セネト・パピルス 2
2008/5/10


「速く、速く。蠍を放されては隠し通路が使えなくなるのも時間の問題ですぞ」
 王子たちの三つの部屋には、それぞれいざという時のため逃げ道が用意されている。道の現し方を知っているのは各部屋の王子と教育係のみ。しかし僅かな隙間にも潜り込む蠍を部屋に放たれては、それが人に見付かるまでそう時間は掛かるまい。
「さぁ、お二人とも、速くこちらへ」
 老シモンが壁際に置かれたアメン像の首を上向かせると、その足元に小さな取っ手が現れた。ユギがそれを引き、地下への隠し扉を開く。
「相棒」
「待って! ボクたちだけじゃ」
 アンプが、不在のまま帰ってきた気配の無い三つ目の部屋の主を気に掛けるように言った。
「待っている暇など御座いませぬ。それに恐らくナムはセト側。待つ意味も御座いませぬ」
「シモンの言う通りだ。父上と母上、それに叔母様は……今は考えるのをやめよう」
 手遅れだろうか、と、ユギは口に出さなかった。父は恐らく。母と叔母は分からない。無事であれば逃げ落ちた先で会うこともできるだろう。そのためにはまず、自分たちも生き延びなければならない。
 暗い地の底に向かって、階段が伸びている。真っ直ぐではない。途中で曲がり、くねり、枝分かれして迷宮の様相を見せている。
「一の部屋の王子は進み方を御存知ですな。二の部屋の王子は決して私から離れぬように」
「う、うん」
 灯りなど無い。一度扉を閉め通路を再び隠してしまえば、注意深く壁を伝い、手探りで定められた印を探しながら歩くしかないのだ。もし迷えば、目的地に着くどころか、元の部屋へ戻ることすらできるか怪しい。
「真っ暗だね。どこへ続いてるの?」
 暫く行くと、階段は終わり、平らな道が現れた。平らな道も、やがて自然に作られたのであろう歪な足場に取って代わられ、出口の近さを思わせる。だが、洞窟にはいまだ光の一筋も差し込まない。
「今はお静かに。響いて聞こえないとも限りませぬ」
 追っ手はここを見付けただろうか。洞窟の中はひたすらに無音。だが、よく訓練された兵士ならば、足音を立てず歩くくらい難無く行う。万が一行き先を聞かれでもしたら、先回りされ立ち所に捕らえられてしまうだろう。
 そうなれば命の保証は無い。ユギはセト・カスト・ヌブティの冷たい石の瞳を思い出して身震いした。もう一人のユギは、セトの実子としての立場から、或いは生かされるのかもしれない。だが自分はどうだ。名実ともに父王アテム・アメン=ヘテプと王座の女の子。セトにとっては最も邪魔な存在になる筈だ。公家に生まれ王座の二位の女としか婚姻を結んでいない彼には、自分と母がいる限り、正統なる王の座は決して回ってこないのだから。
 なんと、暗い世界だろう。
 どれほど歩いた頃か、ユギは己の足元が、岩盤から固い泥に変わっていることに気が付いた。足の裏は痛み、時間の感覚は消え、気も遠くなりかけていたが、彼は俄かに元気付いた。
「シモン。終わりは近いのか?」
「おお、じきにじきに」
 老教師が頷いた。それにやっとかと返そうとして、ユギはもう一つのことに気が付いた。見えているのだ。頷いた老教師の姿が見えた。先程まで永遠に続くドゥアトの夜とさえ思えていた闇が、僅かながら明けてきている。
 最初は曲がりくねった階段、次が人工的に作られた迷宮、そして恐らく自然による洞窟。印があったのは迷宮の途中までだ。先を行くシモンに付いて歩いていたユギたちはあまり意識していなかったが、洞窟に入ってからの道もまた平坦な道ではなかった。緩やかではあるが長い坂になっていたし、左右に蛇行してもいた。
