セネト・パピルス 11
2008/10/4


 二人のユギはデプの沼地の掘建て小屋で数日に渡るシモンの講義を受けていた。ソカルへは無事七十日目の内に着き、簡素な葬儀を済ませてすぐにデプへ立ったのだ。
 講義はユギたちにとって退屈だった。何度途中で抜け出そうとしたか知れない。その度にばれて説教を頂く羽目になったのだが。尤もらしく神殿裏で情報を集めたいと言っても、それはジョーノとネフトがやっていると躱された。実際、イティの神殿裏が出自の彼らはそういった場所での活動に長けていたから、ユギたちが調べが不十分だとして不服を申し立てることはできなかった。
 今日も、二人のユギはシモンの退屈な講義を聞く予定だった。マアトとは何か、から始まり、祭礼において王侯貴族の取るべき態度、タァウイの族の系譜、公家と侯家の違いときて、昨日が神々と神殿の話だった。
 昨日は話の途中で夜が更けてしまったから、今日はその続きからだろう。始まる前から条件反射のように下がってくる瞼をユギは必死で開く。居眠りなどしたら、また何を言われるか分かったものではない。
「では、では、今日の話を始めますかな。手始めに昨日の復習から」
 講義はいつもの調子で始まった。
「神官の役割は地上の祈りを神のおわすところへお伝えすること。その神官の最も徳の高いものは、さて、どなたでしたかな?」
 簡単じゃないか。復習どころか常識だ。ユギは、そう思って、何の躊躇いも無く答を口にした。
「アメン=ラァの大神官だ。こんなの市井の子供だって知ってるぞ」
「さよう、それは、確かに市井の子供でも知っている答では御座いますが……昨日お教えした答ではありませぬ」
 昨日? そういえば、夢うつつに何か聞いたような気もする。
 出来の悪い生徒に、シモンの眉間は皺を作った。
「あ、あ、解った。アメンの神妻でしょう」
 今度はアンプが答えた。シモンの眉間の皺が深くなる。
「お二人して、昨日はいったい何を聞いておられたのか。私は、その話と今日これからする話のために、この数日を教えてきたというのに」
 いつもの調子で始まった講義がいつもの通りの内容でないことに、ユギとアンプも気が付いた。いつに無く真剣に、二人は講義に耳を傾ける。
「よいですか、最も徳高き神官は、王なのです。王は神そのものであり、そしてまた神の息子でもある。神でありながら、この地上においては神に仕える神官として、最も徳高くあらせられる」
 ホルの化身、ウシルの生ける姿、ラァの息子。どれも王を表す言葉だ。シモンはそれらを並べ立てた。
「アメン=ラァの大神官など所詮は人。アメンの神妻に至っては神殿の権勢を誇示するためにいつからか置かれただけの地位。いにしえ、そのような身分は無かったのですぞ。それしきのものより王が下など、誤りも甚だしい。しかし」
 深く呼吸をし、気を静めてシモンは続けた。
「しかし、お父上アテム様はその誤りを正してこなかった。アメン=ラァが過剰に力を蓄えるのを看過し、神殿が王宮を超えようとする危険性を説かれても、あれは我が族の神を祭っているのだからと忠告を切って捨てるばかり。そして大神官位がまだ従順であった先のものから野望に満ちたヘイシーンに変わり、いよいよ危険が高まるに至ってとうとう――」
「セトに討たれた、か?」
 ユギが言葉尻を攫った。
「シモン。そなた、長きに渡り偉大なる上下二国の王を務めた我が父が、愚王であったとでも言いたいのか」
「いいえ、決して、そのようなわけでは御座いませぬ」
「ではどのようなわけで今の話をしたのだ」
 シモンは震えたくなるのを堪えた。ユギは市井に遊ぶ子供の仮面を外して、その身分に相応しい態度でシモンに接している。これは、普段の話し合いではないのだ。場合によっては先王への不敬で咎めを受けるやもしれぬ。
 だが、それもこれも宰相として仕えていた折の不徳の致すところ。
「私めが申し上げたいのは、セトの行いにも理由があったということです」
「理由?」
「遷都によりアメン=ラァの力を削ぐ。セトのかの夜の行いはマアトに外れたるものですが、その根源は国家安泰を思ってのこと。王子、我々はセトの許に戻り、タァウイの永の繁栄に向け共に協力をすべきと思いませぬか。セトにも同じ想いがあればこそ、アケタテンで捕まったあとにも、王子は生かされていたのですぞ」
 諫死も致し方なしと覚悟を決めたシモンの言葉は、しかしユギには届かなかった。
