セネト・パピルス 6
2008/6/18


 アケタテンでの出来ごとから一月が経った。だが、この一月をどのように過ごしたのか、ユギも、セトも、説明することができない。それは混乱の内に過ぎ去り、二度と戻らぬ一月であった。
 ただ、記録によれば、その間ユギは狭い船室に閉じ込められており、セトはメンネフェルの壁を築くべく測量を行い自ら設計図を引いたということだ。
「ウアセトで御座います」
 記憶が定かとなったのは、セトのメンネフェル行幸が終わり、ナイルを南上してウアセトへ帰り着いたその時からである。季節は本格的な播種期ペレトに移り、河の流れを逆流して吹く風は、昼でも少し肌寒く感じるほどであった。
 船室を出たセトは王に相応しい上等な亜麻の肩掛けを羽織り、黒い男に手を取らせ桟橋に降り立った。その後ろを衛兵に囲まれたユギたちが続く。ユギたちは、丸腰であったが拘束はされておらず、己の足で王宮までの道を歩いた。
「オレたちをどうするつもりだ」
 ユギの吊り上がった瞳がセトを睨み付ける。セトは振り向き、ユギの怒りに燃えた目を見ると、気の無い調子で、どうもせぬ、と答えた。
「どうもせぬ。今まで通り、王子として暮らすがよい。生活の一切は私が保障しよう」
 セトの言葉は、マアトに懸けてその通り行われた。


 ユギたちには警護の名目で黒い男らの監視が付いていたが、宮殿の中にいる限り、彼らが何かしらの干渉をしてくることは無かった。二人の王座の女も、慣例に則りアイシスがアメンの神妻殿に、マナが王妃宮に、居宮を分けられた以外は極めて自由である。
 極めて自由。しかし、それ故に、女には不安があった。
 死んだ王の正妃は神と婚姻を結び直しアメン=ラァの神妻となる。もう何代も前から続けられている慣例だが、ここ数代、アメン=ラァ神殿の力が強大になってからは、それは特別大きな意味を持つことだった。最も大いなる神の妻になるということは、全ての神官の頂点に立つと同義である。
 メンネフェル遷都――それが神殿の力を削ぐためのものだとしたら、神妻の身はこの先どうなるのだろう? アメン=ラァと共に、この地に棄ててゆかれるのではないか? 棄てる算段だからこそ、セトは自分たちに無関心なのでは?
 アイシスが不安だったのは、棄てられることそのものではなかった。神と神妻が揃って棄てられた時、ウアセトの神官たちがどう出るか。彼女の不安はそこにあり、そして、その不安が彼女に葦の筆を取らせた。彼女が恐れたのはセトではなかった。

    新王陛下に忠言。
    アメン=ラァの神妻を邪険にすることなかれ。
    大神殿の備えは王が思うよりも多大。
    我が身を反逆の旗印にしてくれ給うな。
    我が息子にはよくよく教育を。

 アイシスはメフウ紙にそうしたためると赤い紐で封印をし、王に届けるよう言って侍女にそれを渡した。
「これを陛下に?」
「ええ。お願いね」
 神妻になって初めて、彼女はアメン=ラァの内部を知ったのだ。今や王をも凌ぐ力の内部。神殿を脅威と考えるセトやシモンでさえ想像していないだろうほどの力に、彼女は気が付いた。
 アイシスは愚かではなかった。王が神妻を手放せば、神妻を傀儡にして信者を集め王家に背く。神殿の持つ力はそれが可能なほどのものであることに勘付き、メンネフェル遷都を引き金にせぬようセトへの忠告を送ろうとした。
 だが、彼女は二つの過ちを犯した。一つは、文面を古典的聖刻文字で書いたことである。彼女がその文字を選んだのは、プントの男たちによる盗み読みを警戒してのことだった。宮殿域においてはより読める人間が少ない諸国共通語の楔形文字も彼女は書くことができたが、タァウイ人たる王に当てた手紙であること、共通語は読めるプント人がいるかもしれないこと、これらを思って古典的聖刻文字を使ったのだ。
 過ちの二つ目は、侍女に手紙を預けたことであった。
 彼女が警戒すべきは黒い男たちではなく、赤い肌の密偵だったのだ。密偵と言うのは大袈裟かもしれない。宮殿域には、アメン=ラァの息の掛かったものが数え切れぬほどいた。それだけのことである。
 上位の神官ならば古典的聖刻文字を読むくらい容易くしてのける。彼女の手紙が、セトの許へ届くことはなかった。


