A violet -the late summer delight [2]-
2006/10/24
休暇の四日目、城の裏手にあるプールを見付けた。今まで気付かなかったことが不思議なほど広いものだが、今日に至るまで島の散策ばかりをしていたから見付け損ねていたのだろう。
木の葉のざわめきや川のせせらぎも気分転換にはなったが、特に何をするでもないという時間は、長くなれば退屈に変わる。身体でも頭でも、動かしたいと思っていたところなのだ。
「一緒に入ろう」
一旦部屋に戻り兄に声を掛けた。ベッドの上で怠惰に寝そべり本を読んでいる兄が生返事をする。
「兄サマ、聞いてる?」
読み掛けの本を取り上げるとそれを追って上げられた手が空を切った。‘ハムレット’、‘シェイクスピア’。
「返せ」
「本は家でも読めるでしょう。泳ぎに」
言いながら兄が開いていたページに目を通す。有名なシーンだ。詳しく無いオレでも解る。
「……目を離したりするから。誰か、付いていればよかったのに」
「それじゃあ悲劇にならないだろう」
不意に口を突いた言葉に兄がそう返した。寝返りを打った兄はそのまま身体を起こす。本を奪い返されたが、それは背から垂れる紐を挟み込まれ、裏表紙を表にしてナイトテーブルの上に落ち着いた。
「悲劇なんて、起きない方がずっといい」
「現実では、な」
「だったら現実的に、泳ぎに行こうよ。沈みにではなく」
「小川にではなくプールにか? 一人で行け」
不機嫌を隠す気が無いらしい。兄は在らぬ方を向いて無言になった。残るものは沈黙。
「兄サマ。ハムレットの真似事のつもり?」
「気に喰わないならオフィーリアの真似事に変えてもいい」
つまり、会話をする気が無いということか。それなら真似事をしに水辺に行こうかと揚げ足を取ることも可能だが、機嫌は、悪化すると見て間違いないだろう。
「どうしてそんなにつれないのさ」
横に腰掛けると兄が虚空から視線を戻した。水が嫌いという話は聞かない。二日目だったかの散策では、上機嫌で川べりを歩いていたではないか。
「どうしてか、見当も付かないか?」
例えば引き攣れた背の傷。同じ箇所に掛かり続けた圧迫による、消えない縛めの痕。
「全く……とは言わないけど。貸切にさせてもらう。オレしか見ない」
「それでも」
背を護る布が存在することを確認するかのように、兄は交差した腕で服の脇をきつく握り締めた。引き寄せられた布が、その手元では多重の皺を作り、背では傷痕が浮かび上がるほどに張り詰められている。
「オレしか見ない。気にするなんて今更だ」
「灯りの下と太陽の下は違う」
取り立てて灯りを落とせとも明るい場所は嫌だとも言わないものだからもう気にするのはやめたのだと思っていたが、そうではなかったのか。兄の理屈は些か定義が不明瞭で感情論的ではあるけれども、それに拘るその心情を無視することはできない。
「灯りの下も太陽の下も、何も変わらないと思うけど。貴方が変わると思うのならそうなんだろうね」
泳ぐのは諦めようと思う。一人ではつまらないし、かといって無理を強いるようなことでもない。それでは何をするか、それは未定に戻ってしまったが、なんならサロンへ行って談話に加わってもいい。一人で散策も無いが、誰か行くと言えば湖畔側へ行ってみるのもいいだろう。そちら側にはまだ行っていない。
「とにかく、プールはやめるよ。兄サマは……本の続きを?」
ナイトテーブルの上の本を取って渡そうとしたが、兄は受け取らず、いや、と呟いて元の位置を指で示した。本は再び机上に戻る。
「……散策でもするとしよう」
兄が立ち上がり、側の椅子から放置していた日除け代わりの薄いストールを拾い上げた。ふわりと宙で揺れる菫色の布は、本来女性用の大判なものだ。日除け、として考えれば、それくらいも無いものは役に立たない。
「お前も、来るだろう? 飽きがきているようだが、な」