「それは本気で言っているのか?」
「王子」
 ユギは得意げな顔をして、言い募ろうとしたシモンを制した。
「解った解った、では仮にアメン=ラァが危険だというのは本当だとしよう。父上が周囲の忠告に耳を貸さなかったというのもな。だが、その大神殿と繋がりを持ち、父上にも取り入って権力を思うままにしていたセトを庇い立てするのはどういうわけだ? 父上はセトを重用していたが、そのあまりに言いなりの節もあったろうが。大方、アメン=ラァを危険な水位にまで上げたのもセトではないのか?」
「それは、一ところからはそう見えたかも知れませぬが……」
 シモンは口ごもって、何も言えなくなった。何を、どう言うべきか、すぐには判断できないのだった。
「シモン。一ところではない見方とは何だ?」
「ですから、その……王子が思うほどには、その、重用というのは……」
 慎重に言葉を選びながらどうにか話を続けようとするシモンに、ユギは当て付けのような溜息を吐いた。
「もうよい。お前の話は聞くに堪えぬ。今日の話は特にだ!」
「王子!」
 ユギは勢い込んで小屋を飛び出した。アンプがあとを追いかける。シモンは、引き留めるのに失敗して、床に両膝を附いた。
「これが、我が不徳の代償か」
 呆然と、独りになった小屋で、シモンは膝を附いたまま呟いた。
 小屋の中に、騒ぎに気付いたマナが駆け込んでくる。彼女はシモンを抱き起こそうとして、その力無く垂れ下がった腕を取った。
「何があったんですか? 王子たちに勉強を教えていた筈じゃ」
「勉強。勉強! ああ、二代に渡り教育係を務めてきたが、何も変えられなかった!」
 シモンだけが悪かったのではない。ウアセトという町の空気が、霞となって真実を覆い隠していたのだから。いや、今やタァウイ中が、ウアセトと同じ空気に覆われているのだから。
「この国は滅ぶ。セトの跡目は誰も継げん。王子も、公家の男も、皆愚かものじゃ」
 悔しさにシモンは身体を震わせた。もし、たった一人セトに娘がいたならば、世に数多いる男の中から、身分も家も問わず賢きものを選ぶことができたというのに。王家に、たった一人でも、うら若き王座の女がいたならば。
「もしセトが今からでも娘を――ああ、言っても詮無きことよ! 全て我が不徳、せめて、あの時、私が――」


 いきり立って出て行ったユギは沼地の粗末な茅葺き小屋の間を抜けて丘に向かった。下つ国はどの州も丘と沼からなり、増水期アケトの度水の底に沈む沼地には貧しいものが、水の届かぬ丘地には身分の高いものや金持ち、特殊な職のものが集まっている。ユギは、取り立ててどこに行こうとも考えていなかったが、その足は自然に、特殊な職のものが集まる神殿裏へと向かっていた。
 しかし、神殿裏に辿り着く前に、ユギは立ち止まらなくてはならなかった。沼地と丘のちょうど境目の辺りまで来て、ユギは己の状況を再確認する羽目になったのだ。
「どうしたの? もう一人のボク」
「相棒。あそこを見ろ」
 ユギは、日干し煉瓦で造られた、沼地の家々に比べれば格段に立派な建物の合い間を指差した。丈の短い腰布を巻き、同じ風合いの頭巾を被った裸足の男たちが、数人寄り集まっている。
「……兵士?」
「ああ。しかも、あのなりは正規軍だ」
 腰布と頭巾。それだけを身に付け、胸も肩も足の裏も隠さぬ格好。古くより戦の際の正装とされ、タァウイ正規軍では平時の装いとしても用いられるものだ。
「くそ、どうして正規軍がここに。相棒、引き返すぞ」
 正規軍、それはつまり王の、セトの軍隊だ。どうして、とユギは言ったが、ユギたちの行き先を推測するのはそう難しいことではなかった。
 逃げ出してからアケタテンに寄ったことを思えば下つ国へ向かったのは明らか。その内アシュの行動域と隣接する西側の州、プントの交易隊が多数行き来する東側紅海付近には近寄らないだろう。そうなれば残るは支流の広がる扇形部中央だが、その中には宰相領ジェフウトが存在する。
 ジェフウトのシモン・ムーラン。アケタテンでセトがそう呼んだ通り、そこはシモンの所領である。正確には、王都に仕官し、大宰相となったものの菜料地。今は、古くより歴代の王に側近く仕えてきた高貴の家柄ケメヌの、最も賢きものがその地の侯を名乗る栄誉を授与されている。セトがシモンに代わる宰相を迎えていない以上、そこはまだシモンの所領なのだ。
