A violet -the late summer delight [1]-
2006/9/15
兄のもとに愉快な柄の封筒が届いたのはオレの帰国から暫く経った頃だった。社ではなく屋敷の方へ直接送られたそれを見て、兄はその送り主を相変わらず頭の中身まで愉快なようだと評価した。
樫のデスクに座った兄は優美なフォルムのペーパーナイフでその封を切り、中から数枚の紙を取り出した。
見るかと言って、それらに目を通した兄が便箋を一枚差し出す。
「いいの?」
「ペガサスからだ」
それは答になっていないし封筒の柄を見た時から判っていたけれども、差し出されたままにその便箋を受け取る。封筒と同じコミカルな兎が走る模様の便箋だ。
文面は文字で読むと多少まともに見える日本語で書かれていた。単純な挨拶に始まり新規開発商品に対する賞賛の言葉が幾らか並べられ、それから最近改築した洋上の別荘について二言三言、一度遊びに来ないかという誘いで文章は締められていた。読み終えて便箋を返すと兄がどうだと問う。
「お招きに預かるかってこと? いいんじゃない、行ってきたら?」
数日ならすぐにでも可能だろうと社の予定を考えて答える。兄はデスクに肘を附いて他人事のように言うなと不満げな呟きを漏らした。
「行くなら二人でだ。予定を空けさせているのは知っているぞ」
確かに、纏めて休暇を取りたいとは思っていた。近い内にオレと兄二人共のスケジュールが空くよう既に調節させてもいる。指示を出したのはオレだが、兄も当然気付いていたのだろう。
「けど、いいの? 招待されてるのは兄サマでしょう」
「構わないさ。既に何人かゲストを滞在させて楽しんでいるみたいだからな」
ひらひらと二枚目の便箋を蝶のように羽ばたかせながら兄が笑う。兄一人を呼んだわけでないのなら、邪魔ということも無いだろうか。
「それじゃ、少し遅いけど、ちょうど良い夏休みだね」
その言葉に兄は頷き、古典的でない方法で返事を出すべくデスクの横に置かれた鞄から薄いパソコンを取り出した。
「ウェルカム、海馬ボーイズ!」
操縦させてきたヘリを降りると、待ち構えていたかのように長い階段の上から声が掛けられた。プロペラの回転音は別荘の中にまで聞こえていたのだろう。別荘と、届いた文面の通りに呼べばそうだが、実際には城と言える巨大な建築物は現代に建てられた模倣建築とは思えない重厚さで存在している。或いは移築の城なのかもしれない。
座席の後ろから降ろしたトランクを持って石造りの階段を上る。滞在予定五日分の、それも二人分の荷物が一つのトランクに収まるわけも無く、入り切らなかった衣類を詰めたトランクを先程まで操縦士だった男が運ぶ。
「ようこそ私の城へ」
“お招きどうも”
外壁の門をくぐり庭園を抜けると城門が中から開けられた。改築したと聞いているが、廊下を見た限りでは以前来た時の記憶とそう変わりは無いように思える。
「サロンの方で話が盛り上がっていたところなんデスが、顔触れが少しビジネスを思い出させるメンバーかもしれマセーン。取り敢えずゲストルームに案内しマス」
部屋の場所自体は変えていないから気が向いたら来ればいいと客室に通される。サロンの場所は分からないが、恐らく兄が知っているのだろう。
「別々の部屋か二人で一部屋か、どちらがいいデスか?」
「二人で一部屋にしてくれ」
「オーケー、解りマシタ。それではこちらの部屋を使って下サーイ」
