セネト・パピルス 4
2008/5/24


「やっと動けるぜ!」
 ナイルを下る船内の一室で、ユギはそう叫ぶと今にも固まりそうだった腕を大きく振り回した。隣ではアンプも同じことをしている。やっと動けるとは何のことか。それは、比喩でなく言葉の通りである。
 イティを離れる際、ユギたちは当然隠れて密に行動しなければならなかった。ナイルにはイティからチェブに掛けて――あの夜セトに協力しなかった州侯の領地沿いに――多数の検問が設けられていたからだ。船は何度も隈なく調べられることになる。見付かれば命の保証は無い。ユギたちは荷に紛れるという手段を選び、ここまで隠れてきたのだ。
 船は、神殿裏の女神官が用意した。ちょうど下つ国へ行くところだった貿易船に、ユギたちを乗せるよう交渉してくれたのだ。彼女の馴染みだという商人は女同様ネフトの話に出てきたことのある名の持ち主で、女にも、それなりに、信頼されているようだった。
 商人は男だったが、派手な目墨をいれていて、それを見るだけで彼の船の繁盛振りが窺えた。
 光が強く虫が眼病を運ぶタァウイでは、老若男女貴賎を問わず目を護るため虫除けの練墨を目縁に塗る。だが普通庶民の引く目墨は細く薄い。太く濃く描くのは、財にゆとりのあるもののみである。ユギも王宮では太い目墨、それも孔雀石を潰した特別製のものを引いていたが、今は庶民染みた細い線を控えめに描いているだけだ。
 太い目墨の商人は、上つ国には珍しく、アナトリア風の絨毯を売りものにしていた。美事な紋様の大きな硬い布地、そう、ユギたちはそれに包まれてチェブまでの航路をやり過ごしたのだ。真っ直ぐに伸ばした身体を絨毯でぐるぐる巻きにされ、まるで糸巻きの芯のようにして。
 イティからチェブまでは検問に足止めされたこともあって丸一日以上掛かった。凡そ半日だと聞いていたユギたちが、絨毯の中で解放をまだかまだかと待ち望んでいたのも、解放をやっとだと言うのも、道理である。
「もうこの先検問は無いのか?」
「どうかな、全く無いとは言い切れないけど、一番警戒されている地域は抜けたから」
 全ての州侯は、この数日の内に、領地を取り上げられるかマアトに掛けて新王に服従することを誓うか選択を迫られた。今ユギたちが抜けたのは領地取り上げになった州が集まっていた地帯である。追放になったものたちに替わって統治権を与えられた、つまり取り立てられたばかりの新侯たちは、我こそ一番手柄を上げんと張り切って検問を設置していたのだ。
 そこを抜けてしまえば、もしナイルを下ればいずれかの網に掛かるだろうとの思いからか、ユギたちを探す動きは途端に弱まった。シャスヘテプ、イアケメト、シウト、クィスの侯が治める四州をユギたちは何の苦も無く通り過ぎ、それまでとの違いに拍子抜けしたほどだ。
 クィスから少し行った頃、イティを発ってからはちょうど三日目の昼下がりに、ユギたちを乗せた船は中洲に停泊した。増水期アケト明け、河神ハピが通り過ぎたあとのナイルは、上流から運ばれてきた土砂の山がいたる所に島を作っている。ことユギたちが泊めたそれは大きく平らかで、ユギたちだけでなく数多の船が岸辺に寄っていた。
「ここで売り買いもしているのか。賑やかだな」
「何か御要望は? 尤も、目に留まるようなものなんて無いかもしれないけどね」
 お前の売りものの絨毯は自分の部屋に敷いてあったものより高価そうに見えるぞ、と、ユギは口に出さなかった。ささやかな見栄だ。だが見栄とは別に、庶民に交じって遊ぶことを好んでいたユギにとって、外の様子は魅力的だった。
「自分で見たい」
「ボクも。外に出てみたいな」
