致死量に届くまで 2
2006/11/13


「今日……このあとは暇か?」
 珍しく長ったらしい終礼が終わるまで居た海馬が向かったのは、掃除用具入れの前に成されている列の最後尾に居る城之内の所だった。城之内が海馬の質問に片眉を跳ね上げて溜め息を吐く。
「掃除だよ」
「そのあとは」
「……何も無いけど」
「掃除にはどれくらい掛かる」
「きっかり二十分。なんで知らねぇんだよ。今までしたこと無いのか?」
 呆れたように城之内は大袈裟に肩を竦めて見せた。学校生活などまともに送ったことが無いのだから仕方あるまいと、海馬が声には出さず呟く。
「……で? 掃除は二十分。それがどうかしたのかよ?」
「待っている。から、そのあとで食事に付き合わないか」
 海馬の突然の言葉に、城之内はさも意外そうにどうしてだと問い返した。
「どうしてか、など。付き合うならば基本はこうだろう? あぁ」
 楽しげに咽喉を鳴らしながら、海馬が箒を取った城之内の袖を引き彼が行こうとするのを留める。
「海馬」
「やはり、オレも行こう。構わないだろう? 掃除を手伝うんだ」
「今まで掃除をしたこと無いような奴が居ても役に立たねぇよ」
 邪魔だと言わんばかりに海馬の手を払いのけ、城之内は箒を持って歩き出した。
「……勝手に付いて行くからな」
「海馬」
「どこの掃除をするんだ? 教室ではないのか?」
 何を言っても無駄だと解ったのか、城之内はもう何も言わなかった。海馬は、黙ってそのあとに続いた。


 二十分間、海馬がしたことといえば小柄な女生徒に頼まれて棚の上の埃をはたいたことくらいだった。
「有り難う、ここ、高いからいつも大変なの」
「……そうか?」
 ぬけぬけと問う海馬に平均的な日本人体型の男子生徒たちがそうなんだよと返して塵を掃き集める。それ以上手伝う気も無かったので、海馬はじっとそれを見ていた。
「それにしてもさぁ、珍しいよな。城之内のオマケに海馬……君が付いて来るなんて」
「そうか?」
 心の内ではそうだろうなと思いながらも、海馬はそう言葉を返した。
「だってさ、城之内っていつもは本田とか武藤とかと一緒だろ。海馬……君だって、城之内には、その……オレ、てっきり二人は仲悪いのかと思ってたし」
「まぁ、そうだよな」
 海馬は学校ではある程度大人しくしていたけれども、城之内は、普段のことからだろう、そう相槌を打った。海馬がぴくりと髪で見えない眉を吊り上げる。
「酷い男だな。城之内、貴様どうしてそこで否定しない」
 少し拗ねたような物言いに、周りの女生徒がそうよそうよと加勢する。ああそうかよ、悪かったよ、と、城之内はちっとも誠実でない謝り方を、した。


 海馬が行きたいと言ったのは城之内にとって敷居の高過ぎる仏蘭西料理店だった。ドレスコードという言葉を聞いて、城之内は顔を歪めた。
「んなトコに着てく服なんて持ってねぇよ」
「用意させる」
「いらねぇから、別の店にしようぜ。偶には庶民の店に入ってみろよ」
 不服そうに海馬は鼻を鳴らした。別に、その店の仏蘭西料理をそれ程まで食べたかったわけではない。庶民の店に入ることが不服だったのでもない。ただ、自分が当たり前に思うことと城之内が当たり前に思うことに差があるということが不服だった。
「庶民の店な、庶民の。どこがいい?」
「……どこでも」
 海馬の気の無い返事に城之内は大きな溜め息を吐いた。
「オレが別の店がいいって言ったから怒ってるのか?」
「違う」
「じゃあ、どこがいい?」
「知らない」
 再び同じ質問を返す城之内に海馬は僅かに俯いてぼそりと呟いた。聞き取れなかった城之内が顔を覗き込んで、何、と聞き直した。
「知らない」
「知らない?」
 どういう意味かと問おうとしたが気付いたというところだろう。海馬が庶民の店を知らないということ、それから、そのことを多少気に病んでいること。城之内は慌てたように言葉を繋いだ。
「あー、えっと、ファミレスとかファーストフードとか」
「ファーストフードは嫌だ」
「じゃあファミレスな」
 海馬は学生服のポケットから携帯を取り出した。迎えの車を呼ぶために出したそれが、城之内によって取り上げられる。
「何をする」
「迎え呼ぶつもりだったんだろ? 庶民の店にリムジンで乗り付ける気かよ」
「駄目なのか」
「おう。歩いて行こうぜ。ここの駅前……はファーストフードしかないんだよな。別のトコ行くか。お前、電車で移動なんて滅多にしないだろ」
 海馬にとって移動は自家用車かヘリなど航空機でするものだった。電車に乗って移動というものを最後にした時、海馬はまだ海馬瀬人でなかった。
「急ごうぜ。今ならラッシュに遭わなくて済む」
 城之内は奪った携帯を海馬に返すと学生鞄を持って歩き出した。実感の無いラッシュの言葉に、それでも海馬は急いでそのあとを追った。


