セネト・パピルス 9
2008/9/5


「ユギ、ユギ起きろよ」
 身体を揺すられてユギは目を覚ました。交替からどれくらい経っただろう。まだ少し眠い。もう暫くは寝ていられると思っていたのに、時間を計り間違えたんじゃないか。
「ユギ、寝惚けるなって。着いたぞ、ここだろ」
 うっすらと開いた瞼の隙間から、強烈な陽光が射し込んできた。
 瞬きをして、ユギは起き上がった。狭いところに丸まってい寝た所為で節々が痛い。ばきばきと関節を鳴らしながら辺りを見回す。ナイルの分岐点を通り過ぎていると認めると、ユギは葦舟がぐらつくほど盛大に、東岸を向いて身体を捻った。
「起きたか? この辺なんだろ、どこに着けりゃいいんだ?」
「あ、ああ、そこの、葦原の辺りに」
 アケタテンの空は快晴であった。尤も、タァウイの空が快晴以外であることなど滅多と無い。他の空模様といえば、時折砂漠の果てや荒廃した禿山の谷に嵐が訪れる程度である。だから、その日の天気は至っていつも通りに過ぎなかった。
 小舟を葦原に隠し、ユギたちは黒い土の上に降り立った。以前来た時と変わらず、緩い坂を上がった影に廃墟は存在している。
「こんな所に町があったんだな」
「でも誰も住んでないみたい。町並みは綺麗なままなのに、何があったのかしら」
 ネフトの言う通り、アケタテンの町並みは、荒らされた様子も無く綺麗なのだった。建物は時の流れに朽ちたのであって、ここで何かあったとも見えない。
「遷都だ」
 ユギは短く答えた。
「ここはかつて国都だった、らしい」
 口にして、ユギは背筋の寒くなるのを感じた。遷都。ウアセトも、いずれはこうなるのかもしれない。生まれ育った、あの思い出深き町。廃墟になどしたくはないが。