 二人のユギが声を揃える。商人は諾とすべきか否とすべきか今や二人のお目付け役と化した老教師を横目に窺った。
「駄目に決まっておりましょう。危のう御座いますぞ」
「えー、少しくらいいいでしょ? こんな所まではまだ手配書だって回ってないよ」
「そうだぞシモン、深めに帽子でも被ればばれやしないさ」
 ウアセトでだって王子とばれたことは無かった。ユギの得意げな主張に、毎回それを叱っていたシモンが顔を顰める。
「そんな顔したって譲らないぜ」
 ユギは手近にあった日除け帽を被って腕を組んだ。頬も少し膨らせている。
「そのようなお顔は髪房付けた子供のするもの。全く、この一大事をなんとお心得になるか」
「まぁ、そう怒らなくても」
 二人の間に商人が割って入る。そうまで言うならまず自分が外を見てこよう、それで安全そうなら良しとしようじゃないか。彼はそう言うと派手な目墨に縁取られた瞼でユギとアンプに目配せをした。
 それから暫く待たされて、漸く二人は外へ出ることを許された。
「相棒はあまり喋らないほうがいいぞ、慣れてないからな」
「うん。交渉ごとはキミに任せるよ」
 シモンは船に残ると言い、二人には商人が付くことになった。何があるだろう何を買おうかと相談しながら歩くユギは、その手に例の葦袋を持っている。身分を特定されそうな黄金や大粒の貴石はシモンに預けたため、その中身は彼の老人に言わせればがらくたばかりだが。
 欠けた所のある水晶、磨く前の硝子、珍しくもない匂いの香油、それに木彫りの神像と数枚のメフウ・ウェジュ。それらが入った袋を弄びながらユギたちは中洲の市を覗き込んだ。
「わあ、水桃が売ってるよ。乳香に没薬も!」
 アンプの言葉にユギは一瞬ぎょっとし、売り手が赤い肌なのを見てほっと息を吐いた。水桃や乳香に没薬、それらは全てプントを主産地とするものだ。
「食べたいのか?」
 最も熱心に視線が注がれていた水桃に当たりを付けて尋ねると、アンプはうんと頷いた。
「でも、干したのの方がいいな。そっちの方が甘いもん」
 タァウイや周辺諸国の男は、皆基本的に甘いものが好きである。二人のユギも多分に漏れず、干した果物や蜂蜜を塗ったパンが大好物だった。特にナツメヤシなんかは、手に入りやすく食べやすくていい。
「干した葡萄ならあっちに売ってたぜ」
「葡萄かぁ。葡萄はすっぱいからネフトを探そうよ」
 ユギの友人ではなく、少し硬いが格別に甘い木の実のことだ。ネフトはネフトが好物故ネフトというあだ名なのだ。それを売る店は、少し離れた所にすぐ見付かった。
「そっちの籠のを、これと交換しないか」
 香油一瓶を渡して、ユギたちは一抱えの干しネフトを受け取った。早速その一つをアンプが口に入れる。
「美味しい!」
「オレも食べる」
 ネフトを齧りながら二人が市を見て回る。果実、酒、宝飾品に手慰みの玩具、大きなものだと杉や鉱石の塊に切り出した花崗岩、赤石まで、あらゆるものがここに持ち込まれていた。
「買い得、買い得! 都貴族からの流れものだ、今を逃せば二度と御目に掛かるまい。さあ、どなたかお買いにならんかね――」
 次は何を買おうと辺りを検分する二人の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。
「都貴族の……?」
 本当だとすればどうしてこんな場所に。ユギは品が見える位置まで店に近付き、嗄れ声を張る男の手許を注視した。そこには首飾りが置かれている。材質は金のようだ。そして、中心に背の高い椅子を模した細工が下がっている。それを認めた瞬間、ユギは心臓が鼓動を速める音を聞いた。
 間違い無い、あれは王座を守るものの、王座の女の、母の、首飾りだ!