 下校時刻とも帰宅ラッシュの時刻ともずれた時間帯の所為か、電車には殆ど人気が無かった。城之内は広いシートの中央に座った。近くに座るのも遠くに座るのも不自然な気がして、結局海馬は拳二つ程空けて座席に腰を下ろした。
「駅五つ向こうにオレがバイトしてたトコがあってよ。ファミレスにしちゃ結構美味いんだぜ」
「今はしていないのか?」
「あ? バイトか? そこはな、元々ヘルプで入ってただけだったんだよ」
「今は、他の所で働いているのか? 今日は、オレに付いて来てよかったのか」
 海馬は矢継ぎ早に質問を浴びせた。城之内がそれに苦笑する。
「今は朝刊の配達と週末の現場だけだよ。お前、オレの家のこと知ってんの?」
「……貧しい父子家庭」
「知ってんのかよ。まぁ、その通りだったんだけどな」
 過去形で語る城之内に海馬は訝しみの視線を向けた。それに気付いた城之内がへらりと笑って先を続ける。
「オレの親父は酒に溺れて借金ばっかり増やすロクデナシだったんだけど、ある日気付いたわけだ。まだろくな稼ぎも無い高校生の息子にたかるより、金のあるオバサマにたかる方が効率的だってことと、自分が意外に顔はいいんだってことに」
「それで」
「それで、どっかのオバサマのヒモになって出て行っちゃったってわけだ。だから、オレの家はもう父子家庭じゃない」
 海馬は何か言おうとして、とうとう何も言えなかった。置いて行かれたことを、城之内がどう思っているのかが分からなかった。
「楽でいいよ。バイト減らしても生活できるようになったし、遅くに帰っても殴られねぇし」
「そうか」
「そ。でも偶に淋しくなる」
 自分が居るのにと言いたかった。言えなくて、海馬は黙った。海馬が何を言いたかったかまではともかく、何か言いたかったけれど言えなかったということには城之内も気が付いたようだった。それを指摘しようと思ったのか、城之内は何事か言い掛けて、そしてやめた。海馬の不機嫌は尾を引くし、機嫌取りも厭味を貰うのも城之内には面倒にしか思えなかったのだろう。だから代わりになのか、城之内は海馬が座る時拳二つ空けたその空間に手を投げ出して、夕飯を人と食べるのは久し振りだと、言った。


 それから二駅の間、海馬の機嫌はそれなりに良かった。僅かながら笑い、終始何事かを話し、城之内はそれに時折相槌を打てばそれで海馬の機嫌を維持できた。
 三つ目の駅を通り過ぎた頃、海馬は一度黙り込んだ。次にその唇が開くまで、少しの間があった。
「城之内」
「うん?」
 声が少し掠れていて、海馬は心の中で溜め息を吐いた。こんな風に、余裕が無いのでは駄目だ。約束を護っている振りをしなくてはならないのだから。
「どうしてあの時、いいけど、と言ったんだ?」
「あの時って」
「オレにするといいと言った時。好きになんかならないと貴様が言って、オレが、それならオレも好きになったりしないと言っただろう? そうしたら、貴様は、だったら、と言ったではないか」
「ああ、言ったな」
 海馬の言っていることは全くもって正しかったので、少しも否定することなく城之内は答えた。
「だったらいいけど、と。どうして言ったんだ?」
 それはどこかおかしな質問だった。少なくとも、自分のどこが好きかを問う恋人たちの甘さは無かった。
「……なんでそんなこと聞くんだよ?」
「何故など、それは」
「断ったのならともかく。いいって言ったのになんでそんなこと聞くんだよ?」
「だが」
 気になることは一つや二つではなかった。それでも、一番不安なのはたった一つのことだった。
「だが、貴様、本当は」
 海馬の言い掛けの言葉に城之内は少し眉根を寄せてみせた。
「本当は、あの女のこと、」
 電車が揺れる。車輪と線路がこすれ合う摩擦音が大きくなった。雑音ばかりが聞こえて、会話は、一旦途切れた。
「いいんだよ」
 城之内はすぐには答えなかった。答えられなかったのだと海馬は思った。
「いいんだよ。付き合っても酷いことしかできないし」
「酷いこと」
「体温が気持ち悪いから、付き合って、やることやって、その時に優しくできねぇもん」
 セックスの時に乱暴な男って最低だろ、と城之内は笑って言った。他人事のような笑い方だった。
「オレならよかったのか?」
「言い出したのはお前だろ」
 告げ方は冷酷にも思えた。結局、城之内が好きなのはあの女なのだ。彼は自分を好きでない。判っていたことだった。最初からそう言われていた。
「城之内」
 海馬は死にたいような気分で呼び掛けた。学生服の袖をきつく握り締める。
「分かってはいたが。自分が一番じゃないというのはやはり悔しいな」
「お前の一番だってオレじゃないんだろ。好きですらない『試し』なんだろ?」
「それは、そうだが。誰が貴様など好きになるものか。だが、自分より上が居るのは、悔しいものだろう」
 さも何でもないように海馬は言った。学生服の袖は握られたままだった。
「……テメェはプライドが高いからそう思うんだろうよ」
 いつの間にか四つ目の駅は過ぎて、今まさに五つ目の駅に到着せんとしていた。ここで降りるのだったな、と、小さく呟いて海馬は立ち上がった。


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 自分で書いててなんですが、瀬人が可哀想でなりません。でもって、城之内君をお好きな方には大層申し訳なく……!