セネト・パピルス 14
2009/1/19


 アテム・アメン=ヘテプがその母の家アンジェティではなく国の家を名に連ねるようになったのは、成人の証として髪房を切り落とし、いずれ神に仕える身として己自身に割礼を施されてから、僅か二年後のことであった。先の王アクナムカノンとジェドゥ公家より出でた王座の女の間に嫡子として生まれた彼は、父王の病床に伏したるを契機に、何の困難も無く次期王の座、王との共同統治権を手に入れた。
 その頃に端を発し、のちにタァウイを二つに分ける争いへと続くこの話が、初めから終わりまで見い出され聞きい出された通りに記されると、我が神と領地に懸けて誓う。


第三章 メリィ・イ・セシェン (前編)


「偉大なる王の隣に座られる御方、アメン=ヘテプのアテム殿下にはお初にお目見え致します」
 その年、新たに王の傍近くへと召抱えられることとなった若い神官が、アメン=ラァの大神殿から王宮へ送り込まれてきた。アクナムカノン王の病状は重くなる一方、せめて死後の国への不安無きよう、優秀な神官が冥界に対する王の疑問を解くという建て前である。
 要は死に掛けた老王の話し相手なのだろうと、少し憐れに思いながらアテムはその神官を見た。
 王宮に出入りするものとしては質素な厚い亜麻の肩衣、硬い黒髪を短く揃えたクシュ風の鬘。どこにでも見受けられそうな格好だが、その装束の凡庸さが、王の間に置いては余計に彼を目立たせている。
 若く見えるが自分よりは二つ三つ年上だった筈だ。それで要職ではなくこのような任に就き、身を飾り立てることもしないとは、市井の出か何かか。それならばもはや政とは無縁の老王に侍すとて、本人にとっては大出世に違いない。
「神官、神官、ああ、何と言ったか」
 つと興味を覚え、アテムは事前には聞き流した彼の名を問うた。日に焼けない性質なのか外出を好まないのか、やや薄い褐色の腕を差し翳して若き神官が答える。
「セトと申します。ウェジュの守護者アクナディン様の命により、大神殿の次席神官ヘイシーンの紹介を経て参りました」


 程無くして、ウアセトの広場に、壁という壁に、アクナムカノン王崩御の報せが貼り出された。静かに訪れたという王の死にアテムは居合わせることができず、セトもそうであったらしいが、しかし彼が病床の間に出入りしていた内の一人であることには違いない。死後七十日目の、ミイラの完成を待って行われる王の葬儀には彼も呼ぶようにと、アテムはこれまで父の宰相であり今後は己の宰相となる老爺に指示を出した。
「あのものを参列させるのですか」
「何だ、不服かシモン」
 シモンと呼ばれた老爺が、その老いを誤魔化すどころか引き立てている口許の覆いに手をやる。
「不服というわけでは御座いませぬが……あのものは神殿の所属ですので、当日は葬儀を進める裏で忙しくしているのではないかと」
「裏方仕事くらい誰でも代わりがいるだろう。神殿にもそう伝えておけ」
 アテムは玉座から腰を上げると――正式な即位はまだであったが、既に彼は玉座を我がものとしていた――宰相の止めるのも聞かず王の間を飛び出した。
 若い王子にとっては、父王の死を悼むよりも、新たな興味を追い求める方が、ずっと魅力的だった。一つだけ彼を擁護しておくと、それは親不孝の心から出るものではなく、ウアセトの王族にありがちな篤い信仰心故である。
 タァウイの信仰によれば、皆、本当の意味で死ぬことは無いのだ。唯一の例外は汚れて重くなった心臓の持ち主、つまり罪人で、そういったものは冥界で裁きを受け魂を失うとされているが、それも王にはあまり関わりの無いことだった。神に連なる王は、神々の行った一切の模倣を許され、そしてタァウイの神々とは善良なる神だけで構成されるのではない。
