セネト・パピルス 13
2009/1/7


 実際にユギの軍がイウヌウで挙兵したのは、メンネフェルに布告の書が届いてちょうど一週、十日後のことだった。軍は船でナイルの東支流を南上し、セトの策の通りケムからの徴集兵が扇状地南端でそれを迎え撃つこととなったが、ここで一つ誤算が生じた。
 数に勝る筈のケム軍が、ユギ軍に圧倒的敗北をしたのである。
「ユギの軍はほぼ無傷で本流へ入っただと」
 メンネフェルは慌ただしく計画の修正に迫られていた。民は皆いまだ未完の壁の内へ避難を始め、常設の正規軍は間も無く到着するだろうユギ軍の上陸を防ぐべく水上戦の準備に掛かっている。
「報告によれば敵軍は船の一つにアメンの神妻を乗せ、それを盾にケム軍を中央から突破したそうです」
 信仰心がケム軍の切っ先を鈍らせた。神に仇なす恐怖に、彼らはただ退却する他なかったのだ。
「正規軍の方々は大丈夫で御座いますか」
 第一隊長の問いに、セトは苛ついた様子で何がだと返した。
「タァウイの方々は信心の深過ぎる節があるようにお見受け致しましたが、アメンの神妻を見てケムの二の舞ということは」
 ケムで巧くいった戦法を、ユギは再び取ってくるだろう。戦いの前の宣誓で、つまるところ両軍の将が罵声を浴びせ合い双方の敵意を確認する儀式で、ユギが何を言ってくるか。神を持ち出されれば、たじろぐ兵が出るかもしれない。
「そなたらがいてくれて心強い。そうとしか言えぬ」
 セトは真黒い肌のプント人たちに向けて力無く言葉を紡いだ。異なる神を信仰する彼らがアメンの威光に怯むことはない。確かなのはそれだけだった。
 その時、王宮域に重い角笛の音が響き渡った。その音を聞いた全てのものが、頬を強張らせ、周囲と視線を交し合う。
 角笛は、ユギ軍がメンネフェルから目視できる位置まで上ってきたことを意味していた。