いつから控えていたのか使用人だろう男が示された扉を開ける。些か少女趣味的な白無垢の、木でできた扉は外側に開いた。部屋の中まで荷物を運び込もうとした操縦士をここまででいいと兄が遮る。トランクを、兄に渡そうとした操縦士から受け取り運んだ。部屋の奥、片隅に二つのトランクを寄せて置く。
「では、私はサロンの方へ戻りマース。気が向いたら来て下サイ。BUT、疲れているなら夕飯まで休んでいてもいいですからネー」
「あぁ。そうさせてもらう」
サロンへ、どこかへ、皆が散り散りに行ってしまう。操縦士は城の前に置きっ放しにしてきたヘリへ戻って行った。ここには兄と二人しか残らないのだ。洋上の孤島という立地に対する安堵感からかこの城の警備はそう厳重ではない。使用人も最低限の数しか置いていないようだ。屋敷よりも人の目が少ない休暇は、充分な心的休息を約束してくれるだろう。
「ツインかぁ。二人で寝たら狭いかな?」
ナイトテーブルを挟んで並べられた二台の寝台は、一人寝るには決して狭くないだろうが、二人ならばどうだろうか。腰掛けると僅かに軋み、手を附いたシーツは上質な亜麻布のようだった。
「落ち着く前に手を洗って来い」
呆れたような、笑いを含んだ声で兄が言う。いつの間にかそうしていたらしい兄はコーヒーテーブルの上に置かれたウェルカムフルーツに手を伸ばしていた。どちらの部屋にするかと聞いておきながらそのどちらもにすぐ人を入れられる準備をしている辺り、あの男も抜け目が無い。
バスルームはユニットではなかった。先日のホテルと比べれば随分広い。シャワーブースの奥に浴槽があるようだが、分離されているということは湯を張れるのだろう。
洗面台備え付けの鏡には光の加減で浮かび上がる細工がなされている。その隠された模様が百合を持つ天使であるところに、やはり少女趣味な内装の城だと思った。外装は優美さよりも堅牢さを思わせるものであるだけに、内外の印象の差は激しい。所有者に似て、なのかもしれないが。
手を洗い口を漱いで壁に掛かっている白いタオルを取る。柔らかだが真新しいものである証拠のように水の吸いが悪いタオルは、兄が先に使ったからか既に幾らか濡れていた。
「オレにもマスカットちょうだい」
ゴブラン織りのソファに腰掛けて果実の入った銀ボウルを抱え込む兄の姿は子供のようで可愛らしくも見える。隣へ座るとマスカットを一房渡された。皮ごと食べてしまうと甘さと水気で咽喉が潤う。果実でも他のものでも、甘いものは好きだ。蓄積した疲労を忘れられる。
横を見れば兄はディナーナイフでくるくると、器用に林檎の皮を剥いている。器用だとは思うが、フルーツナイフは無いのだろうか。切れ味の悪い、用途に適さない刃物はかえって危険だ。
案の定、とでもいうのだろうか。芯を取り除く段階になって、力を入れ過ぎて滑ったらしく、兄は小さく声を上げて切り分けた林檎から左手を離した。
大したことは無いと言う兄の腕を掴んで掌を開けさせる。親指の付け根の下、静脈が浮いて見えるすぐ側に赤い線が走っている。殆ど薄皮一枚程度の浅い傷だが、一箇所だけに血の雫ができて、つうと流れた。手首を掴んでいたオレの指で雫は止まり、皮膚の上で球から形の無いものへと滲んだ。
雪のように白い兄の皮膚に付いた血の痕を舐め取る。鉄錆の味はどこか蜜のようだ。
「お前の手にまで付いてしまったな」
掴んでいた手を離すと親指に付着した血痕を見咎められた。既に血の止まった兄の手がオレの手首を掴み、黒檀に近いほど浅黒く、比べれば太い指が兄の口内に含まれる。見えない中で軽く舐め上げられ、口外へ出された時、血は完全に消えていた。
「その仕種、凄く官能的」
「は? ……ぁ」