 結局、どこに着くのだろう? 暗闇の中複雑な迷宮を歩いた時点で方向は判らなくなった。今はどの方角へ向かっているのか。ここはウアセトの北か南か、それとも西か東か。
 ユギは鼻先に感覚を集中させた。出口が近付くにつれ、澱んでいた空気が流れを取り戻している。その内には微かな湿りも感じられた。足元は砂でなく泥濘んだ黒い土。
「ナイルの曲がり角、イティか!」
 光が差した。
「夜通し歩いてたことになるのか」
「いいえ、もっと長くですぞ。太陽の位置をご覧下され。あんなにも高い」
 老人には少々苦しい道程でしたわい、と、シモンは地上に突き出した洞窟の天井へ腰掛けた。二人のユギもその隣へ座り身体を休める。
「これから、どうしたらいいんだろう」
「まずは、どこかへ身を潜めなくてはなりませぬ。ですがアイシスやマナの安否も気になるところ」
 いかに、いかに。老人は短く呻いて頭を抱えた。
「オレに考えがある」
 ユギが立ち上がり、唾を吐いた拳で目の下をぐいと拭った。都の貴族風に太く塗られた目化粧が落ちる。
「大丈夫だ、イティなら当てがある。格好を改めて町に入ろう」
 そう笑って見せた顔は、王と王座の女の息子から、書記の子のものに戻っていた。


「本当にこんな服を?」
 泥で『染めた』服を手に、老シモンは眉を寄せた。眩いほどに白かった亜麻の布が、いまや無残な土の色である。
「本当は灰や何かも欲しかったんだぜ。繊維に沿って黒い筋を付ければ、もっとそれらしくなるからな」
 白くなるまで灰汁を抜き陽に晒した布は、栄えた都ウアセトにあっても王侯貴族や神官しか纏うことができない高価なものだ。庶民は皆、織り上げたままの黄ばんだ布を、それが更に薄汚れるまで使い続ける。多少ゆとりのあるもので、二、三度色抜きをしたか、もっと濃い色で染め上げたかの布が精一杯だ。その色とて何でも好きな色とはいかない。青や紫は北の緑海を越えた地からの献上品くらいでしかお目に掛かれないし、美しい染め上がりのものを手に入れるのは、王でさえ酷く難しい。
 それをあの反逆者が纏っていたと思うと、ユギのはらわたは煮え繰り返らんばかりだった。それほどまでに王の寵を受けておきながら、何故謀反など。
「ねぇ、これはどうするの?」
 差し出された金の装身具を、ユギはアンプから受け取った。
「金は、全て外さなければならない。混ぜものに使われてるのも駄目だ」
 ユギは耳に付けていた金の輪を外し、アンプの腕輪と一緒に葦の袋へ放り込んだ。太陽を表す金もまた、王族とラァの神官の他は身に付けることを許されぬ、高貴の品なのだ。
 イティには、ハト=ホルの大神殿が存在する。国都ウアセトとの信ずる神の違いは神殿の外にも浸透しており、アメン=ラァ神官たちの力もここではある程度までに抑えられている。金の飾りは、イティの町並みにはそぐわぬものであることだろう。
「さぁ、金は全て外したな? 布に白いところは残っていないか? よし、それじゃあ行くぜ」
 身を窶した一行は、西に向かって歩き出した。少し行った所でナイルの渡し守が船を流している。対岸には小さく箱家が見え、そこに町があることを知らせていた。
「そうだ、オレたちの関係を決めないといけないな。まさか王子と教育係だと言うわけにもいかないだろ」
「なるほど。王子はなかなかに下々への化け方を心得ておられるようですな」
「ああ、その下々ってのも駄目だ。自分が上の階級だってばらしてどうする」
 なるほど。シモンが感慨深げに、勉学を怠っては城下で遊んでいたのも無駄ではなかったのですな、と唸った。
「とはいえ、急に全く異なる身分になるのは難しい。シモンが引退した元書記で、オレと相棒がその孫というのはどうだ。書記なら多少貴族風の喋り方をしても変には思われまい」
