セネト・パピルス 15
2009/7/20


 一週と経たぬ内、アテムは本当に、セトの許へアクナムカノン王の葬儀において日の下に現れるための儀を任すという使いを渡した。日の下に現れるための儀は、王が死後の国で何不自由無く暮らすためには必須の、重大な儀式である。本来葬儀全体を取り仕切る神殿の長がなす大役であったが、僅かな間とはいえ王の傍に仕えていたセトにという王子の意向は、ほんの少しの落胆ととも大神官に受け入れられた。
 それらを伝えに来たのは、セトと同じ年頃と見える、王宮神官の一人であった。神殿で神に仕えるのではなく、神の化身たる王に仕えるもの。言い換えれば王の側近、今は特殊な七十日の期間であるからして、王子の側近となるものである。
 アテムがわざわざ側近を遣わしたのにはわけがあった。儀式の他にも、使者はもう一つ、別な命も持っていたのだ。
「私を王宮神官に?」
 王の代替わりに際して、アテムは王宮の人事も幾らか入れ替えるつもりでいた。今やって来た使者もまた、元より王宮にいはしたが、此度の刷新で肩書きを一つ増やしたものである。彼は、もう一つの命として、セトを王宮神官とする旨を伝えた。
「王子は王宮と神殿の繋ぎを欲しておられます。神殿出身のものを傍に置きたがっていらっしゃるのです」
 その言葉はどの程度真実であったろう。セトは、先日己の王宮行きを手配した老翁アクナディンはどうしたのかと使者に尋ねた。彼の老人も王宮神官の一人であり、王子の欲する繋ぎとして、これまで働いていたのだ。
「あの方は、自ら、もう年故誰か若いものに役割を一つ二つ譲りたいと仰ったとか。王宮神官としては、残留されていらっしゃいます」
「では私は穴埋めか」
 冗談交じりに、セトは笑って言ってみせた。使者が慌ててそういうわけではと否定する。
「何か疑問があるようであれば王の間へ連れてくるようにとの王子のお言葉がありますが、いかが致しますか」
 セトは少し考え、それから、会おう、と答えた。
 使者に連れられ王の間に出向いたセトを迎えたのは、侍女に駝鳥の羽の扇で風を送らせ、機嫌良く王座に腰掛けている王子の姿だった。セトたちの姿を認め、彼が金の椅子から上体を乗り出す。
「おお、マハード。よく連れてきてくれたな」
 アテムは、セトを案内した使者にそう声を掛けた。マハードと呼ばれた青年が石畳に膝を附く。セトも、追って彼の横に礼を取った。
「あまり堅苦しくなるな。さて、ここに来たということは、何か聞きたいことでもあるか」
「いえ」
 どう話すか悩んで一拍置き、セトは直接的な方法を選んだ。
「王宮神官の件ですが、私には神殿の奥深くが性に合っております故、辞退させていただきとう御座います」
「ほう」
 アテムが、わざとらしく感嘆の息を吐いた。
「断れるのか?」
 とんとん、と、彼は指先で自分の腕を叩いた。褐色の、筋肉を覆って張り詰めた肌が、セトの目に映る。アテムはセトの視線を確認すると、僅かに爪を立て、己の皮膚を引っ掻く真似をしてみせた。もし同じことをセトがすれば、色粉は剥げ落ち、隠されたヌブトの血が明らかになるだろう。
 傍にいる侍女やマハードには王子が何をしているのか判らなかったが、それは、この話が既に打診ではなく命令であると、セトに伝える行為であった。
「悪い話ではないだろう。日に三度も儀式があって、一日中清めの沐浴で水に浸かっているも同然、折角王都にいながら朝から晩まで暗い神殿の中。そんな生活よりも、王宮付きになって、やれ今日は陽が高いだの風が強いだの言いながら過ごす方が、楽ではないか。『これ』に関してもな」
 再び、アテムは自らの肌を指先で叩いた。清めの度色粉を塗り直すのは面倒だろうと言いたいのだ。やり方は大国の王らしく傲慢であったが、彼は彼なりに、自分の気に入ったものを良きように扱うべく考えていた。実際のところは、日に何度も塗り直す方が時間の経過による偽皮膚のひびやこすれ痕を誤魔化しやすいものだが、生粋のタァウイ人であり色粉など必要としないアテムがそれを知らぬとも無理はない。
 セトは、それについて説明しなおも断るか、黙って厚意だろう命を受けるか、迷って、暫し沈黙した。セトがその時どうするべきであったかは、結局のところ判らない。しかし、結果として、彼が選んだのは後者であった。


