セネト・パピルス 17
2009/8/30


 翌朝までに、二人の婚姻の儀は正しく遂行されたらしかった。らしかった、というのは、検分役がそのように認め彼らを接見の窓に立たせたらしいからだ。これもまた、らしい、であるのは、その朝珍しく目覚めの遅かったセトが王宮へ着いた時にはもう全てが終わっていて、彼はそれらを人伝に聞いたに過ぎないが故である。
 残る戴冠の儀は、セトが王宮へ着いた頃、ちょうど大宰相シモン・ムーラン・ジェフウティが慌ただしく準備を進めているところだった。彼は、宝庫長の肩書きの通り、このような儀に必要な王家の道具を全て管理下に置いている。
 セトは、戴冠の儀に関しては、全く関わりが無い。王子の身を清めるのは王がその化身とされる神ホルの神官と大宰相であり、新たな王の誕生を記録するのは宰相領の神ジェフウティとその妻神セシャトの神官たちとされている。その昔には彼の名そのものであるヌブトの族神セトもこの儀に参加していたが、族の没落に前後して役目を失った。また、セトの現所属であるアメン=ラァは元よりこれに無関心ときている。そうして、セトは手空きにただ時間が過ぎるのを待っていたのだった。
「おお、ようやっと用意が終わりましたぞ」
 シモンが眩いばかりに輝く金の鍵をアテムに握らせた。上下二国の両冠を抱く厨子の鍵だ。アテムは鍵をその鋭い瞳の前に翳すと、満足げな様子で厨子の方へ向かった。躊躇い無く、厨子に鍵が差し込まれる。半回転ほどで内部の細工の動く音がした。
「上つ国の白冠に下つ国の赤冠、これで晴れて王を名乗れるわけだな」
 二冠を重ね合わせ頭上に載せたアテムがシモンを見遣る。老人はゆっくりと頷いた。
「しかしまだで御座います。そのお姿を後宮の窓から民へお見せになり、彼らの声を受けて、それで初めて皆に貴方様が王と認められましょう」
 朝は夫婦となった証を見せた、『王妃宮の』窓である。慣例的に後宮の内に数えられるが、他の、女たちを詰め込む建物とは違う。王妃宮は、その気になれば王の即位すら阻むことができるのだ。気に喰わぬ王ならば、異を唱え、門戸を閉ざし、窓には立たせない。政をなすのは王であるが、その王は王座の女によって選ばれる。タァウイという国家は女のものなのであった。男は統治を委任されるだけの存在である。
 アテムは両冠を戴いたまま部屋を出、王宮を出、王妃宮の門の前へ立った。遠巻きにではあるが、既に民がその一部始終を窺っている。此度の王は、統治を認められるのか。
「扉を開けよ。王が参った」
 扉の内側の侍女にアテムが呼び掛ける。分厚い一枚板の扉は、数秒沈黙したのち、人一人が通れる程度に、細く開かれた。
「お入り下さいませ。国家の女主アイシス・アメン=ヘテプ様がそれを良しとなされます」


 王が窓に身を現すと、民の歓声がそれを迎えた。その日は、一日中、あちらこちらで宴席が設けられ、喜びの声が聞かれた。
 だが、それも長くは続かなかった。初めの数月が過ぎると、次第に、彼らの中に不満が生まれ出した。戦下手の先王によって縮小した領土は王が変わっても広がる予定無く、交易は滞り、それにも関わらず国庫は後宮と神殿のためにばかり開かれた。そしてまた、王の個人的な振る舞いが、著しく非難の的となっていたのだ。
「あんな話が今になって流行るというのは、やはり」
 アテム・アメン=ヘテプの治世元年、播種期ペレトの中頃。セトは王宮の中庭で彼の同僚たちの声を聞き取った。彼はタァウイの習慣である午睡の休み前に少し散歩をするつもりだったが、同僚たちも、そう思ったのが自然と寄り集まっていたのだろう。彼らは、柘榴の木陰で深刻な雑談に議していた。
「しかし、あの神官セトが本当に?」
 同僚たちはセトに気付いていない。セトも通り過ぎる気でいたが、出てきた自分の名前に彼は歩みを止めた。
「さぁね。だが、彼もあの年で未婚となると案外に」
