。
 地の文に瀬人の心情がダダ漏れになってきましたが、こういう書き方ってどうなんでしょう。分かり難いでしょうか。分かり難かったらスミマセン。