 王は通常責められるべきマアトに外れたる行いさえ罪に問われず、この世での生を終えたのちにはイアル野へ、タァウイ人の話に依れば涼やかで香りに満ちた風がイグサの原を揺らす地、喩えて言うならプントのような地へ、移り住むとされる。
 どうして死を悼む必要があろう。嘘も盗みも命を奪うことも姦通も――特に不道徳を糾弾される近親や同性での姦通も――許される王が、それ以上の悪徳を働くには何をすればいいというのか。この度の別れは暫しの別れに過ぎぬ。アクナムカノン王も、そして即位の決まったアテムも、数年か数十年かののちには、再びイアル野でまみえることが決まっているのだ。
 それ故、王子の心臓は哀しみから護られ、好奇に脈打っていた。
 僅かに年上の、風変わりな神官。今にして思えば生粋のタァウイ人ではないのだろう。ほっそりと伸びた手足、この国では好まれない神と同じ名。アテムの心境は、珍かなる異国の献上品を前にした時と似ていた。
 例えば小柄な身で愉快な踊りをする森小人の老人、色薄く儚い容貌のケフティウから来た奴隷、去勢された美しいシュメールの若者。
 アテム・アメン=ヘテプはその浮ついた心のまま神殿へ向かった。かの神官はアクナムカノン王の死で王宮での役目を終え、アメン=ラァの大神殿に帰っている。
「先頃父の許に仕えていた神官セトと話したい。今ここにいるか?」
 問われ、大神殿の門兵は顔を空に傾けた。
「この時間ですと清めの沐浴がちょうど終わった頃合でしょうから、高位の神官様方は、皆いらっしゃるかと思います」
 門兵の言葉にアテムはその形の良い眉を寄せた。
「高位?」
 書記学校上がりの下級神官辺りではないのかと、別人と間違えてはいないかを再び門兵に問う。
「この神殿、セトと申される方は、次席神官ヘイシーン様の補佐官一人きりだと聞き及んでおります」
 運がよければ大神官にも届く地位ではないか。初め、王宮へ来たのはヘイシーンの紹介だと言っていたことを、アテムは思い出した。王宮の様子を探りに来たのだとは考えなかったが、王の変わり目に名を売りに来たのだろうかと考えた。
「そうか、それならばこちらの思い違いだろう。して、そのセトならば今この神殿内にいるのだな?」
「回廊を抜けて右手奥に、専用の間を持っておられます。誰か、ご案内を」
 男は神殿の扉を開きながら中のものたちに声を掛けた。
「いい、下がれ。案内は不要だ」
「しかし」
「右手奥と言ったな。何、分からなくなればその辺を歩いているものでも捉まえて聞くさ」
 戸惑う男たちを他所にアテムは一人歩き出した。回廊が、どれほど複雑であるかは知らぬ。だがどのような迷宮も法則によって抜けられぬものは無く、そしてこの奔放な王子は、そういった法則を解くのを好んでいた。
 砦でもあるまいに長く入り組んだ回廊を抜けると、アテムの姿を認めた位の低い神官たちが皆揃って地に伏した。額づく彼らの間を通って右奥へと進んでいく。突き当りの扉の前には、セトと同じクシュ風の鬘を被った女たちが控えていて、アテムを見ると細い腕を賛美の形に捧げ出した。
「セトの部屋はここか」
「はい」
「セトは中にいるか」
 はい、と女はもう一度頷いた。頷き、しかし今はお会いになられませんと言い足す。
「何故だ。王宮から次代の王が出向いているのに会わぬとは」
「お怒りご尤も、ですがほんの少しお待ち頂けますようお願い申し上げます。神官セトは先ほど沐浴を終えられたばかり、まだ人に会う支度ができておられないのです」
