セネト・パピルス 10
2008/9/20


 数時間ののち、ラァの太陽船が再びヌトから生まれ出でた。東の端から昇った太陽が、ウアセト、メンネフェル、アケタテン、全ての都を等しく照らす。
 ユギたちが夜の前に立った地アケタテンへ、セトの船団はその朝辿り着いた。メンネフェルが目的地である筈の彼らも、どうしてかそこへ停泊する。アケタテンで一度船を泊めよとは、セトの命であった。
 ウアセトを出港したその晩に姿を消してみせた王子たちを探してのことだとすれば、時既に遅しとはいえ上々な考えであるが、セトの思惑はそこには無い。まさか以前捕らえられた地で船団に追いつかれるのをのうのうと待ってはいまいと、王子たちの行方に関しては半ば諦めていた。
 セトの目的は、凡そユギたちと同じであった。
「無かった?」
 上陸した男たちからの報告に、セトは細く吊り上がった眉をひそめた。彼らは手ぶらで戻ってきて、セトの目的であったもの、先王アテムの身体は、どこにも無かったと告げたのだ。
「『王宮』の方へは?」
「確認を取りましたが、知らぬ、と」
 セトが腕組みをし、襞状の袖が衣擦れの音を立てる。
「その、ただ、『王宮』の女が陛下に話したいことがあると言っておりまして」
「私に直接か。言伝ではなく」
 亜麻の白い裳裾を爪繰って、セトは黒檀の椅子から腰を上げた。
「聞くとしよう。誰か供を」
 窓の外で、空は今日も晴れ渡っている。対照的なほどに暗い気持ちを封じ込めて、セトは持ち手と末端が石造りの王笏を手に取った。室内着に王のしるし一つを身に付けたのみの軽装で船を降りる。
 女は、かつてユギたちが会ったのと同じ部屋で、薄汚れた金の椅子に座りセトを待っていた。
「私たち、ここを出ようと思ってるのよ。ただの人になろうと思うの」
 腕の中に赤子をあやしながら、女はそう告白した。そうか、とだけセトが答える。
「アテンを棄てるわけではないけれど、アメン=ヘテプが終わりを迎えたのなら、私たちも外で生きられるでしょう」
「……そのように取り計らう」
 ほほ、と女が独特の笑い声を上げる。そうした時、女は美女であった。王を誑かしたとされる異国の妃の血を、彼女は色濃く引いていた。
「そういえば、ウアセトの王子に逃げられたそうね」
「どこへ行ったか、知っているのか」
「いいえ。けど早く見付けた方がいい。この間少し話したけれど、あの王子の心臓は止まっていたわ」
 それは、言外に馬鹿だと言っているのだ。何も知らない、付け入る隙の多過ぎる若い王子。セトの王位に反対するものたちが放って置く筈は無い。彼らの手中にさせてはならない。
 だが、それがために、大規模な捜索もできないのだった。ユギは今もセトの監視下にいることになっている。どこかへ逃げたと知られるのも困るのだ。
「抜け出すのが得意で、心臓をろくに動かさず、私の想いなど汲もうともしない。嫌になるほど父王に似てしまっていることよ」
 唐突に、女の抱いていた赤子が愚図り出した。
「あらあら、貴方のことじゃないわよ。お父様のことでもないわ」
 女の子をあやす姿を見ながら、セトは上下二国の冠の重さについて考えた。逃げる王子を追い町の子の服を取り上げ、そうした時何がどうなるか、予測することはできない。
 ただセトは、その重さが以前にもしたことを思った。鼻の奥か眼球の裏か、そんな風に表される場所がつんと疼いた。
「あぁ、そうだ、この子の名前はセティにしたのよ。セトのもの。神でなく、王であるセトのものよ。名前の通りになるように、少し大きくなったら書記学校か軍にでも入れるわ」
 セトの臣下として役立つように。女は喋り続け、セトは王笏を床に突いて暫く話を聞き、女の話が終わると自嘲気味な笑いを見せた。
「その子が大きくなる前に、私は地上から姿を消しているかもしれんぞ」