 ――ご覧下され、この地は廃墟、ウアセトは百門の都と、マアトがどちらを認めたかは明白ではありませんか――

 ユギはシモンの言葉を思い出した。ウアセトと、メンネフェルと、マアトはどちらを認めるだろうか。神の御心はどちらに付くだろうか。
 まこと、ユギの考えは古いアメン=ヘテプそのものであった。神の意思が、ユギの前にその大きな身体を横たえている。王のものである筈の国を、神が治めている。神はただの傍観者であり、地上において真に何かを示すことなど無いと、まだ解らずにいる。
 ウアセトとメンネフェル、選ぶのは神ではない。人が選び、人に選ばせるのだ。
「ここに、何があるの?」
 ネフトが明るく問うた。ユギとアンプが逡巡し、決まり悪げに視線を交わしたあと、答えるのはアンプの役目になった。
「ミイラ、かな。作り掛けの」
 ネフトが唇を押さえる。
「ごめんなさい、気付かなくて」
「いいんだ、言わなかったのはボクたちだもの」
 王宮の裏手に入ると、瓦礫や小石の転がる地面には、何かを引き摺ったような跡が残っていた。その跡はユギに苦々しい記憶を蘇らせる。それは、ユギとアンプが黒い男たちに引っ立てられて歩いた跡なのだ。
 屋内に入ると、あの日そこら中に漂っていた樹脂の匂いは四散し、微かにも名残を留めていなかった。
 二月だ。二月近くも、あれから経ってしまった。
「父上のお身体が痛んでいなければいいが」
 奥まで進み扉を開け、ユギは、痛んでいなければいいという願いを、次の瞬間に忘れ去った。
「下がれ。全員下がれ。部屋に入るな」
 床に、肉片が飛び散っている。王の遺体は、運び出されたりせずそこにあったが、ユギの覚えている姿とは、別の形になっていた。胴は惨く切り裂かれ、詰め物にした香草を溢れ出させている。セトの短刀が王の上に十四度も振り下ろされたのは、ユギたちが連れ出されたあとのことだった。ユギたちにとって、この惨状は想像の外にあったのだ。
「きっとセト様だわ」
「叔母様。部屋にはお入りにならないようにと」
「平気よ。大丈夫、きっと修復できるから」
 平気の意味が違うとユギは思ったが、口に出さなかった。マナは本当に何でもないように部屋に入り、仮祭壇の脇から素焼きの壺を取り上げた。
「アイシス様が調合したの。傷口を塞いで目立たなくする油薬よ」
 アンプとシモンが、既に肉片を拾い集め出していた。ネフトたちはユギの制止を無視できなかったのかただならぬ様子に遠慮したのか、部屋の外にいる。ユギは二人にできる限り感情を抑えた言葉で中の様子を告げ、そのまま待っていてくれるようにと頼んだ。
「胸の傷を塞ぐだけでいいのに作り過ぎてしまったって言ってたけど、アイシス様が作り過ぎてくれてて良かった。私はこういうの苦手だし、二人も、シモン様も、作れないでしょ?」
 マナはアンプから肉片の一つを受け取り、端を持って油薬に浸した。乾いて縮んでいた皮膚が少しだけ張りを取り戻す。
「問題は、これがどこの部分かということだけど……」
 欠片は全部で十三あった。かさついた塊をマナが検分する。
「きっとここね。ファラオ、間違ってたら済みません」
 一つ目の肉片は右の脇腹に押し当てられた。油薬は強力な粘性を持っており、魔法でも掛けられたかのように、肉と肉はぴたりと合わさってずれもしなかった。
 残る十二片もマナによって次々と元の位置へ戻されていく。その手際にここでミイラ作りを敢行していた母を思い出しながら、女の神経は太い麻縄で出来ているに違いないと、ユギは込み上げる胸のむかつきを飲み込んだ。
 肉片だぞ、それも人の。乾いて生々しさが失われているとはいえ、何で平気な顔して扱えるんだ。
「あら?」
 最後の肉片を胸の抉れた窪みに詰め込み、マナが戸惑いの声を上げた。
「どうかしましたか」
 声が幾らか上擦ったが、隣で青い顔をしているアンプも、それどころではないマナも、気に留めなかった。
「やだ、どうしよう。足りないわ」
 それも大切なところが、とマナが先王の下腹を指差した。そこにあるべきもの。初め、ユギはそのあまりに目立つ場所故に、かえって何が無いのか判らなかった。通り過ぎた視線が足まで行ってから、今のはおかしかったと気付いたのだ。
 男の身体にあるべきもの。それが、先王の遺体には無かった。
 根元から、切り取られていた。部屋の中にいた全員が床に目を這わす。祭壇の陰、箱や壺の隙間、もしや足の下に。探せど、見付からなかった。
「部屋の外かもしれない」
 ユギが廊下へ出ると控えていたネフトとジョーノが立ち上がった。途中からを座り込んで待っていた二人が尻と腿の裏を叩いて砂埃を落とす。
「終わったのか?」
「いや、それが、粗方の修復は済んだんだが、見付からない部分があって」
「探してるのか。肉片、なんだよな? オレたちも手伝うぜ」
「ああ。その、落ちていたらすぐに解る箇所だと思うんだが……」
 ユギが口ごもる。ネフトの手前、器官名を直接言うのは憚られた。だが他の部分を思って探せば見落としかねない形の箇所だ。
「……男のしるしなんだ。無いのは」
 ネフトは赤い顔を、ジョーノは青い顔をした。
 二人も加わりそれを探す。部屋の中と廊下は勿論、他の部屋に転がり込んでいないか、建物の外へ飛び出してしまっていないか、入念に確かめられた。
 それでも先王の男は見付からず、空が快晴の青から夕暮れの赤紫に変わる頃、ユギたちはそれを探すことを諦めなければならなかった。
「時間切れだ」
 二つの意味で、とアンプが告げた。
「これ以上ここに居たら船団に追いつかれちゃうし、それに明日は七十日目だ」
 アンプは日付を数えていた。死後七十日目には、必ず葬儀を挙げて死者をイアル野へ送ってやらねばならない。飢えも乾きも無く、涼やかな風が生い茂る草原を揺らす楽園。天にあるとも地にあるとも、或いは底にあるとも言われる理想郷へ、送り出してやらねばならない。間に合わなければ、死者の魂は永遠に冥界の暗い道を彷徨い歩くことになるのだ。
 間に合わないものと、それ以前に、正しき葬儀を行うこともできないと、諦めかけていた。思いがけず七十日を過ぎる前にここへ戻ってくる機会が出来たのだ。無にしたくはない。
「野犬が持って行っちゃったのかもしれないし、もう諦めよう」
「それにしては他が無事過ぎるけどな。セトがナイルの魚にでも喰わせたんだろうさ」
 ユギはふざけた調子でそう言った。本当のところは、きっとどこか瓦礫の隙間にでも入ってしまって分からなくなったのだろう。そう思っての、性質の悪い冗談だ。
「何にせよ、無いままっていうのもあんまりだよね」
 アンプの提案により、見付からなかった箇所には、代わりに泥を捏ね乾かした似姿を添えることになった。先王の身体に崩れ防止の布が巻かれ、件の人型箱に納められる。アシュ族からの、策略に長けた砂漠の女主ネケトネチェルからの、贈りものであった箱。それはタァウイ特有の葬儀風習の一つ、死者の姿を模った棺に他ならない。ただ棺とするにはあまりに豪奢であり、一見調度品とも思える珍かな意匠を施していたが、それこそセトやアシュの女主の策の内なのであった。
「箱を葦舟の後ろに括り付けて行こう。再びこの中へ入れというのも、父上には申し訳ないが」
 ユギとジョーノが先王の身体を箱ごと葦原まで移動させる。内臓を収めた四つの壺は残る四人が一つずつ抱えて運んだ。
「埋葬はどこに?」
「ソカルにして差し上げたいと思っているんだが、間に合うだろうか」
 いにしえの王たちが眠る土地をユギは候補に挙げた。先代やその祖の墓が並ぶウアセト西岸の王家の谷に戻るのは危険だが、王であったものを名も知れぬ土地に葬るのは気が引ける。可能であれば王として王のための埋葬地に。
 ソカルが王の埋葬地であったのは何王朝も昔のことだ。タァウイの長い歴史の始まりの頃、初めてその地に王墓が作られたという。それまで上下に分かれていた国が一つになり、その中心に王の威を示す巨大な墓――まだ天に向かい四角錐ように石を積むものでも岩窟を掘り進めるものでもなかった――が作られたと、半ば伝承と化した話が残っている。
 二つの国の中心。セトが目指すものもそこである。メンネフェルもまたいにしえの王たちが選んだ執政地であり、ソカルとメンネフェルは、ナイルを挟んだ隣接地であった。
「ソカルか……今から休まずに漕ぎ続けて、明日の夜になんとか着くか着かないかだな」
 行くなら急ぐに越したことは無い。ユギたちは葦原に隠していた小舟を岸に着け、壺を積み箱を曳き水面に乗り出した。
 西の砂漠の向こうで、ラァの太陽船が天空の女神ヌトに飲み込まれようとしている。
 櫂を動かしながら、ユギは日没を表すその一節を何とは無しに思い出した。

