セネト・パピルス 12
2008/11/14


 アメン=ラァの男たちの輿に乗せられ、ユギとアンプはデプを去った。ユギたちが丘を横切り沼地を越え、支流に出て帆を張った船に乗り換え、そうした頃、沼地に残されたものたちはやっと気付いたのだった。
 王子たちはもはや帰らぬ、そのことに。
「ナム様、こちらです」
 正規軍の捜索隊を率いていたのは三人目の王子だった。ナムが、全く無抵抗で制圧された茅葺きの小屋へ踏み込む。
「……お二人だけ?」
 正しくは四人、だが所謂下々――ネフトとジョーノを数から外し、ナムは懐疑の声を上げた。
「ホルサイセとアンプは」
 問い掛けに、二人、シモンとマナは、互いを見遣って重く息を吐いた。
「帰って来ぬのじゃ」
「朝に出て行ったきりよ。息巻いて、出て行ったきり」
 シモンが、朝の出来事を掻い摘んでナムに説明した。それは、少なくともシモンとマナに、敵対の意思が無いのを示すことでもあった。
「それが、今朝ですか」
 もう昼を過ぎて大分経つ。正規軍がこの小屋に辿り着いたのはつい先程だ。彼らは先に丘の捜索を行い、そのあとで沼地にやってきた。朝に出て行ったユギたちが丘で軍の影を見つけて身を隠したのだとしたら、こちら側に戻ってきていないのはおかしい。
 ナムは、表面上冷静を保ちながら、思い付いた可能性に脂汗の滲み出るのを止められなかった。幾らシモンと揉めたばかりだったからといって、あの二人が二人きりで逃亡などと心細い真似をするわけが無い。ここに戻ってきておらず、辺りにも姿が無いのなら、誰か協力者を得てどこかへ匿われたと考えるのが妥当。
「アメン=ラァに先を越されたか」
 他のものの可能性もあるが、今最もユギを欲しがっていて、かつ捜索に人員を避けるのは彼らだ。ユギたちは彼らの手の内に落ちたと見て間違いはないだろう。ナムも、シモンたちも、そう状況を認識した。
「どうされますか」
「どうとは」
「我々に付いて王都に戻るも良し、ホルサイセたちが匿われた先を探すも良し、この機会にジェフウトへ戻られるも良し。王の正妃には王妃宮へ入ってもらわねば困りますが、シモン様は自由です」
 狭い小屋の中を一度見渡し、ナムの示した選択肢の第三をシモンは選んだ。
「教育係を仰せ付かっておきながら、ともに逃げ出しておきながら、全てが後手後手でこの有様。王都に出す顔などどこにあろうか。ジェフウトに戻り領地を片付ける他何をなそうか。宰相位など、もはやこの老いぼれには重過ぎようものを」
「では、正妃様だけお連れしろ」
 ナムが命じると日に焼けた褐色の肌の兵士が二人、マナの横に付き、小屋から出るよう彼女を促した。外には輿が用意されている。
 立派なものではないが、目立ち過ぎるよりはずっといい。マナは男たちに支えられて輿に乗り込んだ。