 女たちが剥き出しの胸乳の前で腕を組み殊勝に頭を垂れたが、それに構わずアテムは扉に向かい歩を進めた。
「アテム様?」
「沐浴自体はもう終えたんだろう。多少格好が軽微であろうと気にはせぬ」
 アテムが戸に手を掛ける。女たちは、恐らく今までにこのような強引さを経験したことが無かったのだろう、戸惑った様子で王子の顔を見詰め、彼に引く気が無いと分かると、途端に目の下を青褪めさせた。
「あぁアテム様、お慈悲で持ってやめて下さいませ。決して人を入れてはならぬと申し付かっているのです。わたくしたちの首が刎ねられてしまいます」
「案ずるな、我が方が刎ねぬよう申し付ける」
 女の一人だけがなおも入らぬよう訴えたが、王子の耳は好奇心で塞がれていた。白木の扉は豪奢に金環を着けた褐色の腕によって開かれ、女の悲鳴を遮るかのよう、アテムを招き入れて無慈悲に閉じられた。
「セト」
 呼びかけに答える声は無い。アテムは訝しみ、部屋の中を大股に横切った。
 かたりと、小さな音が聞こえる。幾重にも垂れ下がった幕の裏から、音が立った。
「セト。いるのか、何故答えない」
 ざっと、乱暴に、アテムは幕を薙ぐようにして開いた。おやめを、と、懇願は間に合わなかった。
「……驚いたな。『それ』はどうなっているんだ?」
 褐色の指が、セトの肌を差した。やや薄い赤の肌と、ケフティウ人やメチェン人もかくやという白の肌の境目を、アテムの指がなぞる。セトの肌は、斑であった。
「それに、その髪と瞳。この間会った時は前髪の重たい鬘で分からなかったが」
 洗い立ての、濡れた鳶の羽のような色彩の髪が、セトの白い額に張り付いてた。羽の合間から覗く瞳は伏せられているが、その縁に揃う睫毛も、黒ではない薄い色をしている。
「閉じるな。目を開けてみろ」
 アテムの命に、セトは従った。ゆっくりと瞼が持ち上がり、やや灰がかった青の瞳が現れる。
「睡蓮のような色だな」
 のちに冷えた石のようだと言われることとなる瞳を、このいまだ王ならざる王子はタァウイで最も美しい花に喩えた。原初の水から生まれ太陽の鼻先で開いた青睡蓮は、しかし再び花びらを閉じる。
「褒めてやったのに何故目を瞑る。まあいい、それで、この肌はどういうことだ?」
 アテムはセトの腕を取った。薄い褐色の皮膚が捲れ、その下に白い肌が見えている。有り得ない光景、だがそのように見えた。
 捲れた皮膚に見えた部分は、アテムが触るとぼろりと崩れ、石畳に落ちて粉とも塊ともつかぬものになった。
「白い方が地か」
 それは、褐色の色粉に少しの油薬を加えたものだった。本来の肌――数代前より不吉の象徴として忌み嫌われている白い肌の色を隠すため、セトが日々その身に塗り込んでいる練粉。
「どこの血だ? ケフティウの奴隷上がりか、ハトウアレトの移民か、それとも」
 思わせ振りに、大エジプトの支配者は言葉を切った。それとも、のあとに続く言葉は、当時のタァウイ人ならば簡単に推察できただろう。
 ヌブトびと。
 アテム・アメン=ヘテプの王朝で白き肌が迫害される理由そのものである。
 本来タァウイ人に、外見の違いで差別を、更には区別すら、する習慣は無い。肌の色然り、髪の色然り、ナイルの流域に住みナイルの水で生きるものたちは皆一括りにタァウイの民とされる。
 ヌブト、上エジプトの富裕州の公家であり、前王朝の間を通して異国の貴人たちとの政略的婚姻を繰り返しもはやそれらの民同様の容姿を持つに至った族の血筋も、アメン=ヘテプによる簒奪王朝が成るまでは、肌の色を隠すこと無くいたのだ。
