セネト・パピルス 16
2009/8/10


 葬祭殿での儀式が終わると、王の棺は再びそりに乗せられ涸れ谷を紆余曲折して墓所に向かった。これには、全員が付いて行くのではない。その後管理に携わる墓守たち、王墓警護隊、彼らだけがそりを引いて王家の谷へと入っていく。
 他のものは皆東岸へ帰るのだが、特にアテムと神官たちは、急がなければならなかった。アクナムカノン王の治世は今日を境に終わり、明日からはアテム・アメン=ヘテプの治世が始まる。すなわち、明日はアテムの戴冠式である。
 戴冠式を行うためには、王位を証立てするもの、王座の女を得なければならない。それが誰であるかは、もう決まっている。王家と公家の娘たちの中で、最も位の高いもの。当代の王座の女は、ベヘデト公家の一の娘であった。
 アテム・アンジェティはこの晩、ベヘデトの女アイシス・ベヘデティを得る。正しく王家の名アメン=ヘテプを称するために、それは必須のことなのだ。

 ――婚礼を! 比類なき王座の女主と、彼女の選びし婿の君の、マアトに適いし婚礼を!――

 東岸に戻ったアテムたちを、民の歓声が迎え入れた。
 タァウイ王家の系譜は母系で綴られる。いにしえには確固としてあった取り決めももはや建前のようなもので、幾王朝も前から王の一の息子が次の王となることは決まり切っているが、しかしそれでも、いかに高貴な身の上であろうとも、王家の女を妻に持たぬものは王になれない。王座の女を得ずして王になることはマアトに外れたる行いであり、民がそれを認めぬのだ。
 統治者にとって最も恐れるべきことは人心の離れることである。それ故、この意味の無くなった慣習は、意味を無くしてもなお続けられているのだった。
「お目出度いものたち。高々政略の慣わしごとに、こうまで騒ぐことができる」
 場にそぐわぬ冷静な声が、一人船を降りようとしていたセトの耳に飛び込んできた。ぎょっとして振り返った彼の目に、黒々と長い髪を紅玉髄の額飾りで留めた、濃い肌色の女が映る。
「アイシス・ベヘデティ」
「貴方もそうは思いませんか。セト・ヌブティ」
 彼女の呼び掛けにセトは息を呑み、辺りを見回した。皆、離れた所で自分の降りる番を待ちながら談笑しているか、既に降りてしまって民の様子を見ているか、こちらに注目しているものはいない。
 誰も聞いてはいない。既に知る王子さえ、傍にはいない。だが、この女どうして。
 アイシスは声を立てずに小さく笑った。
「色粉が剥げ落ちていてよ。大丈夫、誰にもいいません。まだ他のものは気付いていないでしょう」
 彼女はセトの腕の内側を指した。手首の少し上に、擦れたような痕が付いている。セトは腕を組んでそれを隠すと、歩調を緩め、数時間経たぬ内に後宮の主となる女の横に並んだ。
「何故、人に言わないと?」
「貴方がいなくなると、わたくしの愚痴を言う相手もいなくなりそうですから」
 二人は、取り立てて親しい間柄ではない。二人きりでの会話すら、今が初めてだった。だから、『愚痴』が指すものは、つい先程の冷静な声の他に無い。
「愚痴とは……マアトに適いし婚礼に対して、随分な言いようだな」
「けれど、貴方もそう思っているでしょう」
 切り返しに、セトは否定を忘れた。民が目出度いことを目出度いと喜ぶのは良いことだと考えているが、しかし、高々政略と思っていたのは事実だった。そう思わざるを得ない事情が二人にはあり、その事情を、互いに知っていた。
「おお睡蓮の花よ、我が愛しのセシェン、原初の水より生まれ――。続きは何だったかしら。一度楽しみの管理者たちが歌っているのを聞いたきりだから、忘れてしまったわ」
 アイシス・ベヘデティは王子が娯楽に通じた女官たちに作らせたという恋愛詩を囁き声で歌った。恋愛詩を作らせて意中の人に贈るのは、王宮で流行りの遊びである。
 しかし、この歌はアイシスに贈られたものではなかった。それどころか、この妻となる女に、アテムはまだ一つの詩も言葉も贈ってはいないのだ。
「原初の水より生まれ、太陽の鼻先に美しく香るもの。ほっそりと伸びる茎の、いかなる美女も敵わぬ立ち姿」
 続きを、先程より低い声が歌った。歌ったというよりも、呟いたと言った方が的確だったが、それはセトの声であった。
「あぁ、そういう続きだったわ。ほっそりと伸びる茎、巧く例えたものと感心したのよ」
 嫉妬の色はまるで無い様子で、アイシスは縦に長く肉の薄いセトの身体に視線を向けた。
 さよう、この歌の受け取り主は、セトである。セトはアイシスが詩の一つも受け取っていないことを知っていて、アイシスはセトが歓迎せざる詩を贈られていることを知っていた。
 セトは眉を顰め、それから困ったような顔になって、言葉を探すように二、三度、唇を開け閉めした。辺りには人々の声が響いている。
 婚礼を。比類なき王座の女主と、彼女の選びし婿の君の、マアトに適いし婚礼を。
「――だが、高々政略でも、お前は王座の女だ」
「ええ」
 アイシスが、一つ頷く。
「そうね。間違えてはならないのは、王がわたくしを選んだのではなく、わたくしが王となる人を選んだということよ」
 選んだのはわたくし。
 彼女の言葉の真意を、セトは測りかねた。政略の具になるのは自分ではないと、誇りを保つため敢えて口に出したのか。それとも。
 どこからか、朗々として深い声が聞こえるのをセトは感じた。それは、彼の心臓の底から響いている。