 セト軍がナイルに船を浮かべ、メンネフェルを背後に護りの布陣を敷く。進路を遮られたユギ軍は、セトたちの前方に間隔を置いて船首を並べた。
「水上戦か」
 タァウイでは、意外なことに、珍しい戦法だった。上陸時を狙って叩いてくる半陸戦を想像していたユギは驚きに深く息を吸い込み、戦士らしく剥き出しにした褐色の胸板を膨らませた。驚きに、だが、その様子は堂に入って余裕あるものの仕種に見えた。
「上陸されては防ぎ切れないと判断したのでしょう。ケムの件で援軍の期待も断たれたのかと」
「ふん、それでも戦うか。馬鹿な奴らめ」
 ユギは敵陣中央の船にぼんやりと見えるセトの姿を見付けた。王の戦場での装いである青冠を被り、ユギと同じく胸には何の覆いも着けず白い肌を剥き出しにしている。
「もう少し間合いを詰めろ。宣誓をするぞ」
 ユギの言葉に傍にいたアメン=ラァの男が二人別々の場所へ走った。一人は船の舵取りの下へ、もう一人は神妻の下へ。ユギはケムでしたのと同じ手をメンネフェルでも使う気であった。
 ユギ軍の船が迫ってくるのに、セトも宣誓を行うべく船の先に立つ。
 ナイルの流れは緩やか、風は少し強い。下流からの攻め手に、ユギ軍にやや有利だ。
「見ろ、あれを!」
 先に声を上げたのはユギであった。
「仮にも国家の軍を名乗っておきながら、指揮官は皆ペスジェトばかり! おまけに王を名乗るものの姿はどうだ。生白い、後宮女のような貧弱さではないか!」
 ユギの軍がどっと沸き立つ。一瞬気圧されそうになり、セトは急いで宣誓を返した。
「見よ! 真に正しき二国の継ぎ手を名乗るもの、どれほどのものかと思うたら、ただの小さな子供であったぞ! 妻の一人も持たぬ身で、ようも一人前のような顔をしていられるものよ」
 今度はセトの軍が笑い声を上げた。ユギは眉を吊り上げ、甲板を一度踏み鳴らして次の句を継いだ。
「赤き肌のものたち! タァウイのものたち! そなたらを同胞と思って言ってやろう。我が方には神々のご意思あり、我が船には偉大なるアメンの神妻様あり。そなたら神に仇なす気か? 退くなら今だぞ!」
 セトの軍が揺れた。
「騙されるな! あんなものは戯言だ! マアトはこちらにある!」
「同胞たちよ、考えるがいいぞ! そなたら、神に弓引き死後の復活を諦める覚悟はあるのか!」
 ケムはこれで恐怖に陥ったものが出て指揮系統が滅茶苦茶になり落ちたのだ。
 極め付けとばかり、ユギは後ろにひっそりと侍していたアイシスの腕を引き自分の前に立たせた。本当に現れた神妻の姿に、セトの軍が動揺に包まれた。
「嫌だ! 死後の国でアアペプに魂を食われるのは嫌だ!」
 一人が口に出すと、あとは済し崩しであった。
「腰抜けどもが!」
「陛下、動揺したものは捨てて気力のあるものだけにでも指揮を」
 数人のプント人にそう言い寄られ、セトは石笏を翳して声を張り上げた。
「投石器! 前列の船は投石器を使え! 後列の船は岸に向かい弓を番えて待ち、奴らが上陸したら一斉に射掛けるのだ!」
 セトの指揮で岩とも言える大粒の石がユギ軍に投げ掛けられたが、その数は少なく、飛ぶ間隔は疎らであった。石はどれもが敵方の船に届く前に落ち、ナイルの水面に波紋を広げた。
「見たか!」
 ユギはさも愉快そうに囃し立てた。
「掠りもしない! 見たか九弓の民ども! これが神々のご意思だ!」
 ユギが手を高く上げると、空に新たな石つぶてが飛び立った。全て、ユギの軍から撃ち出された石であった。初め小さく見えた石は、見る見る大岩と化してセト軍の上に降り注いだ。幾つかの船は甲板や横板を破られた。
「怯むな、船を進めろ! 射程の差が無くなる距離まで近付いて応戦するのだ!」
 双方の船が相手方に向かって突き進む。勢いはユギ軍が勝っていた。前列の船はぶつかり合い、衝撃で舳先を折った。
「弓っ」
 不安定な船の上でセト軍の兵士たちが矢を射る。船から船へ乗り移ってこようとしていたユギ軍の兵士が、ばらばらとナイルに転落した。
「慌てるな! 二射目までには間が空くぞ、今の内に白兵戦に持ち込め!」
 青銅の剣を振り回してユギがセトの船に飛び移った。ユギを止めようとした黒蛇たちを、ユギ軍の槍兵が逆に止める。両軍が入り乱れる船上を、ユギはセト目掛け一直線に駆け抜けた。
「陛下、速く後方の船へ」
 第一隊長に急き立てられ、セトは撤退用の後方船に移ろうとしていた。
「逃がして堪るか! 前衛、前衛! もう一度船をぶつけろ!」
 ユギが振り返って叫んだ。先程までユギの乗っていた船が、折れた舳先をセトの船に刺したまま向きを変える。ただでさえ不安定な足場が大きく揺れた。
 あっ、と、声が上がった。顔を前に戻したユギの視界で、青い軍帽が宙を舞った。
「セトが落ちたぞ! 誰か仕留めろ!」
 ナイルに沿って、セトは下流へ、ユギ軍の側へ流された。溺れそうになりながら、セトは一隻の船の艫から垂れ下がっていた麻縄を掴んだ。味方の船ではなかった。セトの頭上に人影が出来た。
「私を討つか」
 人影はアメンの神妻だった。アイシスはうろたえつつも周囲を見回し、船に備え付けてあった銛を手に取った。使い古された様子の先端が、太陽の光を受けて鈍く輝いた。
「どうしてわたくしを置いていったのです。それは危険だと言ったでしょう」
 そのようなことを言われた覚えは微かにも無い。アイシスの声は責めるような響きだったが、セトはそれを責められる謂れなど無いと思って聞いた。
「いつ」
 問い返しに、アイシスは息を呑み、水に浸かったままのセトを凝視した。
「手紙を――手紙を見なかったの」
「届いていないな」
「そんな。あぁ、なんてこと」
 アイシスの銛を持つ手が震えた。あれだけ警戒して出した手紙が届かなかったことに、彼女は考えの甘さとアメン=ラァの恐ろしさを思い知らされた。
 顔色を無くした女に、セトは仕方あるまいと呟き掛けた。
「届かなかったものは仕方あるまい。起きてしまったことも。もうどうしようもあるまい」
 殺せ、と野太い声が飛んだ。お助けしろ、とも聞こえる。セト側の船から、兵士たちが互いに邪魔をしつつ二人の下へ向かって来ていた。その中にはユギもいるようだった。
 アイシスは銛を握り直した。震える手で、それを構えた。
「やはり我が子は可愛いものか」
 アメン=ラァの脅威を解っていても?
 セトが言葉にしなかった先を、アイシスの耳は聞いた。唇を戦慄かせ、しかしアイシスはええと頷いた。
「ならばよかろう」
 アイシスが銛を投げ込もうとしたその時、セトは醒めた瞳はそのままに口の端だけを吊り上げて歪んだ笑みを作ってみせた。濡れてみすぼらしくなった身と相まって、効果的に、その笑みはアイシスの心臓を揺さ振った。
「私を欠片も憐れに思わぬのなら殺せ」
 セトが続けた言葉に、アイシスはびくりと身体を振るわせた。今にも開くところだった彼女のてのひらは、石にでもなったかのように固まった。
「私を、欠片も憐れに思わぬのなら殺せ。かつて王座の守であり、後宮の主であり、酷き男の正しき妻であった……言うなれば義姉よ。私を、欠片も憐れに思わぬか?」


第二章 水際の戦い 終


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一週、十日後:古代エジプトの暦は十日で一週間、三週間で一ヶ月、四ヶ月で一期、三期で一年、一年とどの年にも期にも月にも週にも属さない日(付加日)の五日を合わせて一巡りになる。一年の始まりはナイルの増水が始まる日で、今の暦だと七月十九日(ただし閏日を計算に入れる生活暦のみの話で、閏日を計算しない宗教暦は年々ずれていく)(作中時代のずれは些少)。付加日は年末に付く。
アアペプ:アポピスの名で知られる怪物。原作ではリシドのデッキに入っていた。
九弓の民:古代エジプトに敵対する(弓引く)、九つの国の民。ペスジェト。古代エジプトの九は「たくさんの」という意味を持つため、実際に九つの敵国が存在したかは問題でない。