セネト・パピルス 8
2008/8/13


第二章 水際の戦い


 波のあわいに葦の小舟が漂っている。今にも崩れそうな、脆い、葦の茎を編んだだけの舟。
 舟には、若い男女が乗っていた。男が櫂で水を掻き、女が辺りに視線を巡らせている。時は夜、ナイルは底抜けに黒く、所々に浮き草の塊を揺らめかせながら、北へ向かって流れていた。
 男女は、今朝ウアセトを立ったものたちであった。彼らの前方には同じくウアセトよりの船団が流れに身を任せている。充分に暗い――二人は頷き合うと、船々の間にその細い葦舟を滑り込ませた。


 その夜、二人のユギは与えられた船室をひそりと抜け出した。
「相棒、落ちるなよ」
 ユギは船体に打ち付けられた青銅の釘の頭に足を掛けながら、たった今自分が出てきた窓を振り返った。そこではアンプが窓枠を踏み台に半身を外へ躍らせているところである。下はペレトの夜の冷たいナイル、落ちれば命にも関わる。二人は船の胴体を飾る浮き彫りの文字にしがみ付きながら、慎重に隣の窓へと渡っていった。
 ユギが窓の板に耳を付け、船室の様子を窺う。何も聞こえない。ユギたちの部屋の中には見張りがいなかった。いたのは部屋の外、扉の前にだけだ。この部屋もきっとそうなのだろう。
「叔母様」
 ユギが窓板を叩く。数秒して、板は内側から持ち上がり窓が開けられた。
「えっ、二人とも、何でこんな場所から」
 マナは下を見て、そこに廊下が無くナイルが見えていることを確かめると、慌ててユギの手を掴んだ。
「大丈夫、大丈夫です。シモンの部屋がどこか知りませんか」
「シモン様の部屋なら、私の部屋の向かい、この裏側だけど」
 裏側か。ユギは眉を寄せた。裏側となると移動が大変だな。どうしたものか。
「相棒」
 真横に追い付いていたアンプに、ユギは自分のいた場所を譲った。マナが、今度はアンプの手を掴む。
「相棒は叔母様と先に。シモンの所へはオレが行く」
「分かった。気を付けてね、すぐに裏へ回してもらうから」
 ユギが新たな飾り板に足を掛けた。待って、とマナがそれを引き止める。
「待って、これは、どういうことなの? 二人とも、何をしようとしてるの?」
 マナの目の端に、向かってくる粗末な葦の小舟が映った。ユギがそれに向かって腕を降る。小舟は速度を増した。
「逃げるんだよ。あれはもう一人のボクの仲間なんだ」
 マナは絶句した。しかし彼女は、アイシスに比べほんの少し、愚かであった。彼女はこの時、謀反の夜から数えて七十日目が、まだ訪れていないことに気付いてしまったのだ。