 どの州も沼を抱えているという地形から判る通り、下つ国では、たとえ収穫期シェムウ――またの名を乾期シェムウ――であろうとも、ナイルが干上がることは無い。播種期ペレトにあっては悠々と、上つ国の季節に喩えるなら、まるでまだアケトのさなかのように、河は流れている。
 帆船でナイルを南上したマナを出迎えたのは、王都として機能しだしたメンネフェルの町だった。僅かの間に旧メンネフェル公館は王宮のごとく作り変えられ、町には各地よりの人が集っている。
「驚きましたか」
「ええ」
 マナを驚かせたのはメンネフェルの様変わりした町並みだけではない。突貫とは思えぬほどの王宮や何十年もそうしているかのように馴染んだ露店の並びもマナを驚かせはしたが、何より、ウアセトとは対照的な、メンネフェルの民のセトに対する好意が彼女を幻影の中にいる心地にさせた。
 あちこちで、新王をメリィ・エン=プタハ――プタハ神に愛されしもの――と呼ぶ声が聞こえる。プタハはメンネフェルの土地神だ。町の建設が常に無く捗っているのは、類稀なる新王陛下が創造を司るこの地の神プタハ様に認められたからこそ。そういう良き噂がメンネフェルの町中で声を大に語り合われている。
 地上において神がその威光を示すことなど無いと考えているセトも、民の信仰までは否定しなかった。ナムがデプへ立つ直前にはもう、メリィ・エン=プタハを正式な通名にすると接見の窓から直々に発表している。
 ユギが似合わないと思った即位名、それを民がどう感じていたかは定かでないが、セトをメン・マアト=ラァと呼ぶものがほぼいなかったことが嘘のように、通名メリィ・エン=プタハは町の建設に関する賛美ととも、ことあるごと人の口の端に上った。
 マナは人々の声の中を姿の隠れる輿に乗って王妃宮へ向かった。輿の簡素さ故か王妃の不在を知らぬが故か、誰も、輿の中の人物がマナであるとは気付かなかった。


「正妃様が王妃宮へお入りになられました」
 ナムの声に、セトは壁の建設に纏わる経過報告書から目を上げた。
「ご苦労だったな。デプで見付けたのだとか」
「シモン様もそこではご一緒でした。宰相位を降りたいと、ジェフウトに帰られましたが」
「宰相位か……今暫くは預け置く。それよりもユギたちだ」
 アメン=ラァとともにいると推測される二人の王子。
「タァウイの現状を聞いたにも関らずアメン=ラァの許に行ったか。奴らの正しからぬ声が、ことほどさように人を惑わせるものだとは。知ってはいたが、想定外だ」
 シモンやマナがともにいる以上、アメン=ラァに見付かったとしてもすぐさま危機に繋がることは無いとセトは踏んでいた。だが、それがどうだ。ユギたちはシモンもマナも置いて二人でアメン=ラァの許へ渡ったという。
「捜索隊として扇状地にやった兵は今どうしている?」
「デプに行ったものたちは一緒に引き上げてきました。ザウや他州にやったものたちには続いて網を張らせています」
 セトは玉座の肘掛けを爪で叩いた。金が癇に障る音を立てる。
「見付かりはすまい。全員を、疾く疾くメンネフェルに呼び戻しておけ」
 何ごとかあるやもしれぬ。ユギたちがどこへ連れて行かれたのかも分からない現状、最悪の事態、つまり町の防備が手薄である壁の完成前に大きな戦いが起こる可能性を念頭に置いておかなければならない。全くもって、二人のユギを取られたのは痛手だった。アメン=ラァとその信者だけが相手ならこうまで悪い予想をすることも無かったものを。
 ナムは手を差し掲げて御意を得たと示すと王の間を退出した。警備が彼の出て行った扉を閉める。玉座に残ったセトは、普段の彼ならば品が無いと顔を顰めるような、舌打ちの仕種をしてみせた。
 セトの懸念は、数日後、現実になった。