 今既に、もう若くない。付け加えたセトの言葉に女が首を傾げる。
「見た目を保つのもこの頃は辛くてな。それ故ことを急いた」
 簒奪の他にも、手段はあったやも知れぬ。だが、それを探す時間は残されていなかった。
 無言になり、女とセトは互いに見詰め合った。感情の片鱗を探るように、表情を窺い合った。そうした時、二人は良く似ていた。タァウイの、理想主義の下に彫られた雪花石膏像が二体、並んでいるようであった。
 二人はどちらともなく視線を外した。二人の会話は、それで終わった。


 そこからメンネフェルまでは、河が曲がりくねっていないという意味でも、寄り道をしないという意味でも、一直線だった。
 ナイルから少し離れた所に白く輝く石が積み上げられている。船の窓から見える景色に、セトは到着が近いことを知った。
 あれが壁になる。まだ低く完全な円にもなっていないが、いずれ町全体を囲い、古代そうであったように、メンネフェルを栄えさせるのだ。
 メンネフェルの壁はセトが初めて築くものではない。いにしえと呼ばれる時代、メンネフェルは壁によりアケトの増水から護られ多くの王をその内に住まわせてきた。時の流れや争いで次第に砂と化し、遷都や王家乱立の混乱の中で存在を忘れられ、記録の上でも設計法が失われてはいたが、過去メンネフェルには壁があった。
 メンネフェルを再び沈まぬ町にしたのは偉業である。だが、それを成した当の本人は、己の功績をただ蘇らせただけと小さく捉えていた。彼にとっては、どれほどの名誉も、その身が受けるべきものではなかったのだ。
「お待ちしておりました」
 桟橋に降りたセトをネケトネチェルが出迎える。アシュの一団は数日前にメンネフェル入りを果たしていた。彼女らが運んだ王家の財は、船団の影も見えない内に前メンネフェル侯の館に付属する宝物庫へ収められている。
「話が」
 セトの声は出そうとしたより数段潮垂れていた。ネケトネチェルは下ろしていた長い銀の髪を一括りにすると、横に着けていた車上へひらりと飛び乗った。
「どうぞこちらへ。ここで聞いて良い話ではなさそうですから」
 隣を示され、セトもその馬が引く車台へ乗り込んだ。一枚板の足場からひょろりと細い手摺と馬に繋ぐための軸が生えている。車輪は二つ切りで、身を預けるには心許なくも思える作りのそれを、セトはあまり好きでない。
「しっかりとお立ちになって、手摺を放されませんように」
 そう言うネケトネチェルは手摺の代わりに手綱を握っている。それには何も言わず、セトは細い木の棒に掴まった。セトは、この乗りものを好きでなかったが、彼女たち馬の扱いに長けたものがその手綱を操った時この申し訳程度に金属で補強されただけの車台がどれほどの威力を見せるか、知らないわけではなかった。
 アシュの馬車は、そのどれもが、有事には戦車として利用される。そしてそれはタァウイ正規軍の戦車と変わらぬ、いや、むしろそれよりも優れた動きをするのだ。
「行きますよ、それっ」
 ネケトネチェルが手綱を波打たせ、馬が勢いよく走り出した。車台が激しく揺れる。振り落とされないためには二つの方法があった。一つは手摺に縋り付くこと、もう一つは手摺を支え程度に留め姿勢を良くして堂々と車上に立つこと。セトは後者を選び、僅かの余裕をもってネケトネチェルに話し掛けた。
「王子に逃げられた!」
 怒鳴るようになったのは、車輪の回る音が凄まじいからだ。
「それが話ですかっ」
 ネケトネチェルも声を張り上げ、セトがそれに頷いた。二人の馬車には誰も付いてこれていない。会話は、大声であろうと問題無かった。
「捜索は!」
「するべきと思うかっ?」
 迷いを、セトは口にした。アケタテンの女は早く見付けた方がいいと言った。だが、心臓の止まった、考えることを放棄している王子を見付けて何になるだろう?