 アンプとマナが船体を伝って降りていくのを横目に、ユギはシモンの部屋目掛けて板渡りを再開した。船尾の近くで一旦足場が無くなるのはいかにすべきか。腕の力だけで裏側まで回れるだろうか。反動を付けて飛べばいけるかもしれないが――
 どうせ失敗して落ちてもすぐに舟が助けにくるだろう。ままよ、とユギは羽目板を蹴った。
 浮遊感。右足が船尾を通り越したのを感じて、ユギは腕を突っ張った。身体が斜めになり、腰が角ばった何かにぶつかる。落ちる、とユギが思ったその時、足先が尖ったものに引っ掛かった。
 恐る恐る下を見て、足が飾り板の角を捕らえているのにユギはほっと息を吐いた。腕と重心を動かし、完全にそちらの板へ移り渡る。あとは先程までと同じだ。この板を足場に浮き彫りを手摺に、シモンの部屋まで行けばいい。
 マナの部屋でしたように、ユギは耳を澄ませてからシモンを呼び窓板を叩いた。どたどたと足音がして板が持ち上げられる。
「お、王子。何故そんな所にいるのです」
「ここから逃げるぞシモン。セトの言いなりになどなるものか」
 下に舟があると言ってユギが差し伸べた手を、しかしシモンは取らなかった。
「王子。王子、それは無謀に過ぎますぞ。王子がセトを悪しく思うのは道理。されど今ここを出るのは、とても得策とは」
 シモンは、二つの考えの下で迷っていた。王座を、正しき流れのものに継がせたい。だが、今までのアメン=ヘテプのやり方ではタァウイそのものが危うい。ユギか、セトか、真に両冠の主になるべきはどちらか?
 恐らくこの先もセトが自身の子を成すことはあるまい。それならば、セトが立て直したあとのタァウイをユギが譲り受ければ良いのではないか? この何も知らぬ子供には、それまでの間によくよくタァウイの情勢を教えて聞かせる。それで良いのではなかろうか?
 シモンは考え、しかしそれを口にしてユギを思いとどまらせることはできなかった。シモンの目には、既に葦舟に乗ったアンプとマナの姿が見えていた。
「何という……おお、何という」
 ユギに付いて、シモンは窓から出、葦舟に乗り移った。身軽な老人は、アンプやマナよりもずっと速く船体を降りた。
「ああマナ、お前は、何故。今出て行くのは得策でないと、分からぬわけでもあるまいに」
 問い掛けにマナはごめんなさいと謝った。己の判断が謝っていることには、気付いているのだった。
「でも、どうしても、ファラオのことが気になって――アケタテンで、ずっとあのままだったらと思ったら――」
 シモンが絶句する番だった。
 これが王権を護るものの言葉とは。王座の女の言葉とは。タァウイの国よりも既に死せる男への情を重んじ、平気でその身を危険に晒す。これが、本来誰よりも国と民に対して責任を追うべき王座の女の態度だなど。
 なんたることだ、正しき流れの、最も高きところにいる王座の女ですら、かように愚かなるとは。
 シモンは絶句したまま今後を思った。逃げるとは、誰の目を避けどこへ行くことを言うのだ。セトの許を去ったと知れば、アメン=ラァのものどもは、必ず王子たちを利用しにくるだろう。そうだ、アメン=ラァの目を避けなければならない。だがどうやって。それをしてのける力はどこにも無い。
 事態は、最も悪いことになった。
「おお、老いぼれの考えの鈍さよ。若人の考えの浅はかさよ」
 シモンは口の中でそう呟いた。王子たちが自分に何の相談も無くこのような軽はずみな行動に出るとは、思っていなかった。多少なりとも王子たちが遷都の意味に考え巡らせアメン=ラァの邪悪さに思い当たっていると、シモンは信じていた。
 若者というのは得てして浅はかである。老人は常々それを肝に銘じていた。だが少し、ユギたちの行いはシモンの想像を超えていたのだ。もっとはっきりと言っておくべきだった。分かっているだろうなどと、思い込まずに。
 シモンの後悔は尽きなかった。