 その朝、セトは玉座に座らず、黒い目墨を簡素に引いただけの顔で庭園にいた。タァウイの庭の様式として、そこは長方形に掘られた人工池を中心に柘榴が木陰を作り菜園に緑が芽を出すよう整えられている。まだ時期ではないが、少ししてシェムウに入れば菜園の緑は葉を茂らせ、アケトには池の上で首を伸ばした睡蓮や小さな白い薔薇、取り取りの花が競うがごとく咲き誇るだろう。
 セトは王宮から見た奥手、王妃宮との境近くへ行くと、菜園の若過ぎる葉を一枚無造作に毟り取った。乱雑にした所為で千切れたのは葉の上半分ほどだけだ。途中で切断された葉脈から溢れ出た白い汁が、セトの指を汚した。
 レタス。何故これを植えさせてしまったのか。
 生殖の神ミンに捧げられるその野菜をセトが口に含む。俗に精が付くだの媚薬だのと言われるものだが、一枚にも満たない量では効き目など現れない。本当は、多量に食べたとしても、精が付いたり淫らな気分になったりなどしない。精々眠りに付く真際のように思考力が鈍り少し動くのも億劫になる程度だ。
 しかし、その状態を抵抗されずいいようにできる状態だと思うのならば、他者への使用に関して、媚薬と呼ぶことはあながち間違いとも言えないのだろう。
 セトは苦々しい思いでその悪意に満ちた野菜から目を逸らすと、逸らした先に見付けた別の苦々しいものを、今度は視界から外さず睨み付けた。
「どうやってここへ入った」
「そこの、仕切りの閂が外れていたから……部屋の露台から姿が見えて、つい」
 しどろもどろに説明をしたのはマナだった。普通であれば、王と王妃が庭で鉢合わせることなど珍しくもない。広い庭園は、並び立つ王宮と王妃宮の双方からそこへ出られるのが歴代の当然だからだ。庭を半分ずつにする仕切りがあるなど異常なのである。
 だが、当代の王と王妃は不仲であった。婚姻が政略のものである時しばしば発生する相手への無関心を通り越し、特に王が王妃を、嫌っていた。
「セト様に、一言謝りたかったんです」
 柘榴の木に身体半分を隠しそう言ったマナを、セトは鼻で笑った。
「何をだ? たった一言で、いったいどれについて謝ってくれると言うのだ?」
「それは」
 窓から王の姿を見付けた時には、ユギたちの脱走に乗ってしまったことを謝ろうと思っていたのだ。けれども、どれについてと問われてしまうと、選ぶべきはその謝罪であるのか、マナには解らなかった。
 女は黙り込み、そしてあることに気が付いた。
「今日の目化粧は黒いんですね。まるで『昔』のようだわ」
 セトの瞳がその色のごとく凍り付いた。常の表情を押し込めるほどに太く濃く描かれた目墨と違い、簡素な細い縁取りは天青石の瞳が冷えるその様子を隠せなかった。
 柘榴が葉擦れを立て、甘い香りが二人の間を横断する。マナは香気を肺に吸い込み、精一杯に落ち着いた声を出した。
「謝ります。浮気も、不義の子のことも、ファラオを止めなかったことも、王子を止めなかったことも。だけど、全部、妻としては謝らないわ。夫の謝罪のあとじゃなきゃ、妻としては絶対に謝らないわ!」
「黙れこの小娘!」
 落ち着きを保てず、マナは最後の句を吐き捨てるように叫んだ。彼女は興奮していた。叫び返したセトもそうであった。
「何よ小娘って! 『昔』ならともかく、今の私は王宮域の女主よ!」
「喧嘩を売りにきたのなら帰れ! 女主の巣にな!」
 王妃宮を指差し、セトはそこを巣と呼んだ。
「何よ、何よ、私はちゃんと謝るつもりだったのに、セト様があんな嫌味を言うから!」
 誰が謝って欲しいと言った――そう返そうとしたセトを遮って、無遠慮なナムの声が庭園に落とされた。
「お取り込みのところ失礼を。イウヌウから急を要する書簡です」
 ナムの持つ金の盆に、紐で丁重に丸められたメフウ紙の巻物が鎮座している。セトは大股に歩み寄ってそれを引っ手繰った。
「神域都市のイウヌウが何の急を要する。聖牛でも死んだか」
「いえ」
 紐を解き今にもメフウ紙を広げようとしているセトに向かって、そしてその奥にいるマナに聞こえるように、ナムは急の意味を告げた。
「使者は、宣戦布告の書だと」

    聞け! 真に正しき二国の継ぎ手、今は死して冥界の王となりしウシル=アテムの息子、ホルの歓喜とともにあるものユギ陛下が、偽りの妄王にのりたまわす御言を!