 彼らは前王朝の王家と深く繋がっていて、つまり、かの簒奪の折政権争いに敗れたのだった。
 勝者たるアメン=ヘテプの完璧主義であったこと。ありとあらゆる記録から前王朝の存在を削り取り、国都を遷し主神を選び直した。異国の妃たちが前王朝を駄目にしたのだと己の簒奪を正当化し、異国を思わせるものの排除に熱を傾けた。
 異国の趣を取り入れた旧都アケタテンは廃墟となり、前王朝寄りであった上に異民族と血を混ぜ異国的な容姿を持っていたヌブトの人々は、白き肌の目立ち過ぎるが故にその時代をやり過ごすこともできず、王宮から完全に退けられた。
 王の行いは民にまで波及する。その頃には細かな政治事情など知りもしない民衆によって、ヌブトという族の単位ではなく、白き肌や青き瞳それ自体が、不吉と呼ばれることとなっていたが。
「お察しの通りかと」
 間を置いて、セトはそう答えた。どこの血か。ケフティウにもハトウアレトにもあらず、アメン=ヘテプの王子の察する通り――
「言うべきことはありません。大人しく所領へ送還されましょう」
 領土を持つもの、その中でこのような容姿の族は一つ、ヌブトの他に無い。
「公領へか。随分と良い土地らしいな。金が出て紅海への道も開けているとか」
「私を詐術の罪に掛け領地没収にでもしますか」
「いや」
 指に付いた色粉を払いながら、アテムは先ほど自分が乱暴に開け入り込んだ幕の内から出た。
「黙っていてやるさ。公領へ戻る必要も無い」
「何故に」
 セトが眉を顰め、気まぐれと見える言葉への警戒心を露わにする。
「お前を気に入った故だ。幾ら肌を隠したからといって王宮へ乗り込んでくる肝の豪胆さ、それからその見目と。ああ、父のことで恩があるというのもだな」
「恐れ多い。恩に思われるほどのことは何も」
「近い内に正式な使者が向かうだろうが、王の葬儀にはお前を呼ぶぞ。日の下に現れるための儀を任せてもいい。恐れ多いなどと言って断るなよ」
 今更ではあったが、セトは床に膝を附き臣下の礼を取った。アテムがそれに満足そうな微笑みを浮かべる。
「今日のところは、帰るとしよう。ああ、そうだ、扉の前にいたのはお前の侍女たちか?」
「何かご無礼でも?」
「いや。我が身を部屋に通したことを不問にしてやってくれ。止めるのを無理矢理入ってきたからな、自分の所為で人の首が飛んでは気が引ける」
 悪戯っぽく首を竦めて言い、それからアテムは来た道を戻っていった。扉の閉まる音を聞きセトが立ち上がる。
 一人になった部屋で、セトは年若い王子によって中断されていた、練粉で肌を覆う作業を再開した。白い肌が見る見る染まり、平均的なタァウイ人に比べれば幾らか薄く、しかし褐色と呼ぶに差し支えの無い肌へと変わっていく。瞳の周りには黒い目墨が引かれた。光を吸うその化粧法は虹彩の青を目立たなくする。
 タァウイの水気無く暑い空気が、それら僅かの間にセトの髪を乾かしていた。さやかに鳴る亜麻糸のような髪の上に硬く黒い毛の鬘が被せられる。
 ヌブトのセトは、部屋から消え失せた。


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クシュ:当時のエジプトの属国。エジプトの南に隣接。クシュ風鬘は十八王朝で流行った。
森小人:ギリシャ語でいうところのピグマイオイ。
ケフティウ:恐らくクレタ。エジプト北部、地中海の島。
シュメール:メソポタミア文明域。国としては既に滅んでいる(異説あり)が、楔形文字によって記される言語系のみのちのラテン語のような状態で残っている。
メチェン:所謂ミタンニ。エジプト北東、メソポタミア地方の国。