チェンジ・ザ・ライフ 3
2011/1/17


「んで、入学してあんま経ってない内から半年くらい病気で休んでて、治って暫くは病気の間の仕事で忙しくしてて、暇んなった頃にアメリカ進出とかやってたから、お前殆ど学校来てなかったんだよ」
 今更といえば今更な説明を聞いて、瀬人はコックに持たされた弁当を突付く手を止めた。それでどうやって進級してきたのだろうと、我がことながら他人ごとのような感想が彼の口から漏れる。
「え、そりゃ金の力だろ」
「あー、ボク、教員室で校舎の修繕費出すからレポート受け取れって掛け合ってるの見たことあるよ」
「海馬君は成績は問題無いし有名人だし仕事してる都合があるのも本当だから、学校も、じゃあ……ってなるんだよね」
「おい御伽、自分は無関係みたいに言ってるけどお前もだろうが。単位計算間違って落とし掛けた美術に自分トコの商品持ち込んで、商談してたんだ、これ作ってたんだーってゴリ押ししたの誰だよ」
 逸れながら広がっていく話に、瀬人の目が発言者を追ってきょろきょろと忙しく動く。企業の社長をしていたというのだから、普通の高校生をしていたとは思っていなかった。だが、これでは普通でないにもほどがある。
 混乱する瀬人に気付いたのか、ま、と城之内が一声入れて雑談を打ち切った。
「それで、やっとガッコ来るようになったと思ったら今度は記憶喪失だしなぁ。オレや遊戯とはガッコの外で会ってたからの例外でさ、他の奴らのこと全然知らねぇのも無理ないっつか。もし話し掛けられたら、誰だって聞いちゃって平気だから」
「そうそう。それで適当に話を合わせておけば、記憶喪失とはばれないんじゃないかな」
「それは、本当に、あまり学校に来ていなかったから無理もないという理由でばれないのか?」
 食事前からの会話を振り返れば、学校に来ていなかったことよりも、そういう性格だから、という理由でばれないと言われた方が余程確からしい。
「あはは、細かいことなんて気にしない方がいいよ!」
 先ほど獏良だと紹介されていた一人が瀬人の疑いを笑い飛ばす。皆それに頷いているのが、瀬人への答のようなものだった。


 食事と話が終わり、昼休みも終わり、瀬人は皆の後ろを着いて教室に戻った。間も無く教師がやってきて、授業が始まる。時間割では数学となっていた。ということは、この中年の男は数学の担当教諭なのだろう。
 そう考えはしたが、不躾にじろじろと彼を見ていたわけではない。だが、数学教諭は瀬人を見るなり顔を強張らせ、ぎこちない手付きで持ってきていた教科書を教卓に置く羽目になった。
 いったいなんなのだと、不審に思いながらも瀬人は黙って授業を聞く姿勢を取る。中年の教師は口早に、今日は昨日の続きで、とページ数を告げた。それに従って瀬人も周りの生徒も教科書をめくる。
「で、あるので、ここは公式の……」
 どうにも萎縮した様子で板書する教師の背をぼんやり眺め、記憶を失っても頭脳は失われなかった瀬人が退屈を感じ始めた頃、彼の脳裏にちらりと映像がよぎった。ほんの短い、ぼんやりとしたものだったが、それはこういう内容のものである。