    昼を照らすラァの船は、ヌトの体内で夜を行く。
    船の再び生まれし時、再び昼が訪れる。
    船の再び飲み込まれし時、再び夜が訪れる。
    航路は険しく、悪しき蛇がラァを亡きものにと企み待ち伏せる。
    されど、その企みは一度もならず。
    ラァに侍りし強きものが、石笏で蛇を打ちのめす。
    強きものの名はセト、ウシルを殺し王権の簒奪者となったもの。
    忌み嫌われし神なれど、ラァのみは彼をお気に入り。
    今日も船首にセトを立たせ、昼と夜の道を行く。
    一日の始まりから終わり、日々繰り返される物語。

 タァウイにおいて、セトという名はこの神を思い出すとしてあまり好まれない。現王の名こそセトではないかという話だが、彼の族は少し事情が異なるのだ。その領地ヌブトはセト神信仰の発祥地であり、その色白の元となる血は主神にセトを据える異国から流れている。彼らはセトの名を忌み嫌ったりはしない。
 だが、一般的に、タァウイでは、セトという名は好まれない。新王セトが即位名に太陽の下に声正しきものメン・マアト=ラァを名乗ったのはこの昼と夜の船の話に因んだのだろうかと、ユギの頭にふとそんな考えが浮かんだ。
 神話のセト同様に王権の簒奪者となった彼が、その名が負う印象の、悪しき簒奪ではなくラァの信頼を受ける強きものの側面を民衆に意識させようとした結果が、あの全く似合いもしない即位名だろうか。
 ユギは、セトの即位名を彼には似合わないと思っていた。父王アテムがその名を聞けば、やはり似合わないと言っただろうとも。
 光に弱い肌を持ち内に篭る気質のセトの名にラァというのも不可思議な感じがするし、気位が高く気性は激しいところを思えば、神の真理なんていうへりくだった称号は雰囲気じゃない。例えば神に選ばれしものだとか、真理の主だとか、そういう自らを立てるものこそセトらしい。遷都先メンネフェルに合わせて、ス・ネフェル――美しきもの――なんかでも良かっただろう。性格に目を瞑れば偽りではない。
 ユギがその下らない思考に捕らわれている間に、ラァの太陽船はヌトの口の中へ納まった。彼女の唇から漏れる光が砂漠の縁のみを赤々と煌かせている。
 ソカルは、まだ遠い。


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ソカル:地名。ギリシャ語読みソカリス、現サッカラ。メンネフェルのナイルを挟んだ西岸。
ウシル:オシリスの名で知られる神。