 金で作られた背の高い椅子、それは玉座を表す。王妃の儀式冠といえばそれを模ったものと決まっているし、冠以外でも、歴代王妃の装身具に同様の意匠のものは多い。そして何より、ユギはあれに見覚えがあった。
「母上のものだ。人の手に流れさすわけにはいかない」
 ユギが傍らの商人に耳打ちをする。商人は、その派手な目墨に飾られた目を見開いて、それから、こちらで買おうとユギに答えた。
「絨毯一巻き!」
「おお買い手だ買い手だ。しかし都貴族の品を絨毯一巻きでは安過ぎるというもの」
 足元を見ているのだ。実際に、彼の足は安価なそれではなく石の装飾を付けた靴に覆われている。
「もう少し、何かあるだろうて」
「それじゃあ柘榴石。柘榴石を一粒付ける」
 商人が取り出した柘榴石は小粒なものだったが、色合いの妙といい、対価に足りぬものではなかった。男が喜び石を手の平で転がす。
「これはどういう経緯で?」
「女から頂いた代金さ。ミイラ作りの材料が欲しいってんで杉脂と炭酸石と没薬と、あとは何だったかな、揃えてやってね。綺麗な女だったよ。身なりはいいし訛りも無いし、此度の騒乱で都落ちしてきた貴族かねぇ」
 あっちの方から来てあっちの方に帰っていったよと男はナイルの向こう東岸を指差した。近付いて耳をそばだてていたユギたちが二人して首を傾げる。あの辺りは何も無い土地の筈だ。そんな所で何をしているというのか。
「お爺さん、柘榴石もう一つ欲しくない?」
 商人は先程より大粒の石を陽に煌かせてみせた。
「その女性の話、今後二度としないと、マアトに懸けて誓えるなら渡すよ」
「何と、女の話をせぬだけで! 勿論誓う、誓うとも」
 首飾りを買い口止めも済ませた商人は、ユギたちを船に戻るよう促した。思いも掛けず見付かった手掛かりに、ユギたちも神妙な顔で戻ることに同意する。
 再び船に乗り込むと、待ちかねていたシモンが三人を出迎えた。大袈裟に無事を喜ぶのを遮り、早々にユギが首飾りを取り出す。
「見てくれシモン。これに、覚えがあるだろう?」
 金細工の小さな玉座に、老人もまた目を見開いた。
「これは、おお、いったいどこで」
「市に出てたんだ。東岸から来た女が売買に使ったらしい」
「では、あちらにアイシスたちが?」
 東岸に、人が留まる場所があるようには見えない。ユギの記憶では王宮や神殿が保管している国内全図にもこの辺りに町があるとは記されていなかった。
 だがシモンは、何ごとか心当たりでもあるように、難しい所へ、と呟いた。
「東岸が何か不味いのか?」
「行けば解りましょう。できることなら王子たちにはお見せしたくなかったのですがな」
 船を東岸まで渡してもらい、ユギたちと商人はそこで別れた。
 シモンが見せたくないと言ったもの、それは、岸に降りた時には見付からなかった。目に映るのは地平線ばかり。だと、初めユギたちは思った。
「町だ」
 緩い傾斜を登ってすぐ、ユギたちは思い違いに気が付いた。坂が急にすとんと落ちて、その影に、ひっそりと町が存在している。町が、だが、ただの町ではない町が。
 町並みは、タァウイの一般的な町と異なっていた。建物は整然と並び、一つ一つの建築様式も、到底タァウイ風とは言えない。まだ外地の民たちのものの方がよほどタァウイらしいほどに、それは異国染みていた。神殿には神殿らしい威厳も屋根も無く、宮殿の周囲を飾る壁画には円盤状の物体が繰り返し描かれるのみで守護する神の一柱もいない。
 そして、その最も異常な点は、どの建物も半ば崩れ、通りに人影の一つも見えないことだった。
「ご覧になったからにはよくご覧あれ。これが、権勢を失った町の末路ですじゃ」
 廃墟。元は大きな町だったろうに、何があったのだろうか。無言で辺りを窺いながら進むユギたちの耳へ、遠くから微かに、赤ん坊の泣き声が届けられた。風の向きで聞こえたり聞こえなかったりするその声を三人で辿る。声は、宮殿の壁が崩れた隙間から漏れていた。
「こんな所にどうして赤ん坊が」
 表へ回り、扉を押す。戸には閂が掛かっていなかった。あっさりと、ユギたちは宮中に迎え入れられた。
 中へ入ると、泣き声ははっきりと聞こえた。正面に幾らか補修された跡のある壁と扉があり、その向こうから響いているのだ。
 人がいる。全くの廃墟かと思ったが、そうではないらしい。思い切って、ユギはその扉を叩いた。
「――どなた?」
 困惑したような、ユギの知らない女の声が返ってきた。
「そこに、この声を知るものがいないか探している」
 ユギだわ!