    おお 睡蓮の花よ!
    我が愛しのセシェン 原初の水より生まれ
    太陽の鼻先に 美しく香るもの
    ほっそりと伸びる茎の
    いかなる美女も敵わぬ立ち姿
    青き花びらはナイルがごとし
    蜜を滴らせ 余の国を潤す……

 この酔狂な――セトはそれを酔狂だと思った――愛の詩は、一月前、一日の勤めを終え自宅で休んでいたセトの許へ贈られたのだった。
「どうだ、いい詩だろう。その内に曲も付けるつもりだが」
 贈り主、アテムは、上がり込んだ家の中で得意げにそれを読み上げた。彼は供を付けず、当然のような顔をして一人で、神殿域の外れにあるセトの自宅までやってきた。服装はまるで庶民のそれである。初めセトは訪ね人が誰であるのか判らなかった。仕える君主の顔が判らないなど通常ならどれだけ責められても足りない事象だが、この場合は仕方のないことと言えよう。
 いったい誰が、二階の窓に日干し煉瓦の欠片を投げ込んできた不埒ものが一月後の王だと考えるだろう! おまけに、誰の悪戯かと覗いた窓の下にいたのは腰布を簡素に巻いただけの男である。その上、一日の勤めを終え休んでいた時、つまり陽の落ちた夜になって彼は現れたのだ。驚いたセトが肌の色をすっかり落としているのも忘れ灯りを手に出迎えた途端、アテムの口誦したのがこの詩である。
 王子が王宮でセトに構うのはもはやよくあることであったが、こうして訪ねてきたのは、まして玄関口で恋愛詩など読み上げたのは、初めてのことだった。何がそうまで気に入ったのか、アテムの厚意は好意に、そして更には、もっと別の、何ごとか底意の欲するところのものへと変容を見せていた。
「ご婚礼予定の公女へ贈られるには、少々雰囲気が合わないような気が致しますが。セシェンよりも、芯が通って折れないメヒイトなどの方が宜しいのでは」
 セトの忠告にアテムは、何を言っているのだと眉を怪訝に寄せた。
「これはお前にだ。アイシスに合わなくて当然だろう」
 今度はセトが怪訝に思う番だった。セトは小さく首を振るとその話題を取りやめ、別の疑問に変えた。
「それにしたとてこのような夜更けに一人王宮の外へ……よく侍従の方々がお止めにならなかったものです」
「お止めにならなかった? まさか!」
 侍従に対し呆れを滲ませたセトに、アテムは心底おかしそうな様子で手を打った。
「抜け出してきたんだ。後宮へ渡る通路の所をな、そこから少し横に。なんだ、怖い顔をするな。朝までに帰ればばれやしないさ」
「ばれるばれないの問題ではなかりましょうが。危のう御座いますぞ」
「シモンのようなことを言うんじゃない。大丈夫だ、これを見ろ」
 ぱん、とアテムは左の腰を叩いた。否、左腰に佩かれた剣の柄を。
「鉄だぞ。この間の小競り合いで、ケタの兵士から奪ってやったやつだ」
 鉄とは、タァウイにも、プントやチェヘヌゥにも、産出しない物質である。主な鉱脈はケタにあり、ケタ人だけが製錬法を知る決して錆びない金属。黒っぽい色をしていて、青銅よりも硬く重い。ケタは強国であるが、その所以たる鉄の剣が、アテムの腰にぶら下がっている。
「鉄に切れないものは無いからな。青銅でも、ジャアムでも、真っ二つだ」
 アテムは鉄剣を鞘から抜き、重たい筈のそれを軽々と振り回してみせた。確かに、危なくなどないのだろう。タァウイに普通にあるものより刀身も長く、打ち合いになればその有利さは言うまでも無い。悪漢が襲いきたりとも、鉄剣を使いこなすものの前に忽ち青銅の剣を折られ、切り伏せられるのみに違いない。
「心配してくれるのは、嬉しいが」
 剣を鞘に納め、照れた顔でアテムは言い足した。何がそうまで気に入ったのか――いや、始めから肝と見目だとは言っていたが、幾らなんでもそれだけではあるまい――彼はセトの前で、時折少年のように振舞った。年齢を考えると相応なのかもしれないが、振舞いの何割かは演技であっただろう。それは初めの頃の不遜さが見え隠れする態度や、あとに起きる様々なことに比べて、あまりに凡庸で純朴な、まるで町の青年のような態度だった。
 もしかしたら、身に着けた庶民の服が彼にそうさせていたのかもしれない。だとすれば、上下二国の冠が逆に。
 まだ何も起きてはいない。だが、のちに、セトはそれを思う時いつでも、その青睡蓮の瞳の奥に、痛みを感じずにはいられなくなるのだ。