一瞬当惑したように目を見開いた兄が、その意味に気付いて頬を赤らめる。視線が下へ、腰へ逸れた。
「まさか。あれくらいではね」
まだ少し芯の残っている林檎を一切れ摘まみ、齧りつく。甘いが、水気が多過ぎだ。半切れになった林檎も食べてしまい、果汁でべた付いた指先を舐めた。
「ふふ、間接キスだ」
「間に林檎が入ってる」
捻くれた言葉にそうだねと返し、直接に唇を重ねた。ふわりと一瞬押し付けただけのそれに驚いてか、兄の瞳が数度瞬く。窓からの光が逆光になって瞳の色は窺えないが、急にこんな、と小声になって兄は何事か呟いた。
「今更。もう何度もしてる」
花びらのように柔らかな下唇を、先程口内に含まれた、その同じ親指の腹でなぞる。吐き出された熱い息が指先に掛かり、硬い皮膚を湿らせた。
第一関節を折り曲げると爪が歯に当たって小さな音が響いた。唇を割っていったその指に舌先が触れる。
「それはしてもらったこと無いけど」
「……して、欲しいのか?」
「ちょっとね。嫌ならいいよ」
兄は躊躇いの長さほど視線を彷徨わせ、膝の上の銀ボウルをコーヒーテーブルへ乗せた。そのままソファを降りてテーブルとオレの間に膝を附く。
「今じゃなくてもよかったのに。あとで……シャワー浴びてからとか」
「気にならないから、いい」
そう言って兄は長袖のシャツを肘の数センチ下まで捲った。
最近、慣れていることを気にしない発言が増えてきたな、と思う。それは勿論良い傾向だ。少しずつ、少しずつではあるけれども、凍りついた心が融けて、傷が癒えてきている証拠だろうから。
「狭くない?」
テーブルとソファの間はそう広くはない。人一人が間を通過できる程度の空間しか存在しないのだが、兄は、あぁ、と頷いてオレのズボンに手を掛けた。細い指が真鍮の釦を外す。金属のこすれ合う音とともに前を寛げられた。
兄の唇がそこへ寄せられる。羽根が触れたほどの接吻でも、気分が高揚するのは抑えられない。
「若いな」
「そうだよ、貴方より若くて……堪え性の無い男だ」
兄が舌先を出して先端付近を舐める。それから息が吹き掛かる近さで微かに笑った。
「堪え性が無い、は、嘘だな。無闇に急かれた記憶なんか無いぞ」
「これでも必死に自制してるんだよ」
苦笑の途中で息を呑んだ。桃色の舌が皮膚と同じで色の濃いその上を這う様は妖艶で、美しい。
親指のように口内に含まれて、しかしその質量の違いに兄が顔を歪める。
「無理しないでね」
小さめの唇の端を指先で撫でる。くぐもって聞き取れない声で兄が返事をした。了承か不承かは判らない。
白く細い指が赤黒いそれの根本に絡み付く様子も視覚的な快楽となっている。
目には見えないが、幾分肉薄の、まるで木苺のような色をした舌が動く光景を思い浮かべた。確かに与えられる感覚は、想像が想像だけでない証だ。僅かな水音と苦しげな息遣いと、自分の荒い息が、静かな部屋で唯一耳に届く。
しだいに俯いていく兄の顔を隠す栗色の前髪を掻き揚げた。多少長過ぎるきらいのあるそれが幕のように覆って隠していた瞳が現れる。氷色の瞳の縁が息苦しさにか滲んでいた。
大丈夫かと気遣いながらも、何か、一種の征服欲のようなものが湧き起こるのは否定できない。手荒にしたいわけではない。それは、決して。むしろ庇護欲にも似た、そのようなものであるけれども。
愛されたがりなのだ、オレは。恐らく、思われているよりもずっと。言葉の少ない兄が、嫌がらずこういったことをしてくれるというそれ自体に喜びを覚える。
「っ、ん」