 今度はユギの知る女の声で、返答があった。開けて差し上げてと最初の女の声がし、扉が内側から開いた。
「母上、叔母様」
 二人のユギは部屋の奥で膝立ちになっていた女たちに駆け寄った。後ろから、シモンもそろりと遠慮がちに近付く。
「ユギ、ユギ、二人のユギ。それにシモン様も。御無事でいらっしゃいましたのね、本当に良かった」
「おお、王子の抜け出し癖が初めて役に立っての」
「まぁ。わたくしたちの方も、マナの抜け出し癖が初めて役に立ったんですわよ」
「アイシス様! それは言わないって言ったじゃないですか!」
 賑やかだ。まるで王宮にいた時のように。ここでセトが一つ二つ辛辣なことを言って父上に諌められ、その光景を後ろで笑ってるナムがいれば完璧だ。
「ほんに、よう御座いましたわね」
 ユギの追懐を遮って、金の椅子に座った女が声を上げた。腕に赤子を抱いた女だ。頭には縞柄の布を被り、ずり落ちぬよう円盤型の飾りを額に当てている。女の隣の椅子が空席になっているのに、ユギははっとして振り返った。先程扉を開けたものは誰だったかと、淡い期待があったのだ。
 だが、期待は裏切られた。振り返った先にいたのは確かに王の装束である縞柄の布ネメスを被り作りものの髭を蓄えた男であったが、ユギの父ではなかった。
「ほんに、よう御座いましたわねウアセトの王子。私たちが何ものなのか御存じないのにこんな所へ来てしまって、それは可哀想だけれど」
 大人たちが黙り込んだ。ユギもアンプも疾うに割礼を済ませた歴とした成人だが、この場においての意味では、二人は子供であった。歴史を知らぬものであった。
「ここは何なんだ? 貴方々は何故ネメスを被っている」
 問いに、女がほほと笑った。
「ここはアケタテン。ゆっくりと発音しましょうか。ここはアケト・アテン。アテンの治める地平線の都よ」
 アテンを御存知ないかしらねと、女はまた笑った。女は笑う度腕の中の赤子を揺れに見舞わしていたが、先程で泣き疲れたのか赤子は眠ったままじっとしている。
「アテンは私たちの神。唯一絶対の神。そして私たちはこの地の王と王座の女」
 ユギの頭は女の言葉を理解できなかった。そもそもタァウイは多神教の国。唯一絶対の神を定めるという考え自体馴染みが無いのだ。おまけに正しき王座の女とその息子たちがいる前で、自分たちがこの地の王と王座の女なのだという。
「正しき王は我が父、正しき王座の女は我が母の筈。偽りの称号を騙るは慎まれよ」
「ほほ、何も知らぬとは憐れ。そんなことだから神官ごときに国を奪われるのです」
 アイシスとシモンが女の話をやめさせようと金の椅子に手を掛けたが間に合わなかった。
「いいえ、神官ごときなどと言っては礼を失するわね。貴方々がカストだペスジェトだと言って蔑む異国の考え、それを知るあの方こそ、真に正しき王なのですから」
 真に正しき王? 誰が?
