セネト・パピルス 1
2008/5/6


 タァウイ上下二国、プント、チェヘヌゥ、その他合わせて九つの国に比類なき、もの言う睡蓮によりて語られた言葉。彼の花にまみえし南の蛇がここに記す。


第一章 ウアセト


 王宮から、金箔に彩られた輿が担ぎ出されてくる。先導の掲げる松明が辺り一帯を照らした。次々現れる輿の周りにはそれぞれ数名の屈強な兵士が付き従い、貴人たちの護衛を勤めている。それは、久方振りに帰った、タァウイ、両エジプトの王を讃える祭典だった。
「ユギ!」
 祭りに沸き立つ人々の間をすり抜けて歩いていた少年が足を止めた。ユギと呼ばれた彼は、極一般的な、赤い肌のエジプト人だ。少しばかり身なりは良いが、書記を目指しているのだと言われればそれで納得する程度の。時折学校を抜け出して遊びに来ているのだというその少年は、ウアセト城下の若者たちにとって、雲の上の王宮と自分たちを繋ぐ存在だった。
「久し振りだな、ユギ。最近ちっとも姿を見せねぇもんだから、ネフトがご機嫌斜めになって大変だぜ」
「ネフトが? それは本当に大変だな」
「ほら、言ってる内にもう来たぞ」
 甘く瑞々しい果実の名前を冠された少女は、踊り子の衣装を纏い、一直線にユギのもとへやってきた。
「ちょっとジョーノ、余計なこと言わないでよ。だいたい、アンタ今日は書き入れ時でしょ。こんな所で油売ってていいわけ?」
「少しくらいいいだろ。久し振りにユギが……ああ、何だ、久し振りだから二人きりにして欲しいって? 言い方が遠回し過ぎて気付かないとこだったぜ。わりーな」
「ち、違うわよ! 私はただ」
 ネフトの言いわけを遮って、巨大な金属音が鳴り響いた。王と神官たちが出揃ったのだ。これから、南方の侵入者を退け勝利を持ち帰った王とその加護をした神を讃える式典が執り行われる。
「楽しみね」
 ネフトが小さく呟いた。記憶にある限り、ユギたちが凱旋の儀を見るのは初めてである。この儀が以前行われたのは十数年は昔、まだ赤子だったのだから当然だ。
 最も豪奢な箱付きの輿から、色白の神官が姿を現した。ファラオじゃないのかと、どよめきと言うには小さな戸惑いの声が幾つか、ユギの周りでも上がる。
 その神官は白と青と紫の布を纏い、金に翡翠を銀に天青石を嵌めた飾りを身に付け、一目で彼が何か特殊な地位にいることを知らしめていた。額を見よ、そこにあるのは恐れ多くも上下二国の主を象徴する、鷲の羽を持つコブラの細工である。
「あのヌブトの神官スゲェな。他の奴らが霞んで見える」
 ジョーノの言葉にユギは眉を顰めた。他の神官たちとて、決して粗末な格好ではない。白布や金細工くらい全員が身に付けている。
「あいつは化け物だ」
「化け物?」
 ああ、と、ユギは白い肌の神官を見据えて頷いた。
「オレが赤ん坊の頃からずっとあの容姿だ。信じられるか、あれでファラオよりも年嵩だと」
「嘘でしょう? だって、今は……」
 アテム王の治世十六年。若くして即位した王ではあったが、それでも。
「父上に巣食う寄生虫め」
 ユギの呟きは、続いて輿から出た王を迎える歓声に掻き消された。


