チェンジ・ザ・ライフ 1
2010/12/30


「今日という今日は頭にきた! んなに言うんならもう別れてやらぁ!」
 どん、と壁を一つ殴って、金髪の青年がドアに向かった。
「城之内」
 呼び止めたのは同じ年頃と見える栗色の髪の、これまた同じ性別と見える青年だ。
「今更呼び止めたってなぁ、」
「忘れものだ」
 投げ付けられたのは昨夜外したままにしていた腕時計だった。首許に当たって落ちたそれを城之内が拾う。
「取りに来られては困るのでな」
「ああそうかよっ!」
 今度こそ、彼はドアを開け部屋を出て行った。残された青年が開け放たれたままにされたドアを閉めるため立ち上がる。その時一瞬ふらりと身体が傾いだのは、寝不足や仕事での無茶やプライベートでの一時的かつ過剰な運動や――詰まるところの疲れと、激しい言い合いの直後で酸欠気味だったことが理由だろう。そういえば、言い合いをしたから喉も渇いている気がする。
 ドアを閉めようとした彼は、ただ閉めるのはやめて、何か飲みものでも淹れさせようと階下の厨房に向かった。
 そして、その途中で、階段を踏み外した。


 城之内にしてみれば、帰路を歩いている時だった。ポケットで震えだした携帯を取り出し、ディスプレイを見てみると、海馬モクバと表示されている。今しがた別れたばかりの相手の弟だ。別れ話を聞き付け仲裁でもしに掛けてきたのかだろうか。どうしようかと迷い、だが無視をするにはあまりにも長く震え続ける携帯に、城之内は観念して通話ボタンを押した。
『あっ、城之内? 早く出ろよな、こっち大変なんだから!』
「大変ってなぁ。最初に言っとくけど、オレは絶対悪くねぇかんな」
『はぁ? なんの話だよ。また喧嘩してたの? そんなことより大変なんだってば! 兄サマが階段から落ちて頭打って記憶喪失!』
 階段から、落ちて、頭打って、記憶喪失。言われた言葉を脳内で三度繰り返して、城之内は辺りに人のいる道端にもかかわらず、素っ頓狂な大声を上げた。
「え、ちょ、えええ? 記憶喪失ってどんくらい?」
『まっさらリセット。日常生活に必要な行動は覚えてるけど、自分が誰かとか、そういうのは全部覚えてないって。とにかく詳しいこと直接説明したいから、今すぐ戻ってきて』
「お、おう。分かった、すぐ行くぜ」
 慌ててそう返事をし、携帯を切って、それから彼は思い出したが、彼らはつい十数分ほど前に他人に戻ったところである。
 いや、でも、一応知り合いの一大事だし。心の中で自分に言いわけをしてから、城之内は走り出した。


 駆け付けた城之内にモクバが説明したのは、こういうことだった。
 突如響いた大きな音に驚いた使用人たちが音の発生源であると思しきホールに向かうと、屋敷の主である海馬瀬人が床に倒れていた。もしや賊かと思ったが、よく見れば、倒れている位置は階段の真下、倒れている格好は受身を取らなかったと見えるものである。要は、元々不健康な生活を送っている主が貧血なり眩暈なりを起してひとりでに落ちたのだろう。
 そう判断した彼らは、主の弟を呼んで指示を仰ぎ、頭を打っている様子だったので念のため医者を手配することにした。しかし医者が来る前に瀬人が目を覚ましたのだ。
「あ、兄サマ気が付いた? 頭打ってるから動いちゃ駄目だよ。階段から落ちるなんて何をぼーっとしてたのさ」
 声を掛けたモクバに対する瀬人の反応は、妙にゆっくりだった。何かを確かめるようにモクバをじろじろと見て、それから、漸く彼はこう言った。
「お前は、誰だ?」
 そして医者が来て判断したことには、彼の症状は物理的衝撃に依る記憶喪失で、治るかどうかははっきりとしないというものだったのである。

「というわけ。で、まずは知り合いに会わせたり、普段の生活環境に置いてみたり、そういうので記憶が戻る切っ掛けにならないか試してみるのがいいんだって」
「そりゃ大変……な割に、なんか落ち着いてね?」
 仲のいい兄弟だった筈である。もっとパニックに陥っていても無理は無かろうという状況で、不自然さを感じ城之内はそれを指摘した。モクバが苦笑して答える。
「うん。なんていうか、巧く言えないんだけど……城之内も取り敢えず会ってみてよ」
 言いながらモクバは瀬人の部屋の戸を開けた。相変わらず豪奢を通り越して貴族の姫君の部屋のようになっているその部屋の、天蓋の着いたベッドの端に、誰かが腰掛けている。
 誰か、なんて部屋の主以外にあり得ない。別に天蓋が邪魔して姿が見えなかったというわけでもない。視界に入ったその姿は確かに海馬瀬人の姿だったが、だが城之内は、誰かが、と思った。見慣れた筈の顔が、見慣れない表情でこちらを見ている。
 あどけない――普段比での話であって実際は年相応――、毒気が無い、不安げ、様々な言葉が城之内の脳内を飛び交った。記憶喪失なんて冗談じゃないのかという疑いが完璧に晴れる。
「ええと、モクバ」
 口調まで幾らか柔らかい。
「あ、紹介っていうのも変だけど、紹介するね。城之内克也、兄サマのクラスメイトで、趣味が一緒で、あ、さっき説明したカードなんだけど」
「ということは、友だち、ということか?」
 モクバは顔に出さなかったが城之内の驚きは顔に出た。友だち。友だちである。言っておくと別れたばかりの元恋人であったことを忘れられていたから驚いたのではない。そんなことは記憶喪失なのだから当たり前だ。しかし友だちである。海馬瀬人の口からそんな言葉を聞く日が来るとは。
「何かおかしなことを言ったか?」
 効果音を付けるなら、おずおず、と、瀬人が問う。城之内は瞬時に判断した。
 あとで記憶が戻ったらどうなるか解らないが、今ここではそういうことにしておかないとなんか可哀想だ。
「や、なんもおかしくないぜ! 記憶喪失だってのに当てるから、ビックリしたけどな!」


 そして暫く遣り取りをし、嘘に嘘を塗り重ねた城之内が再度の岐路に付いたのは二時間後のことだった。疲れた様子の瀬人は部屋に残り、モクバが彼を見送りに出ている。玄関口で、彼らは顔を見合わせた。
「え、何、アレ。記憶ってそんな人格に影響すんの?」
「多分……元々昔はあんな感じだったし。親戚中たらい回しにされたり、施設暮らしだって陰口聞かれたり、養子になった先で虐待受けたり、マネーゲームで荒んでったりしなきゃ、今もああだったんじゃないかなって思うし」
「あー、まあ、生まれた瞬間から人間不信の人間なんかいねぇわな」
 まるで別人のようだったが、それだけの記憶が消えればさもありなんという話である。
「なんつーか……記憶戻んなくてもいいんじゃね?」
「だからオレもあんまり焦ってないんだよね……会社だって、日常行動の記憶に問題が無いならそのまま続けられそうじゃない? 無理でも最悪オレがどうにかするしさ」
 モクバの言葉に神妙な顔で城之内が頷く。あまりの変わり様、それもいい方向に、の所為で、忘れられたショックなど彼らからは軽く吹き飛んでいた。


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 最大手原作の記憶喪失ネタに敢えてのトライ。短期連載でドタバタコメディの予定です。