 序文だけ読んで、セトは不快感に眉を寄せた。文面は、様式通りに聖刻文字で記されていたが、ユギ本人ではなく代筆書記によってのものだった。

    妄王よ、そなたの定めた都もまた偽りの都である。
    マアトに適わぬ都は飢えに苦しみ疫病に苦しみ民を失って朽ちるが道理。
    メンネフェルの名は形無し、全て汝が業の故。
    我、聖都イウヌウにて神々の御判断を仰ぐに、かく仰せられし。
    偉大なる雄羊の生き神バ・ネブ・ジェデト、尊き太陽の母なる牝牛の神ネイト、その他数多の神々がウシル=アテムの子ユギを認めん。いざ妄王を引き倒し縄目に掛け、偽りの都の白き壁を打ち壊した欠片でもって石打ちの辱めを受けさせよ。
    聞け! 我は神々の意に従いただちにそなたと戦わん。
    壁を打ち砕き、丘を踏み崩し、次のアケト偽りの都を水に沈める準備をせん。

「数週……いや、早くて数日の内に開戦だな」
 セトはナムにメフウ紙を返し、庭園を王宮の側へ戻っていった。
「使者を帰し、黒蛇たちと将官を王の間に集めて待っていろ。一度部屋に戻ってからすぐに行く」


 王の間に着いた時、セトの瞳はもう、孔雀石をすり潰した緑の目墨に覆われていた。太く濃く描かれたそれは典雅な雰囲気を顔に張り付かせ、先程の激情も何もかも、人々の目から隠している。
 玉座に座り、さて、とセトは男たちに声を掛けた。
「イウヌウから宣戦布告の書が届いた。差出人はユギだ。後ろ盾は恐らくアメン=ラァ」
 辺りがざわついた。イウヌウ。扇状地の南端と言ってもいい土地だ。近過ぎる、ウアセトからではないのか。
「開戦を急いでいる様子から見て、兵力はそう多くあるまい。大仰に書いてはいるが、諸侯らと戦う気は無いのだ。船で直接ここに乗り付け、私の首一つを取りに来るだろう」
「ではすぐに近隣の諸州へ兵を出すよう布告を」
「そのつもりだ。ケムに足止めをさせ、その間にプトケカァやザウから兵を呼ぶ」
 セトは書記官に退出して徴兵の布告を書くよう指示を出した。残る男たちには今回の戦いで敷く布陣と各隊の指揮を誰に任すかを告げ下がらせる。
 凡その男たちが退出したあと、ナムが一人玉座に近付いた。どうしたとセトが怪訝な顔をする。
「アメン=ラァと武力で衝突する羽目になるなんて。神妻様のことは、どうするつもりですか」
 ウアセトでアメン=ラァの影響下に残っている筈の女のことをナムは尋ねた。
「アイシスか。どうもあるまい、向こうの出方しだいだ」
 セトが玉座から立ち上がる。一つ手を打って歩き出すと、衛兵が重い扉を開けた。
「お前は、昔からあの女に拘るな」
 部屋を出る真際、セトが何気なく口にした疑問にナムは肩を揺らした。
「……ボクはあの人の気持ちが一番理解できる」
 返答にセトは疑問が増したとでも言うように首を傾げてみせたが、特別その意味を問うことも無く、王の私室へと戻っていった。


<BACK NEXT>

メリィ・エン=プタハ:「プタハ神に愛されしもの」の意。プタハはメンネフェルの主神。
イウヌウ:地名。ギリシャ語読みヘリオポリス、現カイロ。下エジプト扇形部東南の都市。
ジェデト:地名。ギリシャ語読みメンデス、現テル・エル・ルバア。下エジプト扇形部中央東寄りの都市。
ウシル=誰それ:仏教でいう戒名や、故誰それのような言い方に近いもの。
ケム:地名。ギリシャ語読みレトポリス、現アウシム。下エジプト扇形部西南の都市。
プトケカァ:地名。ギリシャ語読みノークラティス、現タンタ。下エジプト扇形部西南、ケムの北の都市。