 三人の間で話が付き、ユギは手を振り大声を上げて水面を行き交う渡し守を呼んだ。川縁へ、すぐに船がやってくる。
「旦那方、御代は何だね」
 船頭に問われて、ユギは先程金やその他の装身具を入れた葦の袋から、小さな、透明の石を取り出した。くすんだ表面は、アンプやシモンにしてみれば、何の価値も無いように思える。
「硝子かい。こんなに小さいんじゃ三人乗せるのは無理だね」
「そう言わずに頼む。これ一つ切りしかないんだ」
「また冗談の巧い。その袋、随分重そうじゃないか。他にも何か持ってるんだろう?」
 渡し守が葦の袋を指差す。ユギは、目がいいな、と肩を竦めた。
「仕方ない、もう一つ付ける。だがお前が思ってるようないいものじゃないぞ」
 ユギが取り出したのは小型のタウレト神像だった。安産祈願に使われる、直立したカバの姿の女神像を、渡し守の男が検分する。
「タウレトか……本当なら足りないとこだが、ウチのかみさんが身篭ったばかりでね。買いに行く手間が無くなると思えばタウレト像でちょうどいいってことにしてやるよ」
「有り難う。話を付けると、このタウレト像は今まで十五の出産に立会いその全てを成功させた代物だ。奥さんの安産は保証されたと思っていいぞ」
 その言葉に男は頭を掻いた。
「参ったね、むず痒い気分だ。さ、乗っておくんな旦那方」
 一連の交渉にアンプとシモンは内心舌を巻いていた。金を入れた袋を持ちながら、よくもまあ平然と。しかしくすんだ硝子だのタウレト像だの、いったいどこで手に入れたのだか。考えてみれば、葦の袋だってあの騒ぎの中ちゃっかりと持ってきていたから今ここにあるのだ。抜け出すということに付いて、あまりにも手馴れている。役に立っているからといって、必ずしも褒められた技術ではないが。
「さっきの、どうしたの?」
 葦舟に乗ると、渡し守の耳を避けて、アンプがユギにそう尋ねた。さっきの――渡し賃のことだ。ユギは、最初何が不思議なのか解らぬように首を傾げ、それから、ああ、と手を打った。
「硝子は前に城下で買った。メフウ・ウェジュ一枚と交換だったかな。タウレト像は賭け札遊びで勝った時に」
「か、賭け札遊びですと」
 聞いて、驚いたのはシモンだった。どもりながら、それがいかに罰当たりなことか説明を始める。
「ああ、もういいもういい。その小言は聞き飽きた」
「飽きるほど聞いてもまだ解られないとは、なお嘆かわしや」
 よよと倒れる真似をしたシモンを見て、船頭が腹を抱える。
「旦那、随分お堅い人だねぇ。今時賭け札遊びくらい赤ん坊でもする遊びでさぁ」
「赤ん坊でも!」
「おい船頭、あまり言わないでやってくれ。ウチのじーちゃんは書記の先生をやってて生真面目が染み付いてるんだ」
 そういうユギも笑っている。釣られてアンプも笑った。水の上で笑い声が波紋を広げる。
 ナイルの西岸に着くと、三人は葦舟から黒い土の上に降り立った。ユギが渡し守に礼を言い、残る二人もそれを真似る。男は愛想良くそれに答えると再び客を探しに流れへ漕ぎ出して行った。
「全く、賭け札遊びなど……おまけにじーちゃんですと。何のおつもりを」
「何だ、知らないのか? 祖父を呼ぶ庶民風の言い方だぞ」
「そうではなく……ああ、一晩しか経たぬのに、もう王宮が恋しい」
 シモンはまだぶつくさと文句を並べ立てている。タァウイに並び無き四公家の一の家ケメヌの公を前身とし、王には劣るものの今王座の女たる資格を持つものたちよりは高貴な血筋である彼にとって、ユギの完璧な庶民振りは、必要なことと解っていても衝撃が強過ぎたのだろう。
「シモン、お前の言いたいことは解る。だが、今はそれよりも聞きたいことがある」
