セネト・パピルス 7
2008/6/21


 ウアセト帰還から更に一月近く、播種期ペレトの第二月半ば。
「噂は静まりそうにない、か」
 セトは玉座の上で痛む頭を押さえねばならなかった。
 メンネフェル遷都の噂が、ウアセトの町を渦巻いている。そしてあの悪意ある俗歌、新王の二つ名、太陽の下に声正しきものメン・マアト=ラァを、穢すあの歌も、方々で歌い踊られやむことが無い。国王自ら接見の窓に身を現し祭儀を執り行ったりと、手は尽くしたが、これ以上遷都を隠しおおせることは不可能だろうと思われた。
「メンネフェルの進み具合はどうだ」
「仰せになられました丘周りの壁ですが、こちらは収穫期シェムウには完成の見込みです。壁の中となりましても、領地取り上げとなった前メンネフェル侯の館がアケトの難を逃れ残っておりますので、多少の不便を忍ばれますなら移り住むことはできるでしょうが……」
 答えたのは第一小隊長だった。彼は今や宰相にも近い立場を得ている。
「時期が悪う御座います。壁の建設をシェムウの内に終わらせるため、今年のペレトは棄てたのです。壁の外の耕作地に人はおらず、働き手を養う程度は前侯の穀倉を開ければ良いとしても、多数の人間が移り住めば飢饉が起きます」
 男の答を聞いて、セトが額に手をやった。
「ウアセトの国庫から持って行くことはできないか?」
「水位も随分下がっておりますれば」
 水位が下がれば大型船は使えない。かといって陸路を驢馬に引かすのでは時間が掛かり過ぎる。
「何か良い手立ては――」
 無作為に辺りを見回したセトの目に、王宮の壁を飾る一文字の聖刻が飛び込んだ。ほんの二百年かそこら前まで存在しなかったその文字は、草を食み砂を駆ける異国の動物を表している。
「馬。馬だ。アシュの本隊は今どこにいる? 連絡を取れ!」
 タァウイには、気候が合わぬこともあり荷運びに使えるだけの馬が育っていない。だがチェヘヌゥ砂漠のオアシス帯に暮らすアシュ族や、北東フェニク、レテヌに草を求めて行き来する遊牧民の馬は強い。彼らの力を借りることができれば、陸路を取ることも可能だ。
 セトは紙と筆を用意させると、アシュの族長に向けて少し崩した神官文字で急ぎの手紙を書いた。
「墨が乾いたらすぐに持っていってくれ。伝令馬を使って構わぬ。一刻でも早く、頼んだぞ」
 計画の狂いと再度の協力要請を告げるセトのメフウ紙は、二日を掛けてハルガ・オアシスに駐留していたアシュの女主ネケトネチェルへ届けられた。ネケトネチェルは要請を読むや否や族を引き連れウアセトに向かい、彼女の強い馬はその道程を一日で駆けた。
「どこから漏れたのです。遷都の話はプントの方々にしかお話にならないと仰っていたのに」
「解らぬ」
 やってきた途端発せられたネケトネチェルの問いに、セトは首を振った。
「私は、彼らが裏切ったとは思わない。他に知るものといえば老宰相のシモンと王座の女たちだが……」
「いつお話に?」
「捕らえた折に少し触れた程度だ。しかし奴らは馬鹿ではない。好んで国を亡ぼすだろうか」
 ネケトネチェルはセト同様に白い顔を俯かせた。これも同様に青い瞳が思索の色に染まる。彼女と彼女の族もまた、異国の民であった。セトに赤い肌の協力者がいないわけではない。だがセトは、警護に関しては黒い男たち、策謀に関してはこの白い女と、頼る相手を決めている。
「誰が愚かだったのかは解りません。けれどこの地にいる限り何度でも同じ過ちが繰り返されるでしょう。それは確かです」
 解っているとセトは頷いた。ネケトネチェルが微笑む。
「貴方は神を越えねばなりません。そのためにでしたら、我が族の馬三千騎、いかようにでもお使い下さいませ」
 三千騎。その馬がどれだけの物資を運べるか、ただちに計算された。物資は、無論穀物だけではない。金や銀、上等の香料や香木、王家の財も置いていくわけにはいかない。置いていくなど、アメン=ラァにみすみす捧げるようなものだ。
「足りぬな。食を優先すれば財が、財を優先すれば食が運べぬ」
 疲れ果てたようなセトの声が王の間に響く。沈黙が続き、皆が諦めかけたその時、ネケトネチェルが、では、と静寂を打ち破った。
「では、この度は財をお選びなさいませ」
 それでは飢饉が起きる。黒い男たちの一人が叫んだ。
「大丈夫です。今年お棄てになったメンネフェルの耕作地。次のアケトまでその地をお貸し下されば、別な所から都を養うに充分な食物を届けてご覧にいれましょう」
 ネケトネチェルの声は自信に満ち溢れていた。次のアケトまで、ほぼ半年である。その間耕されること無く、種も撒かれず、草木の伸びるがまま放り出される予定だったメンネフェルの耕作地。そんなものを借りてどうするつもりなのか、セトたちには想像が付かなかった。永久にくれと言うのならまだ解ろうものを。だが、それで国都の食を購えるのなら願っても無いことだ。
「壁の外の耕作地……雑草ひしめく荒れ地と化しているが、それで良いなら次のアケトまでをそなたに任せる」
「構いません。ことは一刻を急くのでしたね、すぐさま準備に掛かりましょう」
 国庫から運び出された王家の財が、馬の曳く荷車に積み込まれる。アシュの女主ネケトネチェルは、用意が整うと同時に、彼女の族と馬を率いて出立した。
「次はメンネフェルでお会いしましょう」
 去り際に彼女が残した言葉を実現するには、セトたちもウアセトを出、メンネフェルへ向かわなければならない。遷都。それがとうとう現実になる。
「宣旨を出さなければな」
 ウアセトの民衆に対しては王宮前の広場に布告を張り出し、他州へは州侯に当て使いをやる必要がある。神殿には――神殿にも、使いを出さなければならない。
「大神殿への使いを出すのは気が重い」
 万が一宣旨書を突き返されでもしたら王の面目は丸潰れだ。アメン=ラァとの関係が悪化するだけならまだしも、民に知れては良くない。
「使いの任は誰に?」
「私が直接とも思ったのだが」
 万が一の際に言い争いにならない自信が無い。セトが言うと、黒い男たちからもやめるべきですという声が上がった。王の権威を易々と貶めるべきではない。
「ナムにでも行かせるか。アメン=ラァの奴らの気に入っているようだからな」
 セトは名実共に養子である養子の名を口に出した。実母の身分は低いが、王子は王子である。気に入りと言う点を除いても、ただ追い返されはしないだろう。
 黒い男が一人ナムを呼びに行き、待つ間にセトは聖刻文字、神官文字、行政文字と、格の異なる三種の文字で一枚ずつ、宣旨書を書き上げた。
「聖刻文字を大神殿へ、残り二つは書記に渡し必要なだけ写しを取らせよ」
 内容はいずれも同じである。短く、簡潔な、それでいて様式に則った書き方でそれは記された。