 セトが一月前のこと、それからその日よりこの婚礼の日までに度々起きた似たようなことを思う内に、彼らのための輿が用意され、アメン=ラァの大神殿へ向かい、そこで婚礼の儀の一部が済まされた。一部――アテム・アンジェティとアイシス・ベヘデティが神の前に夫婦となる誓いを立て、歓喜する民の視線の中、王妃宮、今後アイシスの居宮となる建物へと入っていくところまでである。
 二人は、明日の朝まで王妃宮を出ない。婚姻を確かなものとするため、今頃は床入りの準備がなされているだろう。万に一つも間違いが無いようにと検分役が覗き見る床入りの翌朝、二人は接見の窓に並び立つ。それを以って漸く、二人は夫婦となった、すなわち婿の君に王位を継ぐ資格が出来たと人に認められるのだ。
 神殿での儀式が終わったあと、セトはすぐさま神前を辞し自宅へ帰った。王宮広場はお祭り騒ぎであり神官たちにもそこへ繰り出さないか誘い合っているものは多かったが、船着き場でアイシスに指摘されてから見えぬよう庇っていた色粉の剥げ落ちが気になって、セトはそれどころでなかったのだ。
 申しわけ程度均された土の道を歩きながらセトは考える。やはり、長時間は、今日のように陽射しの下を行くとなると殊更に、偽皮膚が耐えられない。見付けたのが騒ぐ気の無いアイシスだったからよかったが、これがもし、普段から白い肌を嫌っている別の誰かだったら。或いは、王宮神官の地位を狙っていてなり損ねたものだったら?
 家に着くと、セトは人目に付かないよう塀を巡らせた中にある小庭の池に身を沈めた。既に灯りの必要な夜になっていたが、この晩は月が大きく、水面からの反射光でセトの手許は明るかった。セトが水の中で皮膚を撫でると、細かい銀の粒が拡散して流れていくように見えた。
 銀の粒は、本当のところはただの茶色い鉱石顔料の粉である。月の光が、見せ掛けだけそれを高貴な金属のごとく見せているに過ぎない。
 セトは両手に水を掬い、それで顔を洗った。目化粧と色粉が混ざり合いどろどろになって溶け落ちていくのが水面に映る。
 これが真実だ。銀などではない。私は泥濘に塗れて生きているのだ!
 アテムの夜の訪れが始まってから、セトは頻繁にそれを意識するようになっていた。アテムがやってくるのは陽も落ちきってなお時間の経った頃である。例外無く、セトは色粉を落とした状態でその訪れを出迎えた。
 素の肌を晒して人と相対したのは何年振りだっただろう? 既に両親が亡く、領内から誰か呼び寄せて娶るということもせずにいたセトにとって、それは随分と久しい経験だった。そして久しいだけに思い知らされるのだ。どうしてそんな当たり前のようなことが、自分には当たり前にできぬのか。と。
 セトは水から出て、麻の布で軽く身体を拭くと用意していた薄手の夜着に着替えて室内へ戻った。家の中は暗かったが、彼は灯りを点けず手探りで二階へ上がり、寝台に倒れ込んだ。弾みに、細い支えの華奢な枕置きがこける。セトはそれを直そうとしたが、支えの上に乗せる筈の枕本体を見失い、諦めてそのまま敷布に顔を埋めた。
 まだ少し早いが、寝てしまったとて構うまい。このところ連日となっていた王子の訪れも、今日ばかりはある筈が無いのだから。
 アテムは今頃王妃宮の寝所だろう。彼らの耳には、広場の騒ぎも聞こえているのだろうか。郊外に位置するセトの家の周りには、歩く人の一人もいない。
 セトは暗闇の懐に抱かれ目を閉じた。静寂が掛け布となって彼の身体を覆う。
 風の無い、物声一つ無い夜、彼は微かに何か似た形質のものがぶつかって立てる類の鈍い音を聞いた。
 それは恐らく夢の中でだったろうが、さながら投げ付けられた煉瓦片が壁に当たり崩れたかのような、柔い音で、あった。


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セシェン:睡蓮。特に青睡蓮。文字の上では水百合(白睡蓮)も表す。
メヒイト:植物としてのパピルス。
ケタ:所謂ヒッタイト(ハッティ)。エジプトの緑海を挟んだ北、メチェンの西アナトリア地方が本拠の国。勢力範囲はエジプトと隣接。
ジャアム:金と銀の自然合金。金よりは硬い。