セネト・パピルス 5
2008/5/28


 夜のナイルに六隻の船が浮かんでいた。中心に一隻、船首と船尾の高く持ち上がった典雅な船を囲み、残る五隻の無骨な船が、物々しい様子を醸して流れを下っている。それは、新王セトの行幸の船だった。ユギたちに遅れること三日、彼は、黒い男たちに身を護らせて、メンネフェルの地を目指しナイルの水面に船を浮かべたのだ。
 黒い男たちの数は増えていた。初め三十六人であった男たちは、今、その下に各々五人ずつの部下を持ち、小隊を結成している。総勢二百十六人。企てを動かすには多過ぎるが、新王の身辺を護るには良い数だ。
「……セト」
 呼ぶ声に、新王は暗がりの中目を開いた。柔らかく手触りを整えた亜麻の敷布に腕を附き、上体を半端に起こす。
 声の主は闇を隠れ蓑にして寝台へ近寄ってきた。気配がすぐ傍にある。熱を帯びた何ものかが、セトに覆い被さった。
 熱気に押し潰されそうになり、セトは小さく喘いだ。重みは一層存在を増し、セトの、反射的に伸ばした腕が、相手の胸を突く。
 セトは腕の触れた先が尋常のものではないことに心付いた。確かめるように、セトのてのひらが相手の胸に伸ばされる。しかし触れるか触れないかの内にその手はぎこちなく強張り、その指先は丸められた。指先が微かに捕らえた、ぬるりと滑るような感触。それに、セトの心臓が急速に冷える。
 ふいに月明かりが射し込み、セトの視界で黒い塊だったものが色を持った。
「ぁ、あ――」
 浮かび上がった姿に、セトが悲鳴を上げた。
「何ごとに御座いますか!」
 部屋の外を護っていた男が、勢いよく扉を開け放つ。
「血が。私の腕に、手に」
 衛兵は目を凝らした。彼が虚空に突き出された腕に触れようとした時、ちょうど彼の隊長が灯りを持って部屋へ入ってきた。
「下がってくれ、あとは私が」
 男は第一小隊の長で、即位の日セトに金の鍵を渡した男だった。彼は寝台に駆け寄ると、王の腕と手を掴み、どこにも血など付いておりませんと低い声で告げた。
「どこにも血など付いておりません。夢をご覧になったのです」
 セトは蒼白な顔で荒く息を吐き、己の手を暫し見詰めると後ろへ倒れ込んだ。幾重にも敷かれた亜麻が痩せた身体を受け止める。
「あ……あぁ、私、私は、確かにあの男を殺したか? お前はそれを見たか?」
「あの傷で助かるものはおりません。私はそれを見ました」
 黒い男はそっと溜息を堪えた。
 ナイルに出てからというもの、毎晩こうなのだ。先王の遺体を、箱詰めという中を確認できない方法で棄てたのが不味かったのだろうか。いや、恐らく箱に詰めたのが悪かったわけではない。もっと確実に息の根の絶えたのを見届けてからなら、まだ良かった。だが考えたところで今更どうこうできるものでもない。
 それに、本当は、息の根の絶えたのを見届ければ良かったのかも分からないのだ。第一小隊長は再び溜息を堪えた。
「誰か、蜜と乳で煮たケネティを持ってきてくれ! よく心が静まるようなものを、急ぎだ!」
 隊長の声を聞き戸口に控えていた男がばたばたと足音を立てて医の心得がある侍従の部屋へ走った。侍従もこの数日夜中に叩き起こされ通しである。慣れたもので、彼は数分もせぬ内に甘い香りのする壺を抱えてやって来た。
「そろそろ呼ばれる頃かと思っておりましたよ」
 壺の中身はどろりとした白い液に赤い粒が混ざった飲みものだった。侍従は黒い男に王の身体を起こすよう命じると、壺をかき回し、その飲みものを一掬い匙に取った。
「実はすり潰しておりますから、噛む必要はありません。飲み込むだけで宜しゅう御座います」
 唇の隙間から流し込まれた液体を、セトは無理矢理飲み込んだ。甘い液体は、飲めば確かに楽になるのだが、咽喉がそれを拒もうとするのだ。