息を詰めたかのような音が聞こえた。自分でも欲が膨れ上がったと分かる。
「ああ……もういいよ」
オレの言葉に兄は一度目線を寄越し、しかしまた下を向いて、動作をやめはしなかった。それどころか、一層の深みにまで招き入れられる。
「もういいよ、ねぇ」
制止と言うよりも訴えと言った方が正しいだろうか。再び兄に声を掛けたが、それは全く聞き入れられなかった。顔を上げさせようとしたが、僅かに首を振られる。
「そろそろ、我慢できない、ん、だけど……っ」
深く強い圧迫を感じる。自分の呻き声と兄の悩ましく鼻から抜けるような声が空気を震わせたのは殆ど同時だった。
天井を仰ぎ見て息を吐いた。顎を引くと視界の端に何かを嚥下する兄の咽喉が映る。
「吐き出したって怒らないのに。飲んだの?」
責めたのではないが、嫌だったのかと尋ねる兄の声が、見上げてくる瞳が、どこか不安げだ。そうではないと、身を屈めて痩せた背に腕を回す。
「嬉しい」
少し躊躇ったが兄の紅を引いたように赤く充血した唇にくちづけた。
「けど、喜んで飲むようなものじゃないっていうから。林檎食べる?」
コーヒーテーブルの上の銀ボウルに手を伸ばす。切断面から変色し始めている林檎を一切れ、口許に運ぶと兄は餌をねだる雛鳥のように口を開けた。時間を掛けて一欠けずつ齧る過程を眺める。
最後の一口は指ごと食べられて擽ったさに笑いが零れた。端を摘まんでいたのだが、それでもその分大き目の欠片となったらしく、兄の頬が幾分膨れている。小動物のようだと思った。普段は微塵も思わないことだが。間違っても小柄では、いや、この島に居る間だけなら小柄と呼べるかもしれないのか。
林檎を咀嚼し食べ終えた兄の腋の下へ手を差し込み、その身体を持ち上げる。片膝の上に座らせ、オレの胸に肩を預けさせた。片手で背を支え、もう片方の手はシャツの釦に掛ける。
「お夕食の準備ができましたので食堂まで御案内致します」
控えめに二度、外側から木の扉が叩かれたのはちょうど兄のシャツに付いた二つ目の釦を外した直後だった。深く息を吸う。
“部屋を片付けるから少し待ってくれないか”
「お部屋なら私どもで片付けさせて頂きますが」
“あまりにも散らかっているのでは恥ずかしい。荷物だけ纏める”
主よりよほど正しい日本語で了承の意が述べられる。安堵に息を吐きながら、放心して固まっている兄をソファに降ろした。
「兄サマ、すぐに出られる?」
尋ねながら、中途半端に上がった熱を鎮めるべく深呼吸を繰り返す。見れば兄も同じことをしていた。
乱れた着衣を整え、予想よりも早かった夕食の時間を恨むべきか感謝すべきか考える。出て行けない状態となる前でよかったと思うべきか。
顔を洗ってくるという兄をバスルームへ見送って、ソファやその周囲に痕跡が残っていないか確認する。気を払ってはいたが心配なものは心配だ。このあと移動するつもりであったのだが、考えてみればベッドを使うのも不都合なのではないか。
兄はすぐに戻って来た。幸いどこにも汚れは見当たっていない。そのまま連れ立って部屋を出た。
案内された食堂では既に二座席を除き全ての席が埋まっていた。遅れたことを詫び、熱心な宗教家が食前の祈りを終えるのを待ってから料理に手を付ける。顔触れは仕事上での知り合いばかりだが、休暇中の決まりごととしてビジネスの話題は避けられている。当たり障りの無い日常的な会話を続けながら、孤島にしては新鮮な食材で作られた料理を、オレは、楽しんだ。
“Mr.瀬人はどこか具合でも? 先程からスープばかり飲んでいる”
