セネト・パピルス 18
2009/9/19


 二度目の襲撃で、王宮は、決して出してはならなかった被害を出した。賊との競り合いが民家を巻き込むに至り、また、先頭に立って軍を率いていた王は傷を負い、一時、消息を知れぬ状態となったのだ。
 それがどういうことか、タァウイのものなら解るだろう。ラァの息子である王が、たとえ一時でも王座を空け民の前に輝くことをやめたなら、それはもはやラァの息子ではない。神の力に頼って国家を治めてきた王朝に、それは大き過ぎる衝撃であった。
 これ以上は許されぬ世論の傾き。人民の中には、賊へ同調するものまで現れた。それも、市井だけの話に済まず、王宮の内にさえ、揺らぎは影を落としたのだ。
「内通者がいると?」
 カリムの問い掛けに、セトは深く頷いた。
「そうとしか思えぬ。貴公ではないと確信しているから話すが、それも我らに近いところにいるぞ」
 警護の兵も他の同僚らも遠ざけ、柘榴の木陰には彼ら二人きりであったが、なお念を入れセトの声は窄められた。
「先程、私の兵が一人、離宮の牢前で殺された」
「離宮の、だと。あそこは数代前から使われていない筈ではないか」
「あぁ。だが、私はそこに人を匿っていた。色の白い、異国の娘だ。仔細はまだ調べている最中だが、三千騎の兵力を持つアシュの族長の娘のようでな。誰ぞが利用すべく奪いにきたと考えてよかろう」
 三千騎。タァウイ全土の兵力に比べればささやかなものだ。だが、国が幾つかに割れた時や、今回のように王都周辺のみでの競り合いとなれば、一団として大きな数である。
「奪われたのか?」
「いや。昨日まで、そこで匿っていたのだ。今朝方別の場所へ移らせたのが功を奏した」
 カリムは胸を撫で下ろしたが、安堵するな、と、セトはそれを咎めた。安堵してはならない。女は無事であったが、内通者がいるという証は立てられたのだ。
「私が離宮に娘を匿ったことは、私の兵たちを除けば二人しか知らぬ。離宮の牢へ入れたということになれば、見張りに付けていた兵の他には二人しか知らぬ」
「して、その二人とは……?」
「娘を連れてきた時、シャダとともに来た。その後アクナディン様に娘のことをお話した」
 どちらにせよ王宮神官である。カリムの日に焼けた顔がさっと青褪めた。言いながら、色粉の下ではセトの顔色も蒼白である。
「私としては、アクナディン様の方を疑っている。このところご様子がおかしいように感じられるし、神殿との繋ぎを私に譲っておきながら、今もって神殿に足繁くていらっしゃる。そもそもが、私を先王の許にお呼びになられた折から、ご行動に疑問点が多過ぎるのだ」
 人は、老いて欲深くなることがある。或いは唐突に悪行や善行を働く。未練を残し冥界へ逝くことを、必要以上に惜しむように。
「セト。貴公の疑念を、私はもう少し確かなものに変えられるぞ」
「何?」
「ずっと以前に、マハードが気付いたのだ。王宮神官になりたての頃、先代の神官の記録を見付けてな。アクナディン様は元々アクナディンヘテプ様と仰られて、先王陛下の弟殿下であらせられたアクナディン様の家臣でいらしたのを、殿下の死で昇格し、身分に合わせヘテプの取れた名を新たに先王から賜ったとされている。だが、その実初めからアクナディン様と仰られていたのだと」
 ヘテプとは、満足を表す単語である。人や神の名に付け、その満足のため仕える家臣の名を作る単語ともなる。アメン=ヘテプもアメンを主とする王朝の名であるし、アクナディンヘテプならアクナディンという名の人物の家臣であったということだ。それが。
「初めから、ヘテプは付いていなかった? どういうことだ?」
「同一人物だったということだ。弟殿下のアクナディン様と、現王宮神官のアクナディン様は同一人物でいらっしゃる」
 巧妙に隠されていた真実であった。王宮に来て間もないセトには、混乱して整理し切れぬ情報であった。
「待て、待て、解らぬ。弟殿下のアクナディン様は、先の戦い、犠牲の民を出した戦いで、戦死されたのではなかったのか? 私が物心付くか付かないかの頃だったが、覚えているぞ。我が父はあの戦いに出ていて、アクナディン様の隊だったのだ。皆勇敢に戦ったが、結果は全滅であったと、確かにそう連絡があった筈だ」
「それが嘘なのだ。父君が隊にいたという貴公に言うのは気が引けるが、かの戦い、かの地で村人と隊員は王宮が態勢を整えるための捨て石にされたのだ。アクナディン様がお考えになった作戦でな。無論、弟殿下アクナディン様や高級官僚は退避して生き残った。だがこの作戦はあまりに外聞が悪い。そこで、生き残ったものたちは身分を偽って王宮へ帰り、隊は指揮官を含め全滅したということに、表向きはしたのだ」