    両冠の主、上下二国の偉大なる王、最も力強き神の化身、太陽の下に声正しき王セトが、その治世第十六年ペレト第二月第二週第四日にのたまう言葉を聞け。
    王は都を遷すことを良しとし、朽ちることなく美しき町メンネフェルを新たな国都として定めた。
    新たな都は今後二度と水に沈まず繁栄することを約束される。
    この約束は、新都メンネフェルに築かれし壁によって、永劫に守られるだろう。
    王はかく定め、定めし事柄の全てが、タァウイ全土へ速やかに伝わるよう命ずる。

 噂であった遷都が公になり、王宮広場で読み上げられた宣旨にウアセトの民は不満を漏らしたが、最大の懸念であったアメン=ラァ大神殿は、決定に対しただ静かであった。
 内容を聞くと予測していたと言わんばかりにすぐさま大神官の下まで案内された。ナムの報告を受け、セトも、黒い男たちも、王の間にいた全員が首を傾げる。
「ヘイシーン様も、書簡を広げたあとは使いご苦労と言っただけで、質疑一つ無かった」
「それは、また……不気味なほど物分かりの良いこと」
「何ごとやあるのかもしれませぬ」
 第一小隊長が低く呟いた。何ごとも無いとは、初めから思っていないが、それにしたって不審である。
「王子たちの身柄を早めに確保しておけ」
 セトの命に男たちが頷いた。
「いつ出られますか」
 今からでも。
 言い掛けて、開きかけた唇もそのままにセトは斜め上へ視線を逸らせた。何かを思い出す時の人の仕種。斜め上、そこに、セトはナイルの向こう西岸を見ていた。
「明日に」
 セトはそう言い直した。
「立つ前に寄る所があるのでな」
 玉座から降り、セトは扉に向かって歩き出した。身辺警護の男たちがあとを追う。セトは振り返ると、彼らと自分の間に手を翳した。
「よい。私一人でゆける場所だ。そなたらには明日の準備を頼む」
 男たちは躊躇いながらも引き下がった。彼らの王は決して考え無しの無茶をする人物ではない。王となったものは、王となったその日から、国家とそこに住まう民らを背負い、その安泰のために尽くさねばならない。それを知っている。身を危険に晒し、国家に更なる混乱を呼ぶ真似などする筈が無い。
 黒い男たちに目送され、セトは王の間を立ち去った。ウアセト最後の晩をどこで過ごしたか、彼は最後まで言わなかった。