「国とは、人好きのする性質だけで治められるものではない。無論、信仰だけで治められるものでも。それでも、私はあの王子を探すべきだろうか?」
 ネケトネチェルは真っ直ぐに馬の背を見詰めたまま数瞬の間黙り込んだ。
「貴方は……貴方は、結局どうしたいのです」
 王子を次の王にして、母により伝えられる王家の正しき流れを取り戻させたいのか。そうなのだろう。
 先王は娘を残さなかった。ベヘデトやジェドゥ、ケメヌの公家に王座の女の資格を持つ姫君はいるが、彼女らは公家の娘でしかない。彼女らが持つものは、母を通して伝わる王家の血と、己とその夫の財を、子に継がせる資格のみである。彼女らが今持つものは、州であって国ではないのだ。
 国を己の財であると言えるものは、現状、先王と王座の女の間の子である二人のユギだけである。国と、血と、王家に娘がいない今、王家の男が王座の女を迎える形でなくては、マアトに適う王位の流れは実現できぬのだ。
 逆に言えば、セトがいずれかの王座の女と子を成した時点で、それが息子であろうと娘であろうと、ユギたち抜きに正しき流れを作り出せる。セトは既に王家から出でた王座の女を妻に持っているのだ。セト自身に国を所有する資格は無くとも、セトの子にはある。だが、その案は、セトの中からもネケトネチェルの中からも、完全に排除されていた。
「あぁ、ナムに王座の女の血が、ひとしずくでも流れていたら!」
 マアトなど知らぬと言ってしまえばいい。そうしたところで、この地上において神々の罰が下ることなんてない。セトはタァウイ人として冥界の存在までは否定していなかったが、いずれ逝くであろうそこで裁かれることに付いてはもう諦めている。
 既に数多の罪を犯した身、どうして死後の平穏など得られようか。地上に神々の怒りが現れないのなら、死後に己の受ける罰が一つ二つ増えることくらい何の問題があろうか。
 セトはそう思っていた。だが、その思いを口に出そうとすると、舌が痺れ心臓も締め付けられたように痛むのだ。
「あの男の息子に王位を継がせたいのですか」
 ネケトネチェルが咎めるように言った。
「そういうわけではない」
「では、何故王子たちに拘るのです。貴方が拘っているのは、本当は、王家の正しき流れではないでしょう。アメン=ヘテプ自体簒奪王朝なのですから、いえ、それより以前にも何度も王朝は交替している。今更正しき流れなど求めるだけ無駄。少し歴史書を捲れば解ること、貴方が知らない筈もないのに」
 ぐっとセトは言葉に詰まった。荒れ道に車台が揺れ、手摺を掴む力が強まる。
「死後の国で神々の投げる石に骨を砕かれるのが恐ろしくなったのですか。化け物に心臓を喰われ彷徨える魂となるのが恐ろしくなったのですか」
 セトが首を振る。それは、今更一つの善行で避けられるものではない。
「王よ。両冠の主よ。冥界で貴方一人を彷徨わせるようなことは致しません。ですがもしこの地上に迷いを見出し彷徨われているのなら、その迷宮は御自分の心に従って一人でお抜け下さいませ」
 セト様、と、かつて王となる前のようにネケトネチェルは彼を呼んだ。
「あの男の息子に、王位を継がせたいのですか」
 責める響きは無くなっていた。女は、本当に、ただ問うただけであった。
 逡巡ののち、一つには、とセトが答えた。
「同じ重さの理由が四つある。一つには、そうなのだろう。別な一つには、捨て置きアケタテンのように反対派の筋だけは正しい血を残されては困るというわけがある。簒奪に続いてマアトの祝福を受けぬ王となれば民の混乱があるやもしれぬ、それも一つ」
 セトはそこで一度言葉を区切った。
「最後の一つは?」
「他に適任がいない。公家の男たちは皆駄目だ。ジェドゥの男もベヘデトの男も気が弱過ぎる」
 ジェドゥ公家は先王アテムの母の家、ベヘデト公家はアイシスの生家だ。それにも関わらず王権交替の折真っ先に新王セトへの服従を誓ったのはこの二家だった。その時の、震え上がり供物を携えてセトを拝礼した公子たちの姿。なんと滑稽だったことか。
「公領を、王により与えられる土地を護るなら奴らでも良かろう。変わり身が早いのも制度の内にいるには立派な武器だ。だがあれは王の器ではない。制度の外、他国とやり合うことのできる器ではない」
 諸国と渡り合うことができるか――それはネケトネチェルも遠く離れたプントの王も最も重要と考えている要素だった。アシュはタァウイの族ではないが、その勢力下で一定の恩恵を受けて暮らす遊牧民である。プントはタァウイと共通の敵国を持つ。どちらもタァウイの国力に衰えられては困るのだ。