気付かれた、という面持ちで兄がスプーンを持つ手を強張らせる。無意識だろうが空いた左手が顎関節を押さえていた。
“ウェルカムフルーツを食べ過ぎたんでしょう。ボウルを抱えて食べていたから”
咄嗟にしたフォローに対し食卓の下で、恐らく兄の足が、オレの脛を軽くはない強さで蹴った。
「さっきの、結構痛かったんだよ。顔に出るかと思ったじゃないか」
部屋に戻るなりシャワーブースへ入った兄を追い掛ける。洗面台との仕切りになっているカーテンを引くと弱い水流のシャワーを鼻先に突きつけられた。噎せて咳き込むオレに対し、お前が悪いと不機嫌そうに言って兄がシャワーを壁に固定する。
「オレはあとででいいって言ったのに」
兄は無言でそっぽを向いた。多少なりとも自分に非があると思っている時の癖だ。論争はここで終わらせるとしよう。
「嬉しかったけどね。顎大丈夫?」
多分に強がりを含めながら、そうでなければ肉や魚に手を付けただろうし、兄が頷く。それを嘘だと突き詰めることはせず、棚に置かれた小さな銀色の袋を手に取った。表記を確認して封を切り、甘い花の香りがする液体をてのひらで受け止める。上方から春先の雨のような優しい飛沫を受けて濡れている木の実色の髪にそれを馴染ませると、指を刎ね飛ばすかのように兄の頭が振られた。
自分で洗うと、言うなりそれを実行され、目の前で泡に包まれていく兄の頭を見ながら壁に掛けられたシャワーヘッドに手を伸ばす。水流をきつくして頭から全身を濡らした。ヘッドを戻し、再び棚から銀色の袋を取る。髪の一筋からつま先まで、手早く洗ってしまい奥の浴槽へ向かった。
「ああ……見て、兄サマ。ちょっと凄いよ」
四、五人は優に入れそうな広いホットタブには既に湯が張られており、それだけならば取り立てて騒ぐようなことではないが、その水面に色とりどりの花や葉、或いは花びらが浮かんでいる。城の主の趣味だろうか。まさか男二人で泊まる部屋だけにこんなことをしているとも思えないから、客室はどこもこうなのだろう。
薔薇らしき淡いピンクの花びらを一枚、兄の指が拾い上げる。柔らかな甘い香りを放つ乳白色の水面に漣が立った。
「ケシとパンジーを浮かべていないのは褒めてやってもいい」
「え? 何?」
意味を問うても、兄は何でも無いとだけ答えて花の池に浸かってしまった。それに続いて静かに身体を沈める。二人で入るとは想定されていなかっただろう湯が浴槽の縁から溢れ出した。白い一重の、恐らく雛菊が一つ、その流れに乗って外へ落ちる。
「勿体無い」
一緒に流れ出ようとしていたオレンジ色の小薔薇が兄によって救い出された。まだ蕾のそれは葉も茎も付けたままで、ただ棘だけは取り除かれている。対面に座っていた兄はそれを持って隣に移ってきた。肩に寄り掛かられて幸せそうな顔に微笑む。
ぱしゃん、ぱしゃん、と、兄が機嫌良く水の面を弾く度に軽い花びらは浮き沈みを繰り返し乳白色の波間を揺蕩う。悪戯な指先を捕まえ、そのまま腕を引くと浮力も手伝ってふわりと浮かんだ兄の身体が腕の中に納まった。
「何だ急に」
「花ばっかり構ってないでオレを構ってよ」
後ろから肩越しの体勢で頬に唇を寄せる。兄の睫毛から水滴が落ちて、薔薇の葉の上に瞬きの間ほど王冠を作った。水中で緩く抱き締めながら皮膚の薄い脇腹を撫でると兄が僅かに身を捩る。
「ここでするのか?」
「……ベッド汚したら不味くない?」
沈黙は、主に肯定だ、兄の場合。同意を得て愛撫の手を再開する。不透明な湯に同化して殆ど見えない白い肌の上にてのひらを這わせた。黒い手は浅い位置ならぼんやりと透けて見え、それはまるで何も無い所を撫でさすっているかのようだ。兄が反応する度に小さく波打つ水面で多彩な色が踊った。