 こんな風になるのはいつ以来だろうかと、セトは強くあるべき身の無様さを情けなく思った。王宮での生活はいやが上にも己の心を鍛えたと信じていたのだが、それは手を抜いた塀の補修程度のものだったらしい。一ところを強くするために別の場所の石材を転用したようなものだ。あることに慣れると今度はそれ以外への耐性を失ってしまうのだろうか。以前の自分なら、あの男の霊に縛られることなど決して無かった。
「もう一匙。焦らず、ゆっくり飲み込めば宜しいのです。口に含んでいるだけでも少しずつ効いてくるものです」
 セトの咽喉は頑なだったが、侍従は辛抱強く匙を運び続けた。その合計が小さな器一杯分ほどになると、そこまでに掛かった時間は途方もなかったが、侍従は漸く匙を壺に放り込むことができた。
「ああ、良い顔色になられた。もう一度お眠りになると宜しいが、一旦船を降りられるとなお宜しい」
 侍従は、そこの、と黒い男に話し掛けた。
「この船に、野営に耐え得る備えはありますかな」
「道具でしたらそれなりのものが」
「では、この晩は船を泊めて陸でお過ごしになられますよう。近くに、船を着けられる場所は?」
 衛兵が一人確認に向かった。現在地はシェへの支流と下つ国への本流が分かれる僅かに手前、アケトの名残である巨大な中洲を避け本流へ入ろうとしている所である。
「本流に入ってすぐ、東岸が良いでしょう。この位置に中洲がありますから、他の船舶と舳先をぶつけることもありますまい」
 戻ってきた衛兵がそう告げた。彼の判断は、平時において正しく、そしてこの時においては、特別に正しかった。シェへの支流と本流の分岐点、そこは言い換えればクィスを少し行った所であり、もっとはっきりと書くなら、ユギたちが留まるアケタテンの眼前である。
 初めに、五小隊三十人が岸に降りた。どこぞに賊が潜み王に仇なさぬとも限らない。プント特有の刃渡りが長い小刀を光らせ、黒い男たちが辺りを窺う。その様子は、王の船室からも窓を介して見えた。
「今宵の月は明るいな」
 唐突なセトの言葉に、第一小隊長はその意図を理解できなかった。そもそも実際に意図があったかすら定かではない。しかし、あとから考えた時、それは、あったとした方が、自然であった。
「狩りができそうほどに、今宵の月は明るい」
 呟きのさなか、窓の向こう坂の影から兵士が一人現れた。彼は酷く慌て何ごとか叫んでいる。船に残っていたものたちは等しく耳を澄ませ、そして息を呑んだ。
 彼はこう言ったのだ。王座の女たちを、そして死せる王の姿を見付けた。
「第三隊のものが没薬の香りに気付き、不審に思って……王子が抵抗をしておりますが、数の問題もありじき片付くかと」
「そうか。よくやった」
 セトは寝台を降り豹の毛皮に手を伸ばした。薄い夜着の下では頼りなく見えた身体が、威厳と重みに包まれる。
「まだお動きにならない方が」
「大事無い」
 黒い男たちのものとは違う、飾り物のような短刀をセトは腰に佩いた。戦うには不足の、身の上の高貴さを表すためだけのものだ。
「狩りの獲物を拾いに行かねばな。さて、射落とされた鳥はどこに落ちたのだ?」


 伝令役を務めた男が案内役に変わりセトたちを導く。丘を登ったところで、突如姿を現した町に黒い男たちは皆驚きを示したが、セトだけは、それを小さく鼻で笑った。地図にあるだけが町でなく、石に刻まれただけが史実でないことを、賢きヌブトの公は知っている。
「この裏に」
 崩れた壁の残骸を金の靴で転がしながら、セトは穴々から月明かりの射し込む廃屋へ踏み込んだ。清浄な樹脂の匂いが鼻に衝く。没薬と杉脂とヘテデセの匂いが。