 ユギの行き先に話を戻せば、繋がりがあると分かりきっているジェフウトに姿を現すとしたら、それはセト側と対話をする気になった時だろう。ならばジェフウトにはいない。となるとデプかザウかジェドゥか――だが、ジェドゥもユギたちに繋がりのある地。先王アテムの母の家の地だ。それも、早々にセトへの服従を誓った。
 ジェドゥにも行けまい。探すならばデプかザウだ。また王子たちの好みそうな地ではないか。
「小屋はまだ見付かってないだろうな」
 二人は踵を返した。ユギが走り出す。
「待ってよ、もう一人の、うわぁっ」
「相棒?」
 アンプの腕を、肩衣を着た男が掴んでいた。周りには同じ格好の男がもう数人、囲うように集まっている。いつの間に傍に来られたのか。肌は赤い。正規軍でも、セトの黒蛇たちでもない。
「誰だお前たちは。その手を離せ」
 赤い肌に長い肩衣、留め具は金に見える。ユギは相手の様子を窺いながら間合いを詰め、アンプの自由な方の手を握った。
「おお、警戒は無用。我らは味方ですぞ」
「味方だと?」
「さよう、王子方。我々は、お二人をお救いすべくウアセトより追って参りました、アメン=ラァの僕どもで御座います」
 肩衣に金細工。ラァに関わる神の僕、アメン=ラァの神官だったのだ。ユギは安堵しかけ、しかし安堵するわけにはいかないことを思い出した。
「アメン=ラァと言ったな。先の折にはセトに協力していたと思ったが、我が記憶の間違いか」
「いいえ。しかしあれは我らの本意にはありませぬ。極悪非道の妄王セトの恐るべき企みを知り、内より食い止めるべく仲間になった振りを……力及ばずではありましたが」
 ユギとアンプが言葉の真贋を見極めようと回りの男たちの反応をつぶさに観察する。
「疑っておいでか、無理も無い。ですがお考え下さい。我らはお父上アテム様にずっと良くして頂いていた。裏切る理由などどこにあります」
 ユギは頭の中でシモンの話を聞きなおしていた。アメン=ラァは危険、セトの許へ戻るべき。だがユギの反論にシモンは黙った。
「父の周りにはそなたらの力が強過ぎるのを懸念する声もあったようだが、それについてはどう思っていたのだ」
「懸念? その声、どちらから聞かれたのです。マアトに適わぬものですぞ。我らの力は即ち国を護る神の力。それが強大であってなにが悪いのです。それに、全てはこのような日が来た時のためのもの」
 アメン=ラァの男は空に向かって手を差し翳した。賛美の姿勢であった。
「アテム様が願い、我らが祈る。神はそれを聞き届け、神の御許で国と民は一つであった。王子、あの良き時を取り戻さねばなりませぬ。神を蔑ろにし国全体を不徳に巻き込もうとしている悪王セトを討たねばなりませぬ」
 力強い口調だった。そこまで言って、男は息を吐き冷静を取り戻した。
「王子、貴方様が懸念を抱かれているアメン=ラァの蓄えは、今や全て貴方様のための戦費となりましょう」
 男が賛美の形を取ったまま地に伏す。彼の言葉は、蕩けるように甘美な旋律でユギの鼓膜を震わした。心地良い音がユギの起こされかけていた心臓を再び眠らせ、真実を見る眼を瞼に覆わせる。
「そなたらの心、理解した」
 蜃気楼と会話しているかのような調子でユギは言った。
「疑って済まなかった。我が過ちを許し、今後は、父にしたがごとく力を貸して欲しい」
「そのお言葉を聞けるほどに嬉しきことはありませぬ。さればここは危ない、我らの本拠へお連れしますぞ。有り難き協力者がおりましてな、お母君も無事にこちらまで」
 男が立ち上がり、ユギたちの背に手を添えた。
「あ、待って、向こうに皆が」
「そうだ、一度戻らないと」
 アンプが沼地の奥を指差し、ユギも置いては行けないと相槌を打つ。アメン=ラァの男は困ったように顎へ手をやった。
「申し上げ難いが……あちらは既に妄王の兵によって制圧されて……我らがもう少し早くに辿り着いていればと、悔やんでも悔やみきれぬことに。不手際済みませぬ」
 周りの男たちも悔しそうに顔を歪める。ユギは彼らの上に視線を一巡させて、そうか、と小さく呟いた。
「だがお前たちは最善を尽くしてくれたのだろう? 仕方が無い、我らだけでも本拠とやらへ案内してくれ」
 男は再び賛美の姿勢を取った。
「仰せ、何に代えましても」


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ホル:ホルスの名で知られる神。