「ヌブトは私の代で途絶える。ケメヌの公子は皆老いている。かといって公家からの王座の女に侯家以下の男を宛がっては、同格意識で保たれている公家間の協調が崩れかねん」
「四つの理由により、継ぐのはあの王子しかいないと? ならば何を迷うのです。今すぐ捜索を始めればいいではありませんか」
 話が一巡して元に戻った。逃げた王子を探すべきか否か。
「あぁ。だが、その性質が王に相応しくとも、今のままでは」
 先王と同じか或いは似た過ちを繰り返すだけだろう。それでは、何のためにセトたちが死後の平穏を投げ出したのか分からない。
「心臓は凝り固まり、瞳は曇って面布を介したかのごとくにしかものごとを見ない。そんな王子を連れ戻して何になる?」
 馬が嘶いた。旧メンネフェル公館、今後は仮の王宮として使われる屋敷が目前に迫っている。ネケトネチェルは小さく手綱を引いて馬の速度を遅めると、何になるかは貴方しだいとセトに答えた。
「凝り固まった心臓に血を送り、曇った瞳に薬を点してやるのも長上の務め。真実を間近に見ながら何も見ていなかった王子に、見て解らぬなら言って聞かせれば良いのです」
「真実を――?」
「必要なところまで」
 セトがそれはどこまでのことなのかを考える間も無く、馬車は仮王宮の前に着いた。前回の行幸からメンネフェルに残っていたものたちや、陸路で先に到着していたアシュのものたちが、二人に手を差し掲げて出迎える。
「陛下」
 車台を降りようとしたセトをネケトネチェルが引き留めた。
「ごゆっくり、お考えなさいませ。何が必要で何が必要でないか。――それと、食料の供給のことですが」
 ネケトネチェルが声の調子を変える。先程までの真摯な声は、軽い響きに取って代わった。
「お約束を果たすために、この時期だと多分ハトウアレト――まで行かねばなりません。そこから調達で少しお待たせすることになりますが、前侯の穀倉を見る限り、欠片も問題の無い内に帰ってこられるでしょう」
「すぐに出るのか?」
 セトが地面に足を付けても、ネケトネチェルは馬車を降りようとしない。出迎えたアシュのものたちも、何やら旅の支度のような、皮袋や筒を腰に提げている。
「私たちは貴方々を待っている間に充分休みましたので。館内はプントの方々が整えておられましたから、あとの案内はそちらから」
 セトの横へ来ていた黒い男が、ではわたくしがと二人に声を掛けた。
「さぁ、アシュのものどもは今すぐに馬の支度を。方々が到着されたら入れ替わりに出発です」
 後方で馬の蹄が地を踏み鳴らす音が聞こえ出した。ただし、それはアシュの馬ではない。セトの私兵団から昇格した正規軍の軍馬である。船の進みと共に河沿いを歩いてきた、タァウイ式の馬と車。港でネケトネチェルに置いてけぼりにされた彼らも、漸くあとを追ってきたのだ。
 徒歩で来るものたちの到着はいつになることか。馬では一瞬の距離だったが、人の足には長い道だろう。尤も、身体を鍛えている黒蛇たちにとっても常より忙しく働いている近習たちにとっても、歩くのが辛いほどのものではない。
 アシュの準備が終わる頃には皆揃うだろう。先程案内役に名乗りを上げた男に屋敷の扉を開かれながら、セトはネケトネチェルやアケタテンの女との話を振り返った。
 私はどうしたいのか。王子が王たるものに相応しく真実を見る心を持つようになればそれでいい。タァウイの窮地に気付ける程度あの馬鹿王子が賢くなればそれで。だが、王子の眼を開かせるにはどうすればいいというのか。
 アメン=ラァ神殿の危険性を訴えたとしてどれほど伝わるだろう。今まで神殿の居丈高さに不満を漏らすことはあっても、それに増して父王の寵臣セトという単体の神官を忌み嫌っていた王子が、当の寵臣、今は謀反人となったものの言葉を、どれほど聞くというのだろう。
 話すべき真実。その言葉がセトの胸をちくりと刺した。

 真実。話すべき真実。在りし日の我が身と心の情けなさ――


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ケメヌ:地名。ギリシャ語読みヘルモポリス・マグナ、現エル・アシュムネイン。上エジプト北部、ナイル本流とシェへの支流に挟まれた都市。
ハトウアレト:地名。ギリシャ語読みアヴァリス、現テル・エル・ダバ。下エジプト北東部、最も東の支流の東岸にある都市。