 セトが読んだのは、別の手紙であった。
「第一隊長」
 メフウ紙でなく粘土板に書き付けられたそれは、遥か遠く紅海の果てから運ばれてきたものだ。美醜よりもまず整然とした印象を受ける書き方で、楔形文字が記されている。既に乾いて硬くなっている板を指先で叩き、セトは黒い男を呼び寄せた。
「この字、そなたには見覚えがあるものと思うがどうだ?」
 男が玉座へ近付き、畏まって粘土板を覗き込む。
「おお、これは」
 粘土板は黒い男たちの出身地プントからのものだった。文字は、プント王により手ずから刻まれていた。

    比類なきタァウイの新王陛下に乳香と没薬の国プントの王が申し上げる。

 文面は定型の挨拶から始まっていた。乳香と没薬の国という言葉の通り交易で大きくなったプントには楔形文字を解するものも多いが、力によって大きくなったタァウイでは、その文字はまだ数名のものがようやっと読めるだけの段階である。しかしセトは詰まることなくそれを読み上げ、辺りの黒い男たちに向かって悪戯っぽく流し目をくれた。

    まずは、御即位おめでとう存じます。
    我が地を旅立った二百十六名の黒蛇たちがお役に立ったようで幸い。

 続けて男たちのことを頼む言葉と互いの国の友好を願う言葉が並ぶ。黒蛇たちにタァウイでの良き暮らしを。海上貿易の際には是非プントを思い出して欲しい。セトが頷きながら読み進め男たちが神妙に聞く中、プント王からの書簡はこう締め括られた。

    御世とこしえならんことを。いずれは、あいまみえたし。

 文末には大蛇を表す刻印が打たれていた。文中にも黒蛇の単語が出てきていたが、下つ国の王権の象徴であるコブラを除きあらゆる蛇を悪しきものと扱うタァウイと異なり、プントは主神に蛇を据える国である。蛇に例えられるということは、喜ばしき名誉であった。それ故王の印章も蛇なのだ。
「いずれは、か。会うてみたいものよ、南の大蛇に」
 セトとプント王の願いは、のちに、皮肉な形で実現する。されどまだこの時は、誰一人、それを知るものはなかった。
 この時あったのは、ただ噂話ばかりである。