 儀式は何一つ誤りなく終わりを迎えた。ファラオも、ヌブトの神官も、他の貴人たちも、再び輿に戻る。
「つい最後まで見ちまった。急いで店の用意しねぇと」
「私も戻らなくっちゃ。このあとここで踊るのよ、ユギも見ていってね」
 式典が終わっても祭りは終わらない。立ち去る神官たちを避けながら、民衆は各々のすべきことをしに散り散りになっていく。
 その時、ふいにジョーノの肩へ鈍痛が走った。輿の担ぎ手が籠の端をぶつけたのだ。
「貴様、選りにも選ってファラオとセト様の輿に当たるとは何たる不敬!」
「当たるって、そっちが勝手に」
 言い返そうとしたジョーノの口をネフトが塞ぐ。
「馬鹿! ファラオの輿よ、謝んなさい」
「もう遅い、その首落としてくれる」
 警護の兵が二人を取り押さえようと辺りを囲んだ。遠巻きに、人々が悲鳴を上げながらも様子を窺っている。騒々しい。
「何ごとぞ」
 籠の中から硬い響きの声が掛かった。銀細工を付けた指が幕を持ち上げ、天青石の飾りが、いや、そのような色の瞳が、二人を見て状況を推し測る。
「捨て置け、祭りの日に血など見とうないわ」
「本当によろしいので?」
 神官の言葉に兵士は囲いを崩しながらそう確認した。輿には王も乗っている。万が一、王とこの神官の意向が異なれば従うべきは王である。そういった意味での確認だったが、答えたのはまたも神官の方であった。
「良い。然様な小石に構う暇があるなら疾く進め。それとも我が言葉を速やかには行えぬか」
 我が言葉を速やかに行えとは、王の命じ方である。王の隣にいて王のように振る舞う神官に、兵はひれ伏し己の愚鈍を詫びた。輿は慌てて動き出す。すっかり取り残されたジョーノとネフトが助かったことに気付いたのは、ことの成り行きをいつ割って入るか考えながら見ていたユギが、二人が無事で良かったと声を掛けてからだった。
「あ、ああ……何だってくらい態度のでかい神官だったな」
「本当。今の人に限ったことじゃないけど、最近神官たちの態度酷いわよね。あんな言い方を許すなんて、ファラオは神殿を重く見過ぎよ」
 王宮の傍に立つ巨大なアメン=ラァの大神殿へ、ユギは視線を向けた。セトと呼ばれたヌブトの神官は、そこで大神官ヘイシーンの下に付く一人である。
「そうだ、二人とも、行かなくていいのか?」
 ユギは殊更明るい声を出して話題を替えた。忘れてた、と二人が揃って慌て出す。
「それじゃ神官に気を付けろよ。ネフト、踊りはどこか高い所から見る。だから客席にいなくても心配する必要はないぜ」
「分かったわ、ユギも気を付けて」
「じゃあ、またな、ユギ」
 三人はそこで別れた。ユギは人ごみを抜け王宮の裏手へ回る。さっき、神官セトは自分の姿を見ただろうか。目が合ったような気もするし、思い違いのような感じもする。
 書記の子ユギは急いでいた。あの天青石の瞳に見付かったなら、書記の子でいられる時間はもう僅かしかない。いや、既に遅いかもしれない。何しろあの輿には王も乗っていたのだ。
「王子!」
 後宮への小道を折れた所で、ユギは休息の時間が終わったことを知った。時を知らせたのは己の教育係であり、王の宰相であり、また書記たちの長でもある老人である。
「ああ王子、また抜け出されたのですな、一人の供も付けず!」
「別に、遠くまで行ったわけじゃないぜ」
「遠い近いの問題では御座いませぬ! だいたい、下々の集まる広場までは行ったのでしょうが。このシモンの目は欺けませんぞ」
 ああいつもの小言だ。ユギは聞きたくないとばかりに耳を塞いだ。
「オレが広場に居たと、誰がお前に言ったんだ」
「貴方のお父上ですとも」
 老人は呆れ顔で王宮を指差した。
「お戻りになられたファラオが、仰ったのですぞ」
 あのヌブトびとめ! やはり告げ口をしたな! ユギは地に向かって悪態を吐いた。老シモンがそれを窘める。
「あまり、そのような言い方をなさいまするな。アメン=ラァの神官に聞かれては、いかに王座の女の王子とて、大変で御座います」
 ヌブトびと。先程から何度もでてくるこの言葉は、上エジプトの公家でありながら異民族との婚姻を繰り返し、一目で他のタァウイ人と見分けが付くほどに色白くなった族の血筋のことである。彼らには王権闘争に敗れて不吉なものたちの烙印を押され、目に付き易い容姿故に、暫く身を潜めざるを得ない時代があったという。ユギの生まれる前のことであり、ユギは仔細を知らない。冗談ではないかと疑ってさえいる。
 今やヌブトの白い肌は不吉でなく権勢の象徴。かつての名残でその白に嫌悪感を抱くものもいるが、それを口にすれば首が飛ぶ。現王の治世下で復権を果たした彼らは、王宮にも神殿にも強い力を持っている。
「さぁ王子、落ち着かれたのなら部屋へお戻り下され」
 シモンに促され、ユギは宮殿の門をくぐった。王子たちの三つの部屋、その一つに向かうために。


