チェンジ・ザ・ライフ 2
2011/1/10


 そして数日が経ち、周囲の態度に違和感を抱いていないわけではない、というのが瀬人の言い分である。
 普通、記憶喪失の人間に対しては、早く記憶を取り戻してくれないと困るという態度がもっと見え隠れするものではないのだろうか? だが、皆、無理に思い出そうとしなくていいと口を揃えて言うのだ。これが精神的ショックに依る記憶喪失だというのなら解る。だが、自分は階段から落ち頭を打った物理的ショックで記憶を無くしただけなのだ。
 念のため数日は安静に、というので、あれから瀬人は一日の殆どを邸内で大人しく過ごしていた。無論、寝た切りだったわけではないのだから、多少の現状把握はし終えている。記憶を無くしても、頭の回転速度まで落ちたのではない。
 どうやら金持ちと言われる部類の人間だったらしい。真っ先に判明したのはそれだった。判明も何も、調度品や屋敷の広さを見れば明らか過ぎる事実であるが。
 どうやら学生と会社社長を両立していたらしい。これには多少瀬人の認識間違い――両立というには社長業の方に力を入れ過ぎていた――があるが、全くの間違いでもない。これを教えたのはモクバである。
 瀬人は現状把握の二本柱となるであろうそれらを考えの中心に据えた。例えば、会社で派閥争いなどがあって、或いは家で相続争いのようなものがあって、この記憶が失われたままの方が都合がいいということはないだろうか? だが、考えて、瀬人はすぐにその疑問を打ち消した。家でそんな争いがあったなら、モクバはもっと自分に冷たい態度を取っただろう。今はともかく、まだ記憶喪失だと気付かれていない時にもモクバは仲の良い兄弟のように振舞っていた。そして、会社のことを教えたのもモクバだ。家でなく会社で争いがあったとすれば、そもそも社長だったことなど教えなければいいだけではないか。
 そして、堂々巡りの思考の末に、瀬人は一つの結論を導き出した。即ち、皆心配し気を使って無理しなくてもいいと言ってくれているのだろう、と。
 記憶を失う前の瀬人ならば、絶対に出さなかったであろう結論だった。


 その数日の間に、モクバと城之内は今後の方針に関する話し合いを行っていた。
「兄サマの記憶が戻らないとして、発表するかしないかが問題だよ。株的には」
「あー、ワンマン経営だもんなぁ。ガッコも、日数ヤバイ教科あるんじゃなかったっけ? そろそろ登校しないとマズイだろ」
「隠し通せると思う?」
 問われ城之内は首を捻った。この場合、問われているのは学校の話である。
「遊戯たちは無理だろ。他は、元々近寄ってく奴もいねぇし、どうにでもなるだろうけど」
「こっちは、多少おかしく思ったって面と向かって追求できる奴もいないだろうし、兄サマに記憶喪失のことを隠すようにしてって言えばなんとか、かなぁ……」
 二人は暫く黙りこくった。城之内はただ待っていただけだが、モクバの脳内では兄にも負けない処理速度で今後の展開が予測されている。
「遊戯たちにばれるのは仕方ないってことにしよう。けど、他にはばれないように。城之内、遊戯たちにも口止めしといて」
「了解」
「まだ記憶が戻るか戻らないかもはっきりしないし、一部だけ戻るとかそういうこともあり得るんだ。戻ったの戻らないのって何度も発表しても混乱を招くだろうから、取り敢えず当面は、記憶喪失のことは伏せておこう」
 出された結論に城之内が頷く。そして、先ずは学校へということで彼らの話は纏まった。


「えええええ、きお、んんっ」
「声デケェよ!」
「ご、ごめん、え、でもそれ本当なの城之内君」
 ふさがれた口でもごもごと遊戯が問う。集まっていた友人たちも同じ疑問を示すべくこくこくと首を縦に振った。なお、友人たちとは城之内のという意味であって、この場にいない瀬人のという意味ではない。
「こんな冗談言わねーよ。冗談なら、ばれたら海馬に殺される」
「そ、そうかもしれないけど。でも、そんなので、学校来て大丈夫なの?」
「海馬に自分から話し掛けんのなんてオレらくらいしかいねぇだろ。だからそんな大っぴらになることなんて無いと思うんだけどよ」
 その先を説明しようとしたところで、がらりと教室の戸が開いた。休憩時間で緩んでいた教室の空気が一瞬緊張を孕む。だが、ドアを開けた当の本人は、どこか困惑顔でその空気を窺っているのみだった。
「海馬!」
 城之内が呼ぶと、やっと安心したように教室の中へ入ってくる。誰あれ、と、遊戯が呟いた。
「来るの五時間目からっつってなかったか? 昼まで診察だって」
 今はまだ昼休みが始まったばかりである。
「予定より早く終わった。折角だから、昼休みから行こうかと」
 凡そのクラスメイトたちはもう瀬人から視線を外している。やや態度がおかしくも見えたが、おかしかったと言い切れるほどには彼らは瀬人との親交を持っていない。気の所為だろうと、各自の会話や作業に戻っていった。
「それで、ええと……」
 瀬人の目が、遊戯たちを見て、それから城之内を見た。頼りにしていることがありありと判る視線は、記憶喪失というのが嘘偽り無い信実なのだと遊戯たちに知らしめる。
「ここじゃ話し難いな。どっか空き教室でメシでも食いながら話そうぜ」
「あ、そうだね、内緒なんだっけ。ボクお弁当取ってくる!」
「オレは購買で買ってから行く」
 言い出した城之内も購買組である。瀬人はといえば、コックに持たされた弁当を持っている。教科書類とは別の鞄に入れられており、瀬人が弁当組であるのは誰の目にも明らかだ。
「じゃあ、海馬君はボクらと先に行こうよ!」
 戻ってきた遊戯が瀬人の腕を掴む。視聴覚室でいいよね、と確認を取って、遊戯は歩き出した。引っ張られるように瀬人が、その後ろを同じ弁当組の面々が、付いていく。大人しく引っ張られるままの瀬人というのは非常に非常な状態だったが、記憶喪失であると知っている遊戯たちには想定の範囲内だ。クラスメイトたちの不審げな視線を再び集めながら彼らは廊下へ出た。