振り返った兄が当然の事実の確認のように、そうでなければ首を動かしたついでのように、そう尋ねた。
「二人切りなら行くよ」
ストールの下から伸びた手がオレの手首を掴んで引く。窓の外は出歩くに相応しく晴れていた。
「どこへ行こうか」
「森の側がいい」
日除けの布を翳しながら外へ出て来た兄が即答した。太陽には雲一つ掛からず、気温はそれほどでもないが、強い日差しが降り注いでいる。これでは、木陰が無い場所を歩くのは少しばかり辛いだろう。
森といっても、迷うような深い森ではない。あくまでさり気無く、しかし人工的に整えられた小道を外れたりしなければ、どこへ行っても景観は良く歩き難くもない。会話をしながらの散歩には打って付けといえよう。
頭上を覆う木の葉の隙間から、所々木漏れ日が差し、ともすれば陰鬱になりがちな森を明るく快適なものへ変えていた。僅かに湿った地面を踏み歩く。
「さっきの話だが」
道にまで伸びた木の根を踏み付けながら兄が呟いた。
「さっきの?」
「プール」
木の根から兄が降りる。薄い肩に掛けられたストールの裾が軽やかに翻った。
あの話かと相槌を打ち、言いそびれたまま今日まで来てしまったことを言うべく口を開く。
「思ったんだけど、そんなに気にしてるのなら皮膚を移植したら? 自分の皮膚を人工培養して、そうすれば殆ど綺麗に治せるんだって聞いたよ」
氷色の瞳がじっと視線を合わせてくる。逸らすことができずにそれを見詰め返した。
「気に……なるか?」
「オレ? 別に、気にしないよ」
認識しないわけではないが、それを否定の材料にしようと思ったことは無い。今この時に置いて傷痕は兄の一部であり、もし治療したとすれば傷の無い兄が兄であり、どちらにせよそれで本質が変わるのではないのだ。
「……だったらいい。気にしない、ように、しよう。どうせ自分では見えないのだから」
「そう」
道は川べりに到達した。上流へ、或いは下流へ、行き先は二つに分かれている。下流は海に出る道だ。上流は森の奥の泉に出るのだと聞いているが実際に行ったことは無い。
兄は上流へ向けて歩き出した。緩やかな、坂とも言えないほどの勾配を登る。
「それで、さっきの話だが」
「うん?」
「泳ぐのを嫌だと言ったのは、他にも理由があって」
足下の木の枝を兄が蹴った。枝は転がって小川に落ち、浮き沈みを繰り返しながら後方、下流へ流れ去って行く。
「オレは泳げない」
「……それは……本当に?」
確かに泳いでいる姿など見たことが無いが、あまり想像もできないが、泳がない、ではなく、泳げない、だったとは。
「ちゃんとした泳ぎ方を教わる前に泳がなくなったからな。多少浮いたり進んだりした気はするが、もう忘れてしまった」
何でも無いことのように、兄は続け様にそう言った。
「だから、気にするのをやめたといって、泳ぎに誘う必要は無いからな」
「どうして。誘うよ。教わったことが無いならオレが教えてあげる。それか、泳がなくたって、暑い日には水際に居るだけでも涼しい気分になれるでしょう」
「今みたいに、か」
兄の言う通り、川下から吹く風は流れる水に晒されて幾分冷えたものになっている。それは海側からの風の筈だが、地形的な要素があるのか、そういえばこの辺りは高台になっていた気もするが、土と水の匂いしかしない。
かさかさと木の葉が鳴り、数羽の鳥が枝を離れた。
「少し、風が強くなってきたな」
木々が開けた場所に出たからだろうか。兄がそう呟いた途端、葉擦れの音がいっそう大きくなり川面は乱れてさざめき立った。兄もオレも、思わず眼前に手を翳す。視界の端に靡く布が映った。
「それ、飛ばさないように、」
「あ、」
折節の突風に、風を孕んだ菫色の布が兄の肩を離れ空に舞い上がる。抑えようとした手は間に合わず、ふわふわと、花びらのように、緑に映える色は小さくなりながらも消えること無く、随分と先の方で風の流れが木の枝に遮られるまで飛び続けた。