 七十日目が近付くにつれ、王宮の新人事が明らかになっていった。アテムの選んだ王宮神官は六人、先代アクナムカノン王と同じ人数であるが、その人選は人々を大いに驚かせた。
「王子、これでは少し神殿に寄り過ぎではありませぬか」
 王の書記長、宝庫長、穀倉の監督官、印章の管理者、マアトを判ずるもの、大宰相職とともにその菜料地ジェフウトの神がごとく大量の名誉ある肩書きをそのまま名乗れることとなったシモンは、新人事に対してそう意見した。
「アクナディン殿にセト、神殿上がりのものが二人も。おまけに王宮判事長には神域都市イウヌウの大裁判所からシャダを呼び戻すですと」
「問題があるのか? シャダは元お前の生徒だろう。優秀だと話していたではないか」
「しかし……先代から続投で此度王墓警護隊長となったマハードも、本業は祈祷やら魔術やら神の御技を扱うもの。後宮の管理者は、王宮神官の一人に数えられるものの、実体は貴方様の王座の女に与えられる名誉職。これでは真に王宮の僕たるのは民事判事長のカリムただ一人ということになるではありませぬか」
 王の側近六名の内四名までもが王の他に仕える神を持ち、一名が王すら敵わぬ地位にいる。シモンには、この異例の事態が酷く危ういものに思えた。常には分離されるべしと考えられている行政、祭儀、軍が、全て彼らに集められている。兼任という言葉の下、行政にも軍にも、本来祭儀のみを職とする筈の神殿神官が入り込んでいる。
 王都ウアセトの主神アメン=ラァを奉る大神殿は、長い時を掛け少しずつ勢いを増してきていた。王に勝るとも劣らぬ財をその石造りの身の内に溜め込んでいるとも聞く。これ以上肥大させてはいずれ王権を脅かさないとも限らぬのではないか?
 だが、次なる王アテム・アメン=ヘテプはシモンの疑念を一笑に付した。
「考え過ぎだ。あれが奉っているのは我が族の神だぞ。同じ神を戴くもの同士、争う理由など無かろうが」
 アメン=ヘテプの王朝時代を通じて、その考えがウアセトの王族たちの間に蔓延っていた。彼らには、地上を統治するのは人であるという意識が、もう長らく欠けたままになっている。
 神官たちが言う。神の像が頷かれた、ことをなすべし、と。或いは、後退りされた、ことをやめるべし、と。それが神の言葉でなく神官たち自身の言葉であるということを、王は忘れている。タァウイの信仰や神々を否定するのではない。ただ、少なくとも今のウアセトにおいて神の像が動くのは、そう動けば都合が良いと神官たちが思った時だけである。
 王の都合と大神殿の都合が、いつでも合致するだろうか。一極に集中した権力が、まともに機能するだろうか。争う理由など幾らでもあるのだ。たとえ王の眼にその真実が見えていなかろうとも。
 しかし、シモンもまた強くそれを説くことはできなかった。神の像が動く筈など無いと言えるほどには、老宰相は信仰に背を向けていなかったのだ。