 何の話であるか判り、それでもセトは聞かなかったことにする努力をしたが、不幸にも、言葉を切って顔を上げた同僚と彼の視線が交わった。
「まさか貴公が庭に出てくるとは」
「聞かれて不味い話でも? 随分と下種な勘繰りをされていたようだ」
 タァウイ人は皆比較的早くに結婚し、子を設ける。それをしないでいるのを殊更めいて取り上げるのは、暗に、彼がマアトに恥じる性的嗜好なのではと言っているのだ。マアトに恥じる、すなわち、幼過ぎる子供か同性を好むのではないかと。
「勘繰りと言うが、実際どうなのだか。こんな話をご存知か。『ある晩男は見た。まさにその通りであった。かの人が将軍の家に至り煉瓦片を投げ込み壁を蹴ると、彼のために窓から梯子が下ろされた。かの人はそれを上り、そこで時を過ごした。まさにその通りであった。噂の通りであった。王は夜の四時間が過ぎた頃お出掛けになり、四時間の間将軍を相手に欲することをなさったのち、まだ夜の四時間が残る間に王宮へ帰られた』。町で流行りの物語だ。古王国を滅ぼし乱世を呼んだネフェルカラ陛下の、千年の昔の話だという。だがこの話、貴公は身に覚えがあるのではないか」
 欲すること。曖昧で、婉曲的な言い回しである。だが、セトがその意味を受け取り損なうことは無かった。彼はまさに、欲せらるるその人であった。
「……そなたらの言いたいことは解る。ファラオは明らかに私を贔屓に見ているし、抜け出し癖も酷く、実際、夜中に私の家をおとなうこともある。だが、私はその将軍とは違う。欲されてそれに答えたことは、一度も無い」
 話を聞かせた同僚――シャダはあまり信じた風ではなかったが、後ろにいた若いマハードは、通りで、と納得顔になって数度頷いた。
「後宮に呼ばれる姫君が皆細身で吊り気味の瞳ばかりだと思ったら、あれは貴公に似た、代わりとなる方を集めておいでだったと」
 更に言うならできる限り色の白い――セトも、気付いていないわけではなかった。後宮に集う、自分に似た女たち。セシェンの詩や戯れに投げ掛けられる言葉は冗談ではない。
 いずれ収まる気紛れだと思っていた。婚姻は遂行されたのだ。女を嫌うわけではない。ただ少し、白い肌や青い瞳が珍しかっただけだろう。異国的なものを排除してきた王朝で、奇異な存在に興味を引かれているだけだ。拒んでさえいればいずれ収まると、セトは今もそう思っている。
「しかし、まあ、真実がいかようであれどうでもいいのだ。問題はそういう噂があることと、後宮が拡大を続けているということだ」
 無言が続くと、それまで黙って聞いていたもう一人、カリムが躊躇いがちにそう言った。
「民の批判の主たるものは、後宮をあれだけ大きくしておきながら男にも手を出しているという王の節操の無さだ。そのために国庫が開かれているということだ。ネフェルカラ王の二の舞、色にうつつを抜かし国家破綻という筋書きを案じられているのだ」
「……それを私に言ってどうする」
「どうにかならないのか。貴公が答えれば、少なくとも後宮の拡大は止まるだろう」
 差し詰め、拒むのをやめよと。
「貴様、私のマアトを汚すのか!」
 セトは声を荒げた。セトが答えれば、その通り、身代わりの姫君たちは不要となる。だが、それはもはや生贄となんらの違いも無い。
「何も、全てに答えろとは言わない。幾らか気を持たせて、後宮の女衆を嫌がる素振りをするくらいでいいのだ」
「しかし――」
 それをしてしまっては終わりではないのか。気を持たせなどしては、いつになってもことが収まるまい。
「マアトがどうのと考えるな。神である王には許されることだ。神に応じることとて」
 他人事と思って、と、セトは言えなかった。カリムの本職は民事判事長である。諍いの解決要請や、何より民の嘆願が、彼の下へと寄せられる。その彼がこうまで言うということに、セトは空恐ろしさを感じずにはいられなかった。
 そして、不吉な予感というのは、往々にしてよく当たるものなのだ。


 先王墓と王宮へ、立て続けに賊の侵入!