 足下が崩れるような感覚を、セトは味わった。そして現実に、セトの身体は傾いだ。眩暈を起こしたセトの腕をカリムが掴み、倒れそうになるのを支える。
「セト! 済まない、話さなければよかったか? それほどまでに衝撃を受けるとは」
「いや、いい――」
 薄らとした記憶だが、セトの父はヌブトびとではなかった。セトのヌブトの形質は、母よりのものである。稀にいる、白き肌を忌まぬものたち。そうであった父を恃み、細々とセトと母は暮らしていた。それが母子二人放り出され、あの苦難の日々も父が国家のため戦って果てたからと思えばこそ耐えたものを。捨て石にされるため父は徴集されたというのだ。
「大丈夫だ、驚いて意識が白くなったが、それだけだ。続きを――これだけならアクナディン様が王宮に背く理由とはならぬ」
 セトの腕を掴んだまま、カリムは眉を顰め顔付きを険しくした。
「聞かぬ方が、よいかもしれん」
「言え。先程は不覚を取ったが、次は心して聞こう」
 引かないセトに、カリムが折れた。この先は推測になるがと前置いて、カリムが口を開く。
「最初は犠牲の民に対し申し訳なく思う気持ちが彼らに協力させ、貴公を贔屓にしているようだからそれもあって王宮に反旗をと考えたのだ。だが、今貴公の話を聞いて更に確たる考えが出来た。アクナディン様は、貴公があの隊にいたものの息子だと、気付いているのではないか? それ故に、罪滅ぼしのつもりで貴公を取り立ててきたのではないか?」
 それ自体はあり得る話である。だが、セトにはまだ理解できぬ領域があった。
「だとして、何故、王宮に背くということになるのだ。今や賊となり反旗を翻している犠牲の民らへの罪滅ぼしというなら解ろう。だが、私は王宮に勤めているのだぞ。私に対し罪滅ぼしというのなら、何故その王宮を危うくするのだ」
「それは」
 どの程度はっきりと話すべきか、カリムはセトの顔色を窺った。いかに見ようと色粉の色は変わらない。カリムの目に、セトは平然として見えた。
「王宮でなく、王に背くのだと言えば解るか? ファラオは、貴公を困らせている」
 拒めども贈られる詩。噂になるほどの夜のおとない。それは、かの老人の耳にも入っているだろう。
「賊と犠牲の民らに協力し、彼らの望み通り現王を引き摺り下ろせば、貴公を悩ますものもいなくなる。犠牲の民と、貴公と、両方への罪滅ぼしができる」
 カリムは言葉を切った。セトが片手で口を覆う。
「まさか――間違っている。そんな方法は」
「そうだ間違っている。だが、老いと焦りは判断を誤らせる」
 セトは、今度はよろめきもしなかったが、カリムは掴んだままだった薄褐色の腕を更に強く握った。
「私、故、か? 私故に、国が滅ぶのか?」
「そうではない。アクナディン様とファラオの誤り故だ。そして、まだ滅んではいない。傾いてはいるが、今し方の伝令を聞いただろう」
 二人が庭へ出てくる前、王のいない王の間で報された、シャダからの伝令である。柘榴の下におらぬ彼は、消息途絶えた王を探し、西岸の渓谷に一隊を携え陣を張っていたのだ。
 伝令は、彼が王を見付けたこと、そして賊らの潜伏場所をも探し当てたことを教えた。
「しかし、ファラオは急いておられる。今すぐに賊らとの決戦をと言うが、そなたが言うには、焦りも判断を誤らせるのであろう。ファラオの判断は正しいのか」
「さあな。だが、我らは行かねばなるまい。アクナディン様が本当に離反されるのか、ファラオの戦術は確かか、間近に見て処置に当たれるのは我々だけだ」
 カリムはセトの腕を放した。セトが身を翻す。
「どこへ?」
「出立の支度をしに戻る」
 セトは数歩行き、それから、半身だけカリムを振り返った。
「のう、カリム。白い肌と青い眼は災いを呼ぶ。貴公は、本当だと思うか?」
「何を急に――ああ、匿っているという娘か。私はああいう俗信は信じん。だいたい、あれが本当なら緑海の先は災いだらけということになるではないか。貴公も、あの類は信じない方だと思っていたが」
「あぁ」
 セトは頷いた。
「私は信じぬ」
 再び柘榴の木に背を向け、セトが去っていく。不信げにカリムはそれを見詰め、セトの姿が王宮内へ消える頃、己の右てのひらが赤茶色の土で汚れていることに気が付いた。さっき柘榴の幹に触れた時だろうか、そのあとセトの腕を掴んだからセトまで汚してしまったなら悪かったなと、そう思いながらカリムは彼の分厚いてのひらを打ち合わせ、それを払い、落とした。


<BACK NEXT>

アクナディンヘテプ:「アクナディンの満足」の意。アクナディン自体はもしかしたらアク・ニ=ラディ=ン(魂、人の支配しないもの)に分解できるかもしれない。