 視聴覚室は通常の教室とは別の棟に存在する。特別教室ばかりが集められた棟は、遊戯たち同様に内緒話をするため出てきた数グループの生徒がうろついている他、人気も少なくがらんとしていた。
「このままだと使い辛いから机動かして……あ、その前に自己紹介した方がいいのかな?」
 視聴覚室のドアを閉めてから僅か五秒ほどの間にそれだけ言って、遊戯は瀬人に笑顔を向けた。その笑顔に瀬人は違和感を覚える。正確には、違和感を覚えなかったことに違和感を覚えた。
 城之内が笑って友だちだと言った時。モクバが何くれと世話を焼いてくれる時。その他諸々、記憶喪失から今までに感じてきた違和感が、遊戯の笑顔には無かったのだ。
 記憶が無いから違和感があるのだろうと思っていた。だが、それならばどうしてこの笑顔には何も感じないのだろう?
 瀬人には疑問だが、人がこの疑問を聞いたならば口を揃えて答えるに違いない。それは瀬人と城之内が友人であった期間などただの一秒も無く、また記憶喪失前の瀬人が非常に取り付く島の無い兄だったからである――一応、彼も取り付く島のある兄になる努力はしていたが。そして瀬人の取り付く島の有無に関わらず、遊戯は基本的にいつでも笑顔で瀬人を含む人々に話し掛けていた。要はこの記憶喪失は完全な記憶喪失ではなく、細かなことは解らなくても、全く経験の無いことをさも経験があるように振舞われるとさすがにおかしいとなるのだろう。
「えっとね、ボクは武藤遊戯で、こっちが獏良了、それから真崎杏子。海馬君はボクのこと遊戯って呼んでたよ。獏良君のことは獏良、杏子のことは……あれ? えっと」
「海馬君、私のことは名前で呼ばなかったわよ。あの女とかそんなのばっかり」
「何?」
 どういうことだと、瀬人が驚いた様子で詰め寄る。
「海馬君、ボクや城之内君とはデュエル、あ、デュエルって解る? カードゲームでね」
「概要は聞いている」
「そっか。それで、デュエルが接点でボクや城之内君とは話したりしてたけど、杏子とか本田君、あ、あとから来る一人なんだけど、その辺のことはあんまり知らないかも。海馬君は仕事もあって学校に来る日も少なかったし、他にもクラスに全然知らない人いたと思う」
 いたと思うどころでなく、恐らく遊戯や城之内を認識している方がイレギュラーで、殆どの生徒を記憶喪失になるまでもなく記憶に留めていなかったのだろうが。そうなのか、と、どこか腑に落ちない表情で瀬人が頷く。
「よー、お待たせー、って、なんだ机動かし掛けで」
 唐突に開けられたドアから購買組が雪崩れ込んでくる。ガタガタと乱雑に机を寄せて、彼らはそこにパンやおにぎりをどっさり置いてから椅子を引いた。
「自己紹介してたんだ。記憶喪失ならボクらのこと解らないでしょ?」
「そうそう。記憶喪失になる前から私のことは解ってなかったでしょうけど」
「この三人は覚えたぞ。遊戯、獏良、……そう親しくなかったのなら真崎、か?」
「オレは本田でそっち御伽な」
 一挙に言われれば混乱しそうなものだが、そこは瀬人である。回転の良さは変わらない脳で、彼らの名前及び呼び方をしっかり記憶に刻み込んだ。


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 瀬人が元の自分の行動に戸惑うシーンは記憶喪失ネタやるなら入れたかった要素の一つです。
 杏子、Rでは名前を認識してるシーンがありましたが、ここでは原作瀬人が杏子を「あの女」呼ばわりしてたのに倣ってみました。