遠くで止まったストールを拾いに、川べりを流れと逆に沿って歩く。幸運なことに、進行方向は初めと変わらない。一度の突風で気が済んだのか風は落ち着きを取り戻したようで、特段慌てるでもなくオレたちは泉へ向かった。
「こんな所まで」
歩く内に小道の果て、泉の傍に出る。菫を受け止めた木はちょうど向かっていた泉のほとりに立ち、低い位置で捩れた幹を、川と泉の境目の、正しくその真上に傾けていた。そこから張り出した枝の、泉の側に、布は引っ掛かっている。
「手を伸ばせば、届きそうか」
節が多く角立った幹を支えに、泉の淵から兄が手を伸ばす。だが少しばかりそれには遠かったようで、白い指先は布の端を掠めて空を切った。
「オレが」
取ろうか、と声を掛けたが、大丈夫だと言って兄は無骨な幹の、低い位置で捩れたその場所へ足を掛けた。一段高いそこからなら、確かに充分届くだろう。手近な枝を掴み、兄が再び布に手を伸ばす。
どこかで見た光景だ。一枚の絵画のような、完結した、何かの。
「あぁ、届いた。……、あ」
どこか、を思い出したのと兄がその続きを再現したのは殆ど同時だった。掴んでいた枝が折れ、足を踏み外した兄の身体が横転する。運の悪いことに、手にした布もろとも泉の側へ落下した。ばしゃん、と水面が音を立てる。
「兄サマっ」
沈まない。共に落ちた枝が、折れてささくれ立った断面に兄の服を引き掛けていた。太くは無いが小枝でもないそれが浮くのに、ようよう支えられているのだ。
水面は、差し込む光を受けて裏白の葉のような鈍い色で波打っていた。波紋が兄の落下した地点を中心に広がり、その上方でストールの裾が遅れて泉を目指している。
「大丈夫?」
薄い布は、水上を浚う風に浮かされながらひらひらと落ち、裾をまるで魚のひれのように水面に浮かべ大きく広がった。どこへ居たって手が届く小さな泉だ。溺れる心配は無い。しかし菫はしだいに水を吸って暗い色に変わりゆき、浮力を失って泥の底へ。
「兄サマ」
呼び掛けると、半ば沈み掛けた状態であるにも関らず、全くそれを感知していないかのように、或いは必ず助けられるのだと信じているかのように、兄は笑いながら唇を開いた。
「今動いたら、途端に沈みそうな気がする」
「それじゃあ、絶対に動かないで」
絶妙なバランスで浮いているのだと言う兄の傍に歩み寄り、泉の淵に膝を附く。冷えた湧水の中、背の下に差し伸べた手で肩を支え、引き掛かった枝を外した。小川の方へ流れてゆく枝は捨て置き、冷水から兄の身体を掬い上げる。
「……助かった……」
「目を離さなくて、よかったよ、本当に」
ずぶ濡れの兄を草の上に座らせ立ち上がる。ストールはもう見えない。どの程度の深さがあるのか知らないが、腕を伸ばして届く範囲ではないだろう。
「それにしたって、折れるとは失礼な木だな」
悪態にも、当然だが、木は平然としている。
「付け根が腐ってたんじゃないの?」
そう言って手を差し出すものの、兄はそれを掴むだけ掴んで立ち上がろうとしない。
「服が重くて立ち上がる気になれない」
「風邪引くよ。休暇は明日で終わりなのに」
兄の手を引いて強引に立ち上がらせる。散策は終わりだ。着替えに戻らなくてはならない。
ぼとぼとと水を滴らせながら兄が歩く。部屋には無かったが、あの城に乾燥機はあるのだろうか。無かったとして、あとは日も暮れていくだけのこの時間からで、明日の出立までにこの服は乾くのだろうか。
「風邪を引いたら、休暇延びたりしないか」
「……それは休暇じゃなくて休業になるんじゃないかなぁ……」
まあ、無理だった時は送ってもらえばいいだろう。乾き切らなかった花と一緒にでも。忘れた頃に届く休暇の名残も、悪くは、ない。
「ハムレット」よりオフィーリアのパロディ。寒々しくてスミマセン。本当はこんなに間が空く筈じゃなかったんです……! この島はまだ夏なんだと念じて下さい。
皮膚移植どうこうは胡散なので。そこは突っ込み不要ということでお願いします。