 部屋には既に取り押さえられた老シモンと二人の王座の女がいたが、王子たちの姿は見当たらなかった。奥の間から金属のぶつかる音が響いている。そちらにいるのだろう、いる場所が解っているのなら何の問題も無い。セトは新しく駆け付けた兵に奥へ行くよう指示すると、虜囚たちに向かい大仰に、今気付いたと言わんばかりの演技をしてみせた。
「おぉシモン様、かような場所に在らせられたとは。我が大宰相には貴方様をこそと思い定めしを、姿が見えず狼狽しておりましたところ」
「誰がそなたの宰相になるのじゃと? 辞退するに決まっておろう」
 王への礼を尽くさぬ言葉に、黒い男たちが気色ばむ。
「よい、手を出すな。そこなる方は我が大恩ある書記の束ね、ジェフウトのシモン・ムーラン様なるぞ」
 大恩、の発音を、セトは殊更に強調した。実際謀反の夜までシモンはセトの長上であったのだから、恩があることは不思議でない。しかしそれは、セトの言う大恩が長上としての配慮や教えでないことをその場の誰もが悟るような、そんな強調の仕方だった。
「私は都を遷す。この意味の、解らぬ貴方様ではありますまい」
 老人が項垂れる。彼には、大神殿の権勢を嫌い遷都を決めたセトの考えが手に取るように解った。彼もまたかねてよりアメン=ラァの力の広がりを恐れていたのだ。解らぬ筈が無い。大神殿の権勢、それは、本来王が抑え込まねばならぬ事柄だった。そうなるように導くのが、宰相の役目であった。
「それが目的であったのか……」
「何により今日の日が招かれたか、それとて、解らぬ貴方様ではありますまいな」
 老人が一層深く項垂れた。セトは冷ややかな天青石の瞳でそれを一瞥すると、金属音の絶えた奥の間に向かって、ゆったりと歩を進めだした。


「……セト」
 呼ぶ声は、今度こそ夢でなかった。先王によく似たその声は、先王の息子から発せられていた。黒い男に囲まれながらもユギはまだ短刀を手に抵抗の気概を見せている。
「大人しく投降するのだな。そなたのことは、殺さぬぞ?」
 ユギと男たちは間合いを保って睨み合っていたが、セトの微笑がその均衡を崩した。
「お前がっ、どうして!」
 ユギがセトに飛び掛かった。青銅の切っ先が閃く。
 からり、と、小さな音が鳴った。ユギの目は、セトが慌てた風もなく片手を翳したとしか、状況を認識しなかった。いつの間にか二者に割って入っていたプントの小刀が自分の一撃を受け流したのだと気付く前に、ユギの身体は黒い男たちによって床に押さえ付けられた。
「ご苦労。さぁもう一人の王子、我が妻の腹から生まれた子よ。お前も諦めるがいい」
 セトはアンプのユギに向き直った。アンプも短剣を構えてはいたが、背を預けるもの無く大人数の兵を相手にはできない。ただでさえ不利だった状況がどうにもならぬ差になり、彼はふうと息を吐くと短刀を地に捨てた。
「それでよい。私にそなたらを殺させるな」
 ただちにアンプの身体が拘束された。黒い男たちは二人の王子を立たせると、引き摺るようにして部屋を出させた。
 二人の耳に、呪詛のごとき声が聞こえたのはその時であった。
 その声は、死んでしまえ、と言った。自分たちに言っているのかと、先程までの言葉との矛盾にぞっとしつつ振り向いたユギが見たものは、腰に佩いた飾り剣を抜き仮の祭壇を見下ろすセトの姿だった。仮の祭壇、王の遺骸が横たえられたそれを、セトは見下ろしていた。
 タァウイ人らしからぬセトの白い手が、先王アテムの褐色の肌の上を滑る。指が胸の傷に触れ、乾いて脆くなった縁をなぞった。ペレトの初めの、死後数日目。遺体は、まだ、さながら生きているかのようであった。死んでしまえと、セトが繰り返す。
「陛下、陛下、お気を確かに」
 外で黒い男たちの指揮を取っていた第一小隊長が、異常な事態に気付いて部屋へ駆け込んできた。ユギたちは廊下に跳ね飛ばされ、それ以上を見ることはできなかった。部屋には、セトたちだけが残った。