 黙り込んだシモンを余所に、ユギと葦舟を漕いできた二人の男女はささめき声で再会を喜び合った。再会を。そう、二人の男女はユギのウアセト城下の仲間であった。
「ジョーノ君、ネフト、手筈通りだ。巧くやってくれた」
 手筈、と、ユギは言った。ユギはセトによってウアセトに連れ帰られてから、たった一度だけ城下へ赴いていた。抜け出すことに慣れていないアンプたちのためその時一人で逃げることはしなかったのだが、遷都の噂が蔓延しだしたあとであり、もし遷都となればその時にはと、この日の計画を立てていたのだ。
「本当に、ユギが無事で良かったわ。きっと大丈夫だと言っていたけど、今日まで生きた心地がしなかったもの」
「心配を掛けた」
 ユギは微笑み、それから、そうだと手を打った。
「紹介がまだだったな。相棒、もう二人と話をしたか?」
「ううん、まだ。舟を回したりで忙しかったから。そりゃ、二言三言は話したけど」
 ユギに話を振られて、アンプはマナに向けていた顔をユギたちの方へ向けた。その顔を見てジョーノとネフトがあっと驚く。先程船の影に入っていた時は分からなかったが、星の光の下で見ると、ユギとアンプは双子のようであった。
「そっくりだな。違うのは目許だけか?」
 ユギは吊り目、アンプは下がり目。そこだけは母譲りに生まれついたのだ。他はどこも父に似ている。同じ父を持つ二人は、顔を見合わせて互いの顔を確かめた。
「目許だけではないかな? 髪型も少し」
 それは正確には地毛でなく鬘の部分の話だったが、金糸を束ねた飾りものに触れて、もう一人のボクの方がお洒落だとアンプは笑った。
「もう一人の?」
「あ、そうか。ええと、ボクたち、名前が同じなんだ」
 ジュ=グ=イ。名前らしく縮めて呼ぶとユギ。永遠なる二つの王座という意味の名を、ユギ――アンプではなくホルサイセの方の――が改めて発音した。
「顔も名前も同じ。ややこしいだろ」
「でも似合ってるわ。そっくりな二人の王子様と二つの王座。とても仲が良さそうよ」
 ネフトはそう言って、でもどう呼べばいいのかしらと口許に手を当てて首を傾げた。あだ名は無いのかとジョーノも問う。
「一の王子と二の王子、なんかならあるんだが……町中で呼べないだろうし」
「ホルサイセとアンプとか。でもユギでいいよ。ややこしいのなんか慣れっこだもの。適当に、あっちのとかこっちのとか、背の高い方とか低い方とか、必要な時だけ形容詞でも付けてくれたら」
 背は判り難いんじゃないかとユギが口を挟んだ。アンプは自分の方が背の低いのを、気にしているにしては気軽に、いつも言うのだが、その差はアンプが思うほど開いていない。二人は体格も良く似ていた。ただ僅かにユギの方が筋肉質である。
「それじゃあ、そうだな、下がり目のユギ。オレはジョーノ、こっちはネフト。宜しくな」
「こっちこそ。宜しくね、二人とも」
 アンプが二人ともと一度ずつてのひらを交わらせる。握手が終わると、ジョーノは後ろに置いてあった予備の櫂を取り、ユギに向かって放り投げた。
「ほら、お前も漕げよ」
「あ、ああ」
 池に船を浮かべるのは貴族の間でも流行りの娯楽だ。身体を動かすのが好きなユギは、率先して舵取りをしたこともある。受け取った櫂を水にさし、力強く流れに漕ぎ出した。
「それで、どこまで行くんだ?」
 ジョーノの言葉にユギはマナとシモンを見、それからアケタテンへと答えた。
「最初はアケタテンへ。そのあとは扇状地まで出て沼地のどこかに」
「沼地か。それならデプかザウか、あっちの側がいいんじゃねぇか」
 ジョーノが扇状地の中央から少し西寄りに位置する二つの町の名前を挙げた。デプとザウ、その二つの町の名前を、ユギは北との交易地として覚えている。
「確かに、交易地なら新参者がいるからと注目されることも無い」
「だろ。それに、どっちも女神様の御許の町だからな」
 デプはウアジェト、ザウはネイト、女神の神殿の裏には必ずもう一つの神殿がある。そう、イティにあったような神殿が。あの雑多とした空間は、身を隠し情報を集めるには最適なのだ。
「けど、取り敢えず最初はアケタテンだっけ? それはどの辺りにあるんだ?」
 地図に無い滅びた町を、ジョーノやネフトは知らないようだった。ユギたちでさえつい先日まで知らなかったのだ。無理は無い。
「シェへの支流と本流が分かれる少し先、本流側の東岸だ」
「だったら、夜通し漕げば明日の日中には着くぜ」
 舟には若い男が三人いる。交替で休みながら漕げばいい。
「のろまな船団なんか、置いてけぼりにしてやろう」
 細い葦舟が船々の合い間をすり抜け、広いナイルの眺めへ出る。星々が見下ろす中、それぞれの思惑を乗せて、小舟は黒い水面を北下していった。


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ジュ=グ=イ:正しくは「dj-g-y」で分解して発音すると片仮名にはならない。くっ付けるとユギと読めんこともない、というこじ付け設定。
デプ:地名。別称ペルウアジェト、現ブート付近。下エジプト扇形部中央西寄りの都市。
ザウ:地名。ギリシャ語読みサイス、現サ・エル・ハガラ。下エジプト扇形部中央西寄り、デプの南方の都市。