「なぁ相棒、知ってるか。近々遷都があるらしいぜ」
 ユギは立ち聞きした女官の噂話を、何も考えず口に出した。
「遷都ってどこへ? 誰に聞いたの」
「厨房で女官たちが話してたんだ。行き先は確か……メンネフェルだったかな」
 彼女らはアメン=ラァの手のものであった。アイシスの書簡を手に入れた大神殿は、その書の意味するところを探り、先の行幸が遷都のための下準備であったところまで嗅ぎ付けたのだ。
「あいつ、何がしたいんだろうな」
「あいつって」
「セトさ。折角の栄えた都を棄ててメンネフェルだなんて馬鹿げてる。あそこはこの間のアケトで町も村も押し流されたばかりじゃないか」
 ユギは床に敷いたアナトリア絨毯の上に寝転がって頬を膨らませた。
 先のアケトは常より水位の高い『ハピの怠けアケト』だったのだ。高き怠けアケトになった年は氾濫後の水捌けも悪い。ペレトに入ってからもセトの行幸船が運航可能だったのはそのためだ。河神ハピが怠けず水位を調節した年なら、ペレトに入ってすぐ水位が下がり始め、大型の船がナイルに浮かぶことはできなくなる。
 ペレトだというのに大掛かりな行幸船が五隻。即座に飢饉と結び付く低き怠けアケトよりは幾らかましだが、メンネフェルや下流の町々は痛手を被り遷都どころの話ではない筈だ。
「それに、オレたちのことも。さっき廊下で擦れ違った時、あいつがなんて言ったと思う」
「酷いこと言われたの?」
「いいや。聖刻文字の書き取りは進んでいるか、だと! あいつは本当に何がしたいんだ」
 聖刻文字と聞いてアンプも顔を顰めた。位あるものの文字。当然王子としては覚えなければならない文字だが、二人とも、その科目は不得手である。
「あんなもの代筆書記にでも書かせればいいんだ。だいたい、オレに覚えさせてどうする気なんだ? オレはあいつに消された王の息子だぞ」
「跡継ぎがいないから代わりに……とか」
 自分で言っておいて、それはないかとアンプは否定した。
「いないなら作ればいいだけだもんね」
「それ以前に、跡継ぎは相棒だろ。ナムだっている」
「ボクは今更勉強したってもう無理だよー。それに、ボクもナムもどうせ血は繋がってないし」
 アンプは、さらりと、公然の秘密を口にした。三人の王子は皆違う腹から生まれた兄弟――アテム・アメン=ヘテプの息子――それは宮殿域における暗黙の了解である。
「案外、痴情の縺れだったりして。今回のこと」
「まさか。セトは叔母様には指一本触れちゃいないって噂だぞ」
 二人は軽口を弾ませた。二人とも、先王の仇をと思う気持ちを失ったのではない。だがセトの態度があまりにもこれまで通りで、少なくともこうして誰かと話している時分には、深刻になることをつい忘れてしまうのだ。
「それにしたって不思議なのは母上と叔母様の仲がいいことだな」
「政略は政略、私情は私情って、割り切ってるんじゃないの?」
 王族や貴族にはあり得ることだ。かもな、とユギは頷いた。王家の結婚などその程度のものだ。だから後宮の女衆や宦官が存在する。
「そういえばアメン=ラァの奴らが話してたんだが」
 ユギは一連の騒動が起こる前に聞いた話を思い出して、反動を付けがばりと身を起こした。
「先の大神官が死んだ折、セトと父上が少し揉めたらしい」
「揉めた? どうして?」
「父上が大神官職をセトじゃなくヘイシーンにやったからさ。先の大神官が死んだ頃といえば、セトの発言力はもう相当強くなってたからな。自分が任命されると思ってたんだろ」
 まあこれも噂だけど、とユギが付け加えた。
 噂、噂、噂。ユギたちは耳でそれを聞き、心臓を通過させずに頭へ入れた。死後の裁きでマアトに適うか量られる器官、心臓を、通過させずに。この噂の表すことについて、彼らは何も思いを寄せなかった。
 少し考えれば解りそうなものだ。何故ウアセトを棄てる必要があるのか。何故今ウアセトを、ウアセトの土地神アメン=ラァを棄てようとしているセトが、大神官職を得たがったか。四者の婚姻の不自然さも、セトに子の無いわけも、或いは気付けただろうに。
 彼らにとって、真実とは誰かが教えてくれるものだった。語ることのできぬ真実、わけは様々にせよ、それがあると思いもしないのだ。アケタテンでその一例を――歴史から抹消されたが故に無かったこととして語らなければならない、即ち語ることのできない真実を――目の当たりにしたというのに。
 何も知らぬとは憐れ。アケタテンの女はこう言ったが、思うに憐れだけでは足りぬ。何も知らぬとは、憐れ、そして罪である。


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メフウ紙:パピルスのこと。
(古典的)聖刻文字:所謂ヒエログリフ。この時代、通常使用される文字は簡易な崩し文字。
諸国共通語の楔形文字:古代エジプトから見た諸国=ナイル・メソポタミア文明域。楔形文字はメソポタミア地方発。
宦官:古代エジプトの宦官は半切除型(玉無し棒あり)だったので女性を相手にすることができ、後宮や貴族の奥方の安全な遊び相手となることが間々あった。