 その報せは瞬く間に国中へ広がり、人々を震撼させた。――入った賊は稀代の大悪党だとか――いや、何でも先の戦いで王宮に見捨てられた村の生き残りらしい――。何が真実とも付かぬ噂が、ウアセトの城下を中心に吹き荒れた。
「忌々しきは人の口よ。あること無いこと、煽るばかり」
「全てを、無いこと、とは言い切れぬが――」
 セトの吐き捨てをカリムが拾う。この日も、彼らは柘榴の木陰で懸案事項について論を交わしていた。ただ、先日と異なるのは、その人数である。
「王墓のことは心配ないだろう。今朝方、増員の警護兵を連れてマハードが出立したようだ」
「彼も運が悪い。普通は警護隊長など月に一度も西岸へ渡ればいい方だが、この状況では暫く現地詰めで帰ってこれまい」
 シャダがそう言って肩を竦めた。一人この場にいないのは、年若のマハードである。王墓警護隊長の肩書きを持つ彼は、賊の襲来を受け西岸の涸れ谷へ隊の指揮を取りに行ったのだ。
「心配は民の動きだ。このまま不安感が広がれば、溜まった不満も一どきに噴き出し、国土を揺るがす事態になりかねんぞ」
「賊を捕らえればましにはなろう。さすがのファラオもここ数日は夜間の外出をお控えだ。このままやめて頂ければ、我が謂れ無き汚名も晴れるであろうよ」
 この時、彼らはまだ楽観的であった。賊を捕らえ民の不安を取り除いてやれば、国家への信頼は戻ってくる。王がその威光を見せれば、多少私事が乱れていようと神のなさることで済む。それは少なからず真実ではあったが、それをなすのは、彼らが思っていたよりも数倍容易でなかった。
 賊は勢いを増し、暫くどころでなく、マハードは西岸を帰ってこなかったのだ。


「憐れな。忠義ものほど死に急ぐ」
 マハードのために、追悼の石碑が建てられた。ファラオよ、我が魂は永遠のしもべなり。彼の似姿と信条であったという言葉の刻まれた石の前で、セトはもう一度憐れなと呟いた。傍らで、他の柘榴の下の論者二人も頷く。
「惜しいものを亡くしたことだ。王でない神に仕えながら王に対してあれほど忠義であるものなど、この時世では少なかろうに。後継も育てぬ内に逝くとは」
「後継がどこの所属か、懸念がまた一つ増えるな。神殿――ファラオは重く見ているようだが、あれは最近、動きが怪しい」
 最後の部分で、カリムは声を潜めた。それにシャダが同意し、セトが口を開く。
「シモン様には私やシャダも怪しまれているようだが、彼らの考えを知りたいのは我々の方でこそあるものを。今何か起これば、半端ものの我らの立場が一番危うかろうよ」
「何を考えているのか、この機に力尽くで調べてみてはどうだ。貴公の私兵、町への配備が許可されていたではないか」
「賜りものの兵でそのようなことできるものか。ところで」
 ふと思い出して、セトは話題を切り替えた。
「配備許可を頂いた時、石碑に取り縋って泣いていたあの小娘は誰だ? 随分ファラオと親しい様子であったが」
 上つ国の人間らしい暗褐色の肌の、年頃の乙女にしては少し焼け過ぎの感もあるが、赤み差した髪とともに太陽の似合う快活な印象を抱かせる少女だった。泣いてさえいなければ、きっと可愛らしかったことだろう。しかし、王の御前へ通されるとはいったい何ものか。
「貴公が配備の出しにした彼女だな。あれはマハードの魔術師としての弟子だ」
「弟子? 妹か?」
「いや、そんな色っぽいものじゃない。本当に、ただの弟子だ」
 妹。タァウイでは、血の繋がりだけにこの単語を充てるのではない。親しい異性、特に恋愛関係にある異性を、きょうだいに準えて呼ぶ風習がある。兄と妹、姉と弟。尊び合う関係に用いられることもあり、そちらの意味では妹だったとも言えたが――セトの発言の意を汲み取って、シャダはそれを否定した。
「悪しからず思うくらいはあったかもしれないがね。マナと言ったか、あれでケメヌ筋の祖母を持つ歴とした王家の姫君。父が市井のものだとかで公家の娘より王座の継承順は低かったが、とはいえまだ子の無いファラオに万が一のことがあれば彼女の夫が次の王だ。下手に手を出せば叛意を疑われかねないからか、清くやっていたようだよ」
「なるほど。ファラオとはいとこ? はとこ? その辺りか」