 一瞬時が止まり、それからユギはその赤い肌を更に赤くした。
「この廃墟がどれほどのものだと言うんだ。セトが正しき王だなど、あって堪るか!」
 憤るユギをシモンが慌てて外へ連れ出す。アンプとアイシス、マナたちも、追って部屋を出た。女の、落魄れたものに相応しく薄い目化粧の瞳が、閉まりゆく扉の向こうで細められている。
「セトなど、ただの虚妄の王ではないか!」
「勿論、勿論で御座います。しかしこの場はどうか怒りをお納めに」
「真理ではないけれど、あの人たちの言い分にも一理はあるのよ。そうですわね? シモン様」
 アイシスの問いに二代の王に仕えた老宰相はぐぅと呻いた。
「さよう、今のファラオの王権は簒奪によるもの」
「セトの、こと、だな?」
 話の流れを鑑みて、それでもユギはそう問うた。そうだと、シモンがそう言うと、信じてはいなかったが、問わずにはいられなかった。シモンがセトをファラオと呼ぶだろうか。だが、こんなことはセトの話でなくてはならない。
「偉大なる上下二国の王アテム様のお話に御座います。正確には、アテム様の持つ王権の源のお話に」
「アメン=ヘテプの、王朝の始まりがそうだと?」
「はい。しかし、簒奪とはいえその王権は民とマアトに祝福されしもの。先の王朝は異国の妃に誑かされてエジプト古来の神々を排斥し、民の心も神の加護も失い、国土すら維持できぬほどに衰えておりました。タァウイを護るためには仕方の無いことだったのです。ご覧下され、この地は廃墟、ウアセトは百門の都と、マアトがどちらを認めたかは明白ではありませんか」
 ユギは、改めてかつて王宮であった場所を見た。静かだ。この地の王と王座の女だと言った二人とその赤子以外に、人がいるとは思えない。確かに、ここは神にも民にも見放された町なのだ。
「奴らが先にマアトを捨てたのなら、奴らに正統を語る資格など無いだろう」
 そう吐き捨てたユギに、アイシスが、でも、と注意を促した。
「それをあの人たちの前で言っては駄目よ。わたくしたちは、あと六十四日は、ここにいなければならないのだから」
 六十四日。あの夜から既に経過した六日、それを合わせれば七十日。七十と言う数字に、真っ先に気付いたのはアンプのユギだった。
「ミイラをここで作ってるの?」
「ええ。どこにも頼めないから、市でやり方を聞いて」
 死者の魂は七十日を掛けて生ける人の世界から冥界イアル野へ移り住む。残されたものはそれに間に合うように永遠の身体を作り、葬儀を出してやらねばならない。
「父上はいずこに?」
「ここの裏にも大きな建物があったでしょう。その中にいらっしゃるわ」
 そう言ってアイシスが歩き出す。裏手の建物の、入ってすぐの広間に、数日前ユギも見た記憶のある人型の箱が置かれていた。
「そこの箱に入ってナイルに流されていたの」
「シモンから聞いています」
「中洲に打ち上げられて、中が何かも判らないまま売りに出されていたのを、あの人たちが買ったのですって」
 立派な作りの、豪奢な装飾の箱だ。中身を知らなければ室内調度品に見えるかもしれない。宝石が幾つか抜き取られているが、抜き取られたのが宝石で良かったとユギは思った。
「譲ってもらったのよ。事情を話して、ここに居る七十日弱は赤ん坊の世話を手伝うという条件で。だから、ここでのわたくしはただの乳母で、あの人たちが王と王座の女」
 アイシスが部屋の一つに入り、ユギたちは間も無く王の遺体と対面した。
 先王アテムの身体からは、一旦、全ての装身具が外されていた。処理のために、辛うじて腰を覆う他は衣服も脱がされている。そうして、ペレトに差し掛かっていた気候が幸いしてかまだ生々しく美しい様子で、王は横たわっていた。胸の傷がなければ眠っているように見えたかもしれない。
「何が、祭りの日に血など見とうない、だ」
 呟いてユギはその傷に触れた。沈痛な面持ちでアイシスが目を逸らす。血など見とうないと言った本人が、あの夜王宮に血を流したのだ。比喩に終わらず、痛ましい傷を自ら負わせて。
「もう何日かしたら、皮膚が崩れないように布を巻かなければね」
 誰に聞かせるでもない言葉が、広い部屋の中を静かに支配する。まるで魔法に掛かったように、誰もが小さく頷いた。


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チェブ:地名。ギリシャ語読みアフロディトポリス、現コム・アシュカァウ。上エジプト中北部の都市。
アナトリア:小アジア地方のこと。ヒッタイトなどが栄えた。
アテン:アメンヘテプ三世の代に神格化され、アクエンアテンの代からツタンカーメンの治世の途中まで国家神だった、太陽の一形態。信仰期間:紀元前1380年‐紀元前1333年(推定)。
カスト:古代エジプトから見た異国。砂漠地帯等を大いに含む。
ペスジェト:古代エジプトから見た異国。特に敵対関係にある国。九弓の民。