 そして、アクナムカノン王の死後七十日目が訪れた。この七十日の間に王は永遠の肉体を得、すなわちミイラとなり、その身体を大量の護符を巻き込んだ端切れに覆われ、生前の姿を象った櫃に寝かされている。
 棺は、まずナイル東岸の船着き場まで運ばれ、そこでラァの船を模した葬祭船に積み込まれた。
 金で箔をされた巨大な木造船である。乗るのは棺だけではなく、アテムを始めとした王族や王の知己、葬儀を執り行う神官たち、皆がそれで西岸に渡るのだ。無論、セトたち王宮の六神官も揃っている。
 泣き女の集団が錯乱を演出しながら甲板に上がると、船はナイルの水上に滑り出した。ウアセトの民衆が東岸で、死者の領域へ向かう王を見送っている。彼らは、あまりたくさんとは言えない人数、いた。見送りの数は惜しむ人の数である。彼は、明確に悪しき王というのではなかったが、良き王でもなかった。
「セト」
 王子に呼ばれ、岸辺の民衆を見ていたセトが振り向いた。彼は今日、流行りのクシュ風ではなく真っ直ぐで長い髪の伝統的な鬘を付け、よく色を抜いた白の肩衣から、薄褐色の肌を覗かせている。葬儀用の装いには個性など無かったが、それでもやはり彼は目立つと、視線の一巡りでセトを見付けたアテムは、思いながら船の柵に近付いた。
「聞こう聞こうと思って忘れていたんだがな。父上は、お前に何を話したんだ?」
「あまり、聞いて気分の良い話ではないと思われますが」
 問われ、セトは言い淀んだが、アテムは続きを促した。セトはちらりと棺を見遣り、それから口を開いた。
「私は過ちを犯した。そして、それを償わずに死ぬ。と。先の戦いで、勝利のため民を犠牲にしたことを悔いておられたようです」
「なるほど。……あの戦いでは叔父殿下や配下の兵も命を落としたと聞いている。イアル野で父上を赦して下さればよいが」
 アテムは腕組みをし、柵に寄り掛かった。
 アクナムカノン王が、悪しき王でなく、しかし良き王でもなかった理由の一つ。
「権力を持ち、人の上に立つ方ならではのお悩みに御座いましたな」
 国の、多数の民の安泰と、その犠牲になるもの。どちらを、どのように選ぶべきか。それは、今後形を変えながら何度も、タァウイに示される問いである。
 泣き女が一際声を高め、船の西岸に着きしを知らせる。二人は柵から離れ、葬祭神官たちの先頭に立って桟橋に降りた。王の櫃が、多くの供物とともにそりへ乗せられ、王墓警護の兵士らによって船外へ運び出される。隊長であるマハードが彼らを指揮するのを横目に、王子とセトはそれぞれ椅子型の輿に身を据えた。即座に担ぎ手が集まり、日除けの扇も差し翳される。
 船は荒地に着き、葬列は涸れ谷を通って王の葬祭殿を目指した。アクナムカノン王の健在なりし折から用意されていたそれは、遠目にも堂々たる姿を見せる立派なものである。生前から墓に想いを寄せるのはタァウイ人の特性であるが、かの王も例に漏れなかった。王墓本体のみならず葬儀のための祭殿にも趣向を凝らし、その完成を聞いた時には大いに喜んで見せたという。
「そういえば、何故お前だったのだ」
「何が、です」
「父上の話し相手。てっきり、要職を持たぬ手空きの神官が来たものと思っていたのだ」
 アテムの疑問は尤もと言えよう。次席神官の副官という立場が名ばかりのもので日々を暇にしていたのならともかく、セトは優秀で使える人員であった。王宮へ引き抜くとなって、神殿がどれほど反対したことか。族の系譜、幾何の書、セトが手を入れたものを持ち出して、これほどの働きをするものをただ差し上げるわけにはとまで言った始末である。王命であろうとも譲らぬ神殿に対し、アテムは喜捨で片を付けた。
「アクナディン様の、たっての希望で御座いました」
 理由は存じておりません、とセトは付け加えた。理由など、無かったのではないかとも、今となっては思われる。老翁の私情ではなく、もっと曖昧で漠然とした流れのようなものが、ナイルの水面に小石を一粒投げ込んだ。波紋が広がり、新たな波紋を呼び、やがて大きなうねりとなりゆく。歴史の変わり目に、それは間々あることなのだ。
「あの老爺の希望、か。ともあれ、今日はよくよく弔ってやってくれ。父上が、無事イアル野へ往けるように」
 アテムが話を切り上げ、壮麗な建物の眼前で、一行は歩を止めた。そりに乗せられた王の姿の棺が、数名の神官によって動かされ、祭殿の柱の間に立てて置かれる。山犬の頭部を様式化した被りものをしアンプ神に化けた大神官が棺を支えるように立った。その足下に泣き女たちが取り縋る。左右に居並ぶ朗唱神官の間へ入ったセトが、葬儀の始まりを告げた。
 アテムは、心の中で今日自分が関わる部分の手順を辿った。死者の後継者となるものは、口開けと呼ばれる、日の下に現れるための儀の中でも最重要の行為をしなくてはならない。神官たちがいかに呪文を教え供物を捧げようと、受け取るものがそれを復唱し食すための口を閉じていたのでは無意味なのだ。死して一度閉じられた口を、誰かが開いてやらねばならない。
 しかしアテムの出番はまだである。始めは朗唱神官たちによる経だ。死者が無事冥界を通過しイアル野へ辿り着けるよう、彼らは祈る。その第一句を、セトが読み上げた。
「おお、ウシルとなりし王を見よ、朝にケペレルとなり夜にアトゥムとなるもの、汝を拝礼し彼は言う――」

    おお、ウシルとなりし王を見よ
    朝にケペレルとなり夜にアトゥムとなるもの、汝を拝礼し彼は言う。
    我は天への道にあり
    汝、扉を開かれよ
    この死せる王は来たり
    ウシルとなりし王は来たり――
    …………
    ――願わくば、西の国を出でて、またこれに入らん。
    扉の主よ、我は答える。
    汝、昇りつつあるもの
    王なりし時のラァなり。
    汝、己を生みしもの
    眷属の長のラァなり。
    汝、神々の中にいてなるもの
    太陽上のアトゥムなり。
    汝、今日を知り昨日なるもの――
    …………
    ――我、勝利せしもの
    大いなるマアトの神々を前にして言わん。
    我が心臓は語る
    我はなさざりき――
    …………
    ――おお、ウシルとなりし我を見よ
    我、アクナムカノンは来たり。

 朗唱神官が最後の一節を言い終えると、アテムが立ち上がった。彼は厳かに進み、供物台から手斧を取り王の棺の前に立った。人形棺の顔は、若き日の王の、引き結んだ唇を僅かに持ち上げた柔和な表情で作られている。
「語られし言葉の全て、開かれし口より発せらるるを望む。この死せる王は往けり――」
 セトの声に合わせ、アテムは王の閉じた唇に手斧の先を触れさせた。この死せる王は往けリ。朗唱神官が繰り返し、天に手を掲げる。王の口は開いた。冥界において通行の呪文を唱え、イアル野において飢えを満たすための口は開いた。
 儀式の終わりであった。


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ジェフウトの神:所謂トト神。
ケペレル:スカラベ(糞転がしの一種)。太陽の一形態とされた。
アトゥム:ラァと集合し太陽の一形態となった神。アテム神のこと。