 何隻もの小型の船が、翌朝早くに準備された。遷都の噂立ち始めた折より一定の用意が進められていたこともあり、然したる混乱も無く旅立つものたちの乗船は済んだ。
 ウアセトを離れるのはセトと黒い男たちだけではない。長らくセト付きであった侍従たちに侍女たち、かつてはセトの私兵団であった現正規軍、彼らは皆セトに付いて行くことを望み、その願いを叶えられた。またアメンの神妻こそ宗教施設たる神妻殿を出てこなかったが、三人の王子たちと教育係のシモン、セトの形式上の正妃は、ナムは望んで、他は望むとも望まぬとも言う機会の無いまま、船に乗せられている。
 大船団であった。小型船とはいえ、数が揃えば圧倒的である。ウアセトの民衆はそれを複雑な心境で見送った。中にはもう新都への移住を計画しているものもいたようだが、大半は今後どうすべきかを決めあぐねていた時分だろう。
 船がナイルの流れに乗ると、セトは甲板に姿を現した。逆風が白い頬を撫でる。ナイルの上は、常にそのような風が吹いているのだった。帆を張れば流れに逆らって南上することができる。今は北下するため畳まれているその帆に、正確には帆を括り付けている帆柱に、セトは背中を預けた。
 逆風を受けて進む船は、ゆっくりとウアセトから遠ざかる。視界からなかなか消えない町をセトは暫く見詰めていた。
「ペレトの河風は身体に悪う御座います」
 いつの間にか、一人の侍女が近付いてきていた。赤い肌の女だった。彼女が差し出した亜麻の外套をセトは羽織った。
「去るとなると、不思議に未練が湧いてくる」
 セトが言うと、女は少し困ったように町を見た。百門の町、栄えた都。良きも悪きも様々なことがそこで起きた。
「……長くお過ごしになられた場所であらせられますから」
 外套の裾が風にはためいた。
「いずこをご覧になっていたのですか」
 王宮か、神殿か、あるいは最後に立った桟橋か。問うた女に、セトは、西岸を、と返した。
 西岸を。死者の魂が逝くというその場所を。
 女は一礼をして船室に戻って行った。甲板にはセト一人しか残っていない。過ぎにし日々へ別れを告げる王を邪魔せぬように、男も女も船内に篭っている。
「マアトよ見そなわせ」
 セトが小さく呟いた。
 女神マアトよ見そなわせ。私が行ったことを、これから行うことを。見そなわせ、私の来し方行く末を。この国の行き着く先を、マアトよ見そなわせ。
 セトは胸の上を手で押さえた。心臓が脈打ち鼓動を響かせている。
 ウアセトの町が、随分小さくなっていた。ぼんやりと、薄織りの面布を介しているように、町全体が白んでいる。セトは西岸を見て、それから町を見た。
 遠ざかる町が、次第に空へ溶け込み、視界から消えて無くなる。砂と空とナイルだけが、セトの眼差しに晒され続けていた。
 突風にセトが目を瞑る。再び目を開けた時、ウアセトがどこにあったのか、もうセトには判らなかった。
 メンネフェルは遠い。セトは船の進む先を一瞥すると、亜麻の外套を翻して、静かに船内への階段を降りていった。


第一章 ウアセト 終


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シェムウ:収穫期のこと。エジプトにおける乾期でもある。
フェニク:エジプト北東、別称フェニキア、現ヨルダン付近のこと。
レテヌ:エジプト北東、現レバノン付近のこと。
神官文字:所謂ヒエラティック。この話では特に宗教文書や文学文書に使われたもののこと。
ハルガ・オアシス:ウアセトとほぼ同緯度にある、西方のオアシス。
ネケトネチェル:「神は力強い」の意。「神は力強い」をアラビア語にするとジブリール。
行政文字:所謂ヒエラティックの一種で、この時代では最も簡易な文字。