指先を取り接吻を落とそうとして、兄がまだ一輪の小薔薇を掴んだままなことに気付く。
「それ、気に入ったの?」
問うと兄は唇にオレンジ色の蕾を当ててくすりと笑った。
「この花、お前に似てないか」
そう見えるのかと聞けばそうだと答えるけれども、言うだけ言ってどこがかは教えてくれない。小振りの薔薇に喩えられるような容姿でないことは自分でも重々承知しているが、兄はいったい何を指して似ているなどというのだろうか。
「続きは」
答える気は無いらしい兄に先を催促される。指の腹で胸を擦ると細い咽喉が逸らされ頭が肩の上に落とされた。
花に喩えるならば兄の方こそだと思う。平静の皮膚は百合の花びらのように白い。上気し出せば薄く色付き、まるで、何という名かは知らないが、屋敷の温室で育てられている、ツツジに似た桃色の花のようだ。花びらの縁がひらひらと、白いひだ飾りを付けられたかのようなその花の、咲き誇る様が思い起こされる。
「あ……、何を、考えて」
「オレがその薔薇なら貴方は何だろう、って。温室のツツジみたいな花、あれかな」
耳元にそう囁いた。あの花のように色付き出した兄の身体を抱え直す。腰を浮かさせて先端を押し当てると、湯の中だからだろうか、それは簡単に兄の中へ埋没した。途切れがちな高い、声帯を裏返したような声が浴室に響く。
「ああ、でも、花相手にこんな気持ちにはならないね」
水中を漂う兄の手が水を掻いて弱い水流を起こしている。捜し出して指先に触れると縋り付くように強く握り返してきた。
「愛してるよ。やっぱり貴方は貴方だ」
大きな波に飲み込まれ、花びらが何枚も溺れてゆく。溺れる花たちの代わりのように喘ぐ兄を振り返らせ唇を重ねた。鮮やかな色の唇は赤い薔薇の花びらに似ている。
それはどの花びらよりも甘く柔らかで、比類なきほど愛しいものに違いないけれども。
「これでいい?」
カーテンレールにリボンタイで代用した紐を括り付けた。紐の片端には一輪の小薔薇が結わえられている。寝台のシーツの間でくたりと寝そべる兄はそれを見て満足そうに頷いた。どれくらいの日数で乾燥しきるものなのか分からないが、帰るまでに間に合わずともあとから送ってもらえばいいだろう。
シーツを捲って兄の隣に潜り込む。日中に思った通りだが、二人で寝るには少し狭い。それでも兄はオレを追い出しはしないし、オレとて出て行こうとは思わない。
落ちないように、か、隙間が無くなるほど張り付いてきた兄の身体は体温が低く気持ちが良い。逆の立場で考えれば熱くて堪ったものではないだろうに。
「おやすみ」
辛うじて聞き取れる程度の返答がなされる。多少暑くなるだろうが、都心の夏よりはましだろう。地理的に考えて朝はもっと気温が下がる筈だ。ナイトテーブル上部の壁面パネルで空調を切ったが、ファンの音が聞こえなくなるだけで室温も体温も上がった気がするのは精神的なものなのだろうか。
噎せ返るほどの花の香りが腕の中の身体から立ち上る。この小さな島はいまだ夏だ。
瀬人がスープしか食べてない理由を言葉ではっきり書いていないのは仕様です。解った人だけ笑ってくれればいい。解らなかったお嬢さんは、もう少し大人になってから、ふとこの話を思い出した時にでも笑って下さい。
でもって、大人モクバやペガサスを並べておくと瀬人でも小さく見える不思議でした。
前回と同じく、「」内は日本語、“”内は英語で喋っているものと思って下さい。