 女官たちに寄って集って身なりを直され部屋に戻ったユギは、正方形の窓の下に椅子を置いて、そこから城下を眺めた。ネフトに言った通りの、高い所からの物見である。
 少し遠いが、灯りに照らされた広場はよく見えた。中心では踊り子が楽器を鳴らして踊っている。あの、牛の角のような形の飾り剣を持って踊っているのがネフトだろうか。流石に顔は見えないが、背格好、足を踏み出す時の腰の動き、どことなく見慣れたものだ。
 中心から外れた広場の外周では、多くの露天商が店を出している。大勢が並ぶ干したナツメヤシ売りの店、化粧道具らしきものを売っている店、ベスやシェドのような、庶民のための神像を売る店。ああ、あの店の主には見覚えがあるぞ。さっき別れたところだからな。
 三人で喋った他愛無い話を思い出し、ユギの頬が少し持ち上がる。
「もう一人のボク!」
 どこまでも緩んでいきそうだった顔が、後ろからの声に引き締まった。
「相棒。どうしたんだ?」
「別にどうもしないよ。けど、帰ってきたって聞いて」
 相棒と呼ばれた王子はユギと違い王宮をあまり抜け出したがらない。王子といっても王家の子供程度の扱いで、ユギより自由な身の上だからそれで満足なのかもしれない。言わば分家に生まれたユギの従兄弟、ということになっている、彼は、王子たちの三つの部屋の中の二つ目を与えられている。
 この二つ目というのは本来部屋の格を表すもので、しかし実情は異なり、三つの部屋の中で最も質素な部屋に彼は住んでいた。だが、ユギは彼がそのことで不平を言うのを聞いたことが無い。双子のようにそっくりなユギが、ただ王と王座の女の子であるというだけで一番豪華な部屋に住んでいるというのに。
「そういえば、三つ目の部屋も今日は空なんだよ」
「ナムが出掛けてるのか? 珍しいな」
 三人の王子の中で一番王座に遠い彼もまた、好き好んで外へ出て行く性質ではない。出自に問題を抱えて迎えられた、神官セトの養子。生まれに付いてとやかく言われるのが嫌でそうしているのだと、噂されている。
「渋々出てったんだ。大神官のお呼びでね」
「ああ……今日の式典はセトが取り仕切ってたからな」
「なんだ、そうだったの?」
 それじゃボクも見に行けば良かったかな、とユギが続けた。ユギが、そう、この二人の王子は同じ名を持っているのだった。周囲は区別のため二人を一の部屋のユギと二の部屋のユギ、ホルサイセのユギとアンプのユギ、とにかく何らかの別称を付けて呼んでいる。
「セトなんか見ても何も面白くなんかないぜ。今日も偉そうだっただけだ」
「そう? ボクはちょっと面白いな。だって、タァウイ中の宝物を集めた陳列棚を見てるみたいだもん」
 ホルサイセのユギは肩を竦めた。
「その言葉は父上に言ってやってくれ。相当風刺のきいた皮肉になるだろうさ」
 王より立派な身なりをした一介の神官とは、国政の乱れにも程がある。今日の額当ては何だ、上下二国の支配者にでもなったつもりか。ほんの少し輿にぶつかるのとどちらが不敬かなど、考えるまでもない。ユギは――記述の都合、今後ホルサイセのユギをただユギと、アンプのユギをただアンプと述べる――不機嫌に溜息を吐いた。
 会話が途切れ、二人の耳に、互いの声以外の音が飛び込んでくる。打楽器の音、石の響く音、木の爆ぜるような音、そして異様なまでの人の声。
「何だ? 城下が騒がしいな」
「本当。お祭りが盛り上がってるのかな?」
 だが、四角い窓の向こうに見えたのは楽しげな祭りの光景ではなかった。慌ただしく逃げ惑う人々。逃げ惑う。……いったい、何から?
「謀反! セト・カスト・ヌブティの謀反!」
 階下から叫び声が聞こえた。二人のユギが顔を見合わせる。セト・カスト・ヌブティの謀反!
「まさか、だって、さっきまで式典に」
「式典の日だからだ。祭りの騒ぎに乗じて、各地の仲間を呼んでたんだろう」
 王の帰還を祝う大規模な祭りだ。地方の侯や祭祀が見に来るのもおかしなことではない。現に、昨日の内にタァウイのほぼ全州から客が来て、王宮へ捧げものを持ってきている。いや、タァウイの州だけではない。西方のアシュ族も、かつて族のものが世話になった礼だと言って何やら美々しい作りの木箱を置いていった。等身大ほどもある大きな人型の箱が金箔や石の粉で彩られていて、アシュにそんな財力があったのかと驚きはしたが……ああ、そんなことはどうでもいい。謀反、謀反が起きたのだ。
「王子!」
 部屋の戸を開けたのがシモンで、ユギもアンプも心底安堵した。謀反が起きたのならば王子である自分たちの身も危ない。
「二人とも、速くお逃げ下され! セトの謀反ですじゃ。それも」
 分かっている、そう応えようとしたユギは、結局、その言葉を飲み込んだまま吐き出せなくなった。シモンの、次の句は、それほどまでに衝撃的だったのだ。
「州侯、地伯、大祭司、合わせて七十二人が奴に味方を!」
 タァウイの州は四十二しかない。地伯、大祭司を含めるにしても、七十二人とは多過ぎる。いつの間に、どうしてそんなに多くのものが。
「必ずや王座の女と息子を捕らえよ! 蠍を使え、炙り出すのだ!」
 声は、近くまで来ている。


<BACK NEXT>

タァウイ:エジプト全土、特にナイル川流域を表す。
上下二国:タァウイに同じ。上エジプト(ナイル上流・南)と下エジプト(ナイル下流・北)。
ウアセト:地名。ギリシャ語読みテーベ、現ルクソール。上エジプト中南部の都市。
ネフト:エジプトイチジク。アシュールプラムとも呼ばれ、現在のイチジクと同一かは不明。アンズかも。
鷲:上エジプトの守護女神ネケベトの象徴。
コブラ:下エジプトの守護女神ウアジェトの象徴。
ヌブト:地名。別称オンボス、現ナカダ。上エジプト中部、ウアセトより北の都市。
ホルサイセ:「イシス女神の子ホルス」(父はオシリス神)。ここでは「王妃の子」という意味。
アンプ:アヌビスの名で知られる神(オシリス神とネフティス女神の子)。
セト・カスト・ヌブティ:「ヌブトのものである異国人セト」の意。