「お気を確かに、よくご覧下さい。それはもう死んでおります」
 第一小隊長は側まで行くともう一度セトに声を掛け、その肩を揺すった。
「あぁ、あぁ、私だ。私が殺したのだ。私が殺してしまった」
「それでよかったのです。それが最善だったのです」
「だが。私はかなしい」
 青い瞳から一筋涙が流れた。褐色の赤い肌の上にそれは落ち、浮き出た腹の筋肉の合間を滑るように流れて傷口に消えた。
「何ごとか故に、私はかなしい」
「気の所為です陛下。気の所為です」
 セトは利き手に持っていた飾り剣を握り直した。辺りを囲む兵士たちに緊張が走る。しかし剣は、兵士たちの不吉な予想とは違って、真っ直ぐに迷い無く、先王アテムの身体に突き立てられた。
「死んでしまえ。私の心を乱すもの。アメミットの餌になってしまえ。声正しからぬもの」
 戦うには不足の小剣も、動かぬものを相手にするには充分であった。
 言葉と行動が何度も繰り返され、十四回目にセトの振るった剣が先王アテムの男の象徴を切り落として、漸く止まった。先王の遺体は見るも無残な様相に成り果てている。切り刻まれた姿に、第一小隊長は思わず顔を背けた。戦場でもこんな惨い死に様を見ることは少ない。意図的に何度も傷付けられた姿は、正しく葬ることさえ困難だろうと思わせた。
「気の所為だ」
「はい、陛下」
「気の所為だ。全て――」
 狂気の色に染まっていた瞳が揺らいだ。ひゅう、とセトの咽喉が鳴る。慌てて抱きかかえた男の腕の中で、セトは嘔吐した。
 男にその感情は理解できない。何故、あのような愚王に対し憎悪以外のものが残るのだ。
「輿を用意せよ! 今宵の寝所へ向かう輿だ。陛下をお乗せする輿の準備を急げ!」
 第一小隊長は声を張り上げて黒い男たちに指示を出した。彼らはよく動く。廃墟に輿が用意されるまでに、セトの樹脂油や嘔吐に汚れた姿を美しく整え、何ごとも無かったかのようにした。されるがまま、セトは清められ、輿に乗せられた。傍らの輿には第一小隊長が乗った。
 屈強な黒い男たちが輿を担ぐ。それは不安定に揺れることもない。
 夜の闇の中だったが、輿は迷うことなく廃墟を離れた。空を見上げ、第一小隊長は今日の月が一際明るかったことに思い巡らせた。月の光が上向き加減のセトの頬を照らす。不思議に白い肌は、月明かりを受けて銀のように輝いていた。
 銀。金よりも希少な、異国の金属。
「第一隊長」
 見惚れそうになっていたところへ声を掛けられ、男はその厳めしい顔を紅潮させた。
「第一隊長、見ろ。持ってきてしまった」
 ついうっかりといった口調でセトが差し出したものに、彼は絶句した。先王アテムの身体の一部をセトは手にしていた。一部。本当に一部だ。残る大部分は廃墟の祭壇に打ち捨ててきている。
「ナイルにでも、流してしまえばよかろうか」
 言いながらセトはそれを亜麻布に包んでいる。流せまい。彼には流せまいと男は黙った。聞こえなかった振りをした。
「ファラオ――」
 月を見上げてセトが呟く。美しく、そして恐ろしい天青石の瞳が、月明かりを反射して闇の中きらきらと輝いていた。


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ケネティ:イチジク。ネフトと異なり現在食べられているイチジクに近いと思われる。
シェ:シェディト(現クロコディロポリス)などがある地域。シェへの支流は本流の西側を流れ、上下エジプトの境付近で巨大な湖になる。
ヘテデセ:銀梅花(ミルテ)。花や油は香りが良く、悪霊払いに使われた。
ジェフウト:地名。ギリシャ語読みヘルモポリス・パルヴァ、現バクリーヤ。下エジプト扇形部中部の都市。
アメミット:冥界の審判で真実の羽と釣り合わなかった心臓を喰らう存在。原作ではシャーディーが従えていた。