「はとこだったかと。しかし彼女という嘆くものの例で、これ以上賊を野放しにはできぬ、警備強化だ、と町への兵の配備が許されたわけだが。配備の何か具体的な策はあらせられるのか」
「それについては、神官シャダ、王宮判事長である貴公の力を借りたいのだが……」
 セトは石碑に背を向けた。
「まぁ、説明はその時にでも。王宮裁判の記録だけ、用意しておいてもらいたい」


 兵と記録はその日の内に準備され、翌朝には、王宮からの軍配備の令が町へ伝わった。私兵を連れ、判事録を携えたシャダとともに、昼を待たずしてセトが城下へ出向く。判事録から、前科のあるもの、不敬もしくは反逆の気で目を付けられていたものが悉く捕らえられ、彼の前に差し出された。
「まさか判事録をこのように使うなど」
 もはや王墓と王宮を荒らした賊だけでなく、反乱の芽の全てが、この日摘み取られようとしていた。厳し過ぎる警備には権力を振り翳し庶民をいたぶるとの声も上がったが、事実セトはその点に関して横暴でもあったが、タァウイの数千年に渡る歴史の中で国家安泰が常に王権を頂点とする確かな秩序の下で築かれてきたことを思えば、彼のなしたことは正しかったと言えよう。王のいなかった時代、人々はナイルの氾濫に苦しみ、王権の弱まった時代、異国の支配者が立ち民に鞭打つことを許していた。そのことを思えば、問題は、権力を振り翳すことが許されぬほど指導者たる王の姿が揺らいでいるという、そちらの方でこそある。
 揺らぎは、このところの王の振る舞いだけが原因ではない。アメン=ヘテプの王朝が長く続けてきた治世上の歪が、その元凶を形作っている。族の神アメン=ラァはあまりにも強大になり、その分、生けるウシルとしての王の権威が凋落した。既に凋落しているから、神である筈の王の振る舞いが、人の振る舞いを裁くように批判されているのだ。
 そして、歪といえばもう一つ――
「貴様ら、この娘に何をした……」
 セトの眼下に、衰弱した女が一人倒れていた。高位の神官に怯んでか、彼の後ろに居並ぶ兵らを恐れてか、問い掛けに答えるものはいない。だが、セトは問うまでも無く、何がなされたのか分かっていた。女の周りには大小の石が転がり、水が溜まりを作っている。彼は、水を乞うた娘へ、まるで犬の子を追い払うかのごとく石が打たれ水が撒かれたのを見、それを止めに歩を進めたのだから。
 セトは女に水を与えるよう傍の兵に指示すると、彼の足下へ視線を戻した。白い肌に青い眼――そこに倒れているのは、全く知らぬ女でありながら、彼自身に相違無い。
 繰り返して述べるが、かつてタァウイの民に外観の違いで差別をする習慣は根付いておらず、異なる容姿が災いをもたらすだの不幸を招くだのは、政権闘争の結末を、為政者間だけでなく民にまで波及させたアメン=ヘテプの誤りが一人歩きした結果言われるようになった俗信である。
「肌の色ごときで弱者に石を投げ付けるなら……本当の身分の差というものを、貴様らの肉体に刻み付けてやろうか!」
 セトは一瞬だけ言葉を選ぼうとしてやめ、殆ど怒鳴るようにして言った。彼の常々感じている理不尽を、吐き出したかのようであった。女を嬲ったものたちは口々に許しを願い出たが、誰も、心から悔い改めたのでないことは、セトにも判る。彼らはむしろ、突然にこの白皙の娘を庇った神官をおかしく思っているほどだろう。これもまた、本来一つであったタァウイの民を分け隔てる、国政の乱れ、治世上の歪なのだった。
 水を飲むと女は意識を失い、セトは彼女の保護を兵に命じた。そして国庫の窮状を理由に余計な慈悲であるこの件をファラオに伝えぬようその場にいた全てのものに言い付ける。彼は彼女に付いて王宮域へ戻り、王の目の届かぬ離れの部屋へ女が入れられたのを確認すると、平時の様相を取り繕って王の前に参った。
 セトの帰還後も兵は町に残り警備を続けたが、最も恐るべき賊の頭はとうとう見付からず、その晩、王宮は彼に二度目の侵入を許した。


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ネフェルカラ:ペピ2世とも。治世年間:紀元前2240年‐紀元前2152年(推定)。古王国時代最後の王。