「では次の問題を」
 教師がちらりと教室を見回した。居眠りをする生徒や内職に励む生徒、さてどいつを当ててやろうかと言わんばかりの様子だ。そして、彼の視線はその中でも最も派手に内職をしている生徒の上で止まった。
 否、視線を教師の側から描写するのでは些か事実と異なるだろう。机の上に堂々とノートPCを置き内職というよりも本職に励んでいた生徒は、教師の視線を感じて顔を上げた。瀬人の脳裏に流れた映像を説明するのなら、正しくは、こう書くべきである。
「海馬。学校に来ているのならちゃんと授業を受けろ。次の問題はお前だ」
 教室が僅かにざわめいた。呼ばれた生徒が、立ち上がり、つかつかと大股に黒板へ向かう。
「問題とはこれのことですか?」
「さっきから何度もそう説明していただろう。聞いていなかったのか」
「いえ。ただ、到底問題と呼べる問題には見えなかったもので」
 白い指が教卓に置かれていた赤チョークを摘み上げる。次の瞬間に、ガッと大仰な音を響かせ、問題となる数式の一部に下線が引かれた。最初の下線は左辺に引かれたが、続けて、もう二本、右辺にも下線が引かれた。
「この代数」
 赤チョークが左辺の下線部を指し示す。
「ここで除算に使われているため、ゼロになることは無い。だが、式を整理して行くと最後まで残るのはこの代数だけになる。ここと、ここと、ここと」
 黒板に突き付けられたチョークの端が少し欠けた。
「それぞれ同じ代数が残り、左右の辺は、代数にゼロを設定しない限り、決して釣り合わない。だがそうなるとこのゼロ除算はどうなる? ゼロ除算を解消するために左右の辺に代数を掛けると、今度はこことここが釣り合ってしまい、問題文の前提条件を勘案すれば、最終的に、計算結果は一イコール二だ」
 赤いチョークが再び教卓の上に置かれる。指先の汚れを払いながら、生徒は出題ミスだなと嫌味に呟いた。
「前提の所為で解無しという解すら導けん。或いは、コンピュータ上の標準規格では、ゼロ除算が行われた際に、数で無い、とエラーを返すがな。……これだけ説明すればあとは勝手に授業を続けられるか?」


 そうしてラップトップを置き去りにしていた机に戻ったのは、間違いなく海馬瀬人であった。モニタにはゼロ除算によるプログラムエラーが表示されている。
 ちょうどその問題を抱えていたところに同じ原因による出題ミスの問題などを解かされたから、気が立っていたのだ。だが、それにしたとしても。
 恐らく過去の記憶の一部だろう映像に、瀬人は、今が授業中でなければ、頭を抱えたいような気持ちになった。気が立っていたとしても酷い。年齢を考えれば反抗期というものかもしれないが、だとしても酷い部類だ。それに、仮にも企業で社長などしている人間が反抗期など、それはそれで酷い。
 教師も萎縮する筈である。これで萎縮しないのならば、その神経は荒縄で編まれた上に蝋で補強されている。


 授業が終わり、そそくさと教師が出て行くと、瀬人はすぐさま城之内の席へ向かった。
「城之内。オレは、第三者の目から見て、どんな生徒だった?」
「どんなって? あー、さっきも言ったけど、あんまガッコ来てなかったし、どう振舞ったって多分大丈夫だぜ。急にどうしたんだよ、さっきまで全然気にしてなかったろ」
 問い返され、瀬人が口篭る。記憶が僅かながらも戻ったと、告げた方がいいのだろうか? いいに決まっている。だが、自分があの記憶の通りの人間であったとしたら、記憶が戻ることで城之内を初めとする皆と疎遠になったりはしないだろうか?
「なんでも無い。もし教師に呼ばれるようなことがあったら、と思っただけだ」
 あー、と城之内が間延びした声を上げた。
「単位の話とかはあるかもなぁ。適当に、後日社の方から連絡するー、とでも言っときゃいいよ」
「そうか」
「うん」
 会話が途切れる。瀬人は密かに首を捻った。無音の距離感の、居心地は悪くない。だが、妙な既視感に囚われるのだ。恐らく、以前そうした経験があるのだろう。
 本当に友だちだったのだろうか? 先ほどの賑やかな昼食を思えば、友だちと無言で一緒にいるのを楽しく思うような性格には見えないというのに。
 瀬人はじっと城之内を眺めてみた。彼は、教師の背中のようには、瀬人の記憶を連れてこなかった。


<BACK NEXT>

 瀬人、客観的に自分を見る、の巻。