 辺りを見回し、自分たちの他に耳をそばだてるものがいないことを確認してユギは口を開いた。その口振りは庶民のそれではない。真剣で、高貴な、王位を継ぐもののそれだ。
「セトに協力したものは誰か、分かる限り教えよ」
 一先ずこの地にはおりませぬ。老シモンはまずそう言って、それから一段声を潜め彼の素晴らしい記憶力を披露した。
「裏切りものは総勢七十三名。筆頭をヌブト公セト・カスト・ヌブティ。ウアセトのアメン=ラァ大神官ヘイシーン。アブゥ侯及びアンケティ伯、ケネムウ大祭司。シャスヘテプ侯。イアケメト侯及びネムティ大祭司。ケメヌ公。ハトネスウ侯。ウンスィ侯。ネンネスート侯及びヘリシェフ大祭司。シェメヌ侯及びシェディト伯。メンネフェルのプタハ大祭司及びタセネン大祭司。ケム侯。プトケカァ侯。ザウ侯。デプ侯。ペルアトム侯。ハトタヘリイブ侯。タレム侯及びメアイヘサ大祭司。チェブネチェレト侯。イウヌウのラァ大祭司。ハトウアレト侯。ジェデド侯。ペルバスト侯及びバステト大祭司。ジャネト侯及びネフェルトゥム大祭司。ペルソプドゥ侯。沿岸居留区のウェルケトエル商人、チェケル商人。チェヘヌウ砂漠よりアシュ族。……主たるものを上げるだけでこれだけが。遠きよりはプント王の協力もあると思われ、残る三十六名はその手のものに御座ります」
 実際耳で聞くと、そのあまりの多さにユギは眩暈を感じずにはいられなかった。
「下つ国のものが多いな」
「あちらはセト・カスト・ヌブティの出自です故」
「ああ……そうだったな」
 だが、今回のことを招いたのは単なる血の結束だけでも、まして一人の権力欲だけでもあるまい。出自とはいえ彼と血の繋がりのあるものの大半はもはや下エジプトにはおらず、ウアセトで王宮に仕えるか異国へ渡ったかであると聞く。権力ならわざわざ危険を冒し王座を奪いに来ずとも、充分に間に合っていた筈だ。父王には重用するあまり幾らかセトの言いなりの節があった。
 背後に何かが潜んでいる。何かとは何か。解らない。だが良くない予感だ。まるで、気付かない方が幸せでいられるような類の。ユギはそれを打ち消すように首を振った。
「ともかく、詳しいことはまだ解りませぬ。セトが首謀者なのは間違いありませんが……他の七十二名に関しては、謀反のその場に居合わせたものがそれだけという話で」
「状況は今後変わるかもしれないということか」
 それは、決して楽観的な意味では無い。むしろ状況は悪くなる可能性の方が高いのだ。まだ判らぬが、恐らく治世十六年目にしてアテム・アメン=ヘテプの時代は終わったのだろう。そうなれば新たな王の治世が始まる。新たな王とは、正統なる王座の継ぎ手ではなく造反者セト・カスト・ヌブティのことだ。マアトに適わぬ王位の流れ。しかし新王の座に収まったセトに、わざわざ歯向かうものがどれだけいるだろうか。
「現状この地が安全そうだということだけが救いか」
 イティ。セト・カスト・ヌブティの七十二の共謀者を出さなかった土地。書記の子ユギがよすがを持つ土地。その州都はウアセトで起きたことなど知らぬとばかり、活気に溢れていた。


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アテム・アメン=ヘテプ:「アメン神の満足たるアテム」の意。アメンはウアセトの主神の一柱。
ドゥアト:冥界。
イティ:地名。ギリシャ語読みテンティリス、現デンデラ。ウアセトやヌブトの北の都市。
緑海:地中海のこと。
メフウ・ウェジュ:メフウ=パピルス、ウェジュ=石碑。この話ではデュエルに使うカードのこと。
チェヘヌウ砂漠:エジプト西方、現リビア砂漠。
マアト:真実、真理、正義などの意味を持つ。