セネト・パピルス 19
2009/9/26


「セト様」
 己を助けた神官の姿を認めると、女は腰掛けていた簡素な寝台から立ち上がった。
 女は、名をキサラといい、タァウイの周辺を生きる異国の族の娘であった。族の本隊とはぐれ、タァウイの民の慈悲も受けられずにいたところを、セトが保護したのだ。
「衰弱状態は脱したようだな。近く、本隊の位置を調べよう。分かりしだいここを出るがいい」
 女は頭を下げ賛美の腕を差し掲げた。長い銀の髪が白い腕の間に垂れる。
「慈愛に満ちたお方。ですが、近くというのは、いつになるのでしょうか。ここに匿われ、外の様子は露台から眺める程度にしか見えませんが、それでも、何か起きているのは分かるのです」
 娘の青い眼が不安げに揺れていた。セトは言葉に詰まる。この他族の娘に、べらべらと内情を喋ってよいものだろうか? だが何も教えぬのはあまりでもある。
「……民が反乱を起こしているのだ。少し規模が大きい。これが収まりしだいということになるだろう。日付の確約はできん」
 外に出れば分かるようなことだけ、セトは話した。キサラが息を呑む。
「反乱……大エジプトほどの国でどうして……」
「国巨大なればこそ、綻びの数多くなるもの。賊がそれに付け入り、民を煽動したのだ」
「その賊というのは、もしや……」
 不安げに、しかしキサラは言い放った。
「犠牲の民と呼ばれる人々では?」
 言い当てられ、今度はセトが息を呑む。町でも、多少言われていたことだ。キサラが知っていたとしてもおかしくはない。だが、彼女の声には責めるような響きが含まれていた。
「セト様、戦場に行かれるような格好をしていらっしゃいます。討伐されるのですね。話し合うのではなく」
「仕方なかろう。奴らは民を煽動する一方で、煽動に乗らぬ民へ危害を加えてもいる。もはや対話で決着の付く問題ではない」
 キサラは青い眼を伏せ、憐れです、と呟いた。
「犠牲を受けて、なおかつ捨て置かれ、立ち上がればそれも踏み潰されるのですか」
「……仕方なかろう。国家安泰のためならば、僅かな民の犠牲など、王家の谷の石ころに過ぎぬ。そう思わねば、国など、重きに過ぎて治められぬものぞ」
 それは、セト自身に向けた言葉でもあった。今は、父の無念を思ってはならない。捨て石とて、国家安泰のための、礎の一つに変わりはないのだから。
「ですが――そんなことは、力あるものの傲慢ではないのですか。犠牲とは、無縁の方たちの」
 セトは、理性でもって、首を振った。まるで他人の言葉であるかのように頷いてしまいたい気持ちはあったが、それはできなかった。
「聞け、キサラ。石ころに過ぎぬと、私は決して、驕ってそう言うのではない」
「では、どうして」
「それは理念なのだ。犠牲など、出ぬが一番よかろう。だが、何かを犠牲に選ばねばならぬ時、国全体を混乱の渦に巻き込んでまで、一人のために動けるだろうか」
 答えは無かったが、セトは先を続けた。
「国家安泰のためならばと、石ころに過ぎぬと、私は決して、驕ってそう言うのではない。それは理念であり、多数の良き暮らしのためならば、私自身が石ころとなることがあったとて、構わないのだ」
 今後を思えばこそ、セトはそう口にした。キサラが納得したかは、この際、セトには関係無かったのだ。それは、柘榴の木陰を出てから確とした、セトの決意である。
「あぁ、話し過ぎたな。お前が間違い無くこの部屋へ移っているか、確かめに来ただけだったというのに」
「セト様!」
 踵を返し出て行こうとしたセトを、キサラは呼び止めた。
「何故、私のようなものを助けて下さったのですか。私を石ころに、三千の軍馬のための質にしようと?」
「助けに入った時点で、お前がアシュの娘とは知らなかった。知ってからは、欠片もそう目論まなかったとは言わぬが――」
 手首に付けた金環を外しながら、セトはキサラの許へ戻った。彼女の目の前で、金環に隠れていた皮膚へ爪を立てる。
「ただ、同じなのだ」
 赤茶色の粉が床へ落ちた。女が目を瞠る。セトは微笑むと手首へ金環を付け直した。
「セト様、貴方の理念を、今理解しました」
 犠牲を受けて、なおかつ捨て置かれ、立ち上がればそれも踏み潰される。それは、ヌブトや近隣諸民族の白きものたちもそうなのだ。犠牲の民がもはや賊と呼ばれるものに成り下がったと知っても肩入れする気持ちをすぐには切り替えられなかったのは、キサラにとって無理の無いことだったろう。それ故、セトの理念が傲慢だけでは成り立たぬ確固としたものであると、彼女は気付いた。
「私はもう行く」
 セトが再び踵を返す。その背に、白い娘は賛美の言葉を投げ掛けた。
を捨てて国家へ仕えるお方にマアトあれ。貴方様の拾う石ころが、重荷となるほどの数でありませんように」


 セトの一隊が西岸へ付いた時、戦いは既に始まっていた。シャダが陣を張っていた渓谷をやや東に逸れた所で、取り取りの軍旗がはためいている。王の神標、双頭の山犬、王墓警護隊の徽章――セトの目に、味方の旗が映った。
「戦況はどうなっている!」
 山犬の標章に追い付くと、セトは聞くまでも無く、それが芳しくないことを悟った。その隊を率いていたのはシャダだが、既に負傷し、兵の数も減っていたのだ。
「著しく悪く……気を付けて進まねば、奴ら標章も揚げずに奇襲を掛けてくるのです」
「ファラオは」
「警護隊とともに深追いを」
 シャダは涸れ谷の先を指差した。この位置からは、兵も旗も見えない。セトは輿の上から前後左右を見渡した。有翼のアセトと甲殻翼虫が近付いてくる。
 王の中軍と警護隊は涸れ谷の奥だという。己の隊と双頭の山犬はここにおり、たった今他の二隊も認められた。だが、これでは数が合わない。
「セト!」
 忙しく辺りを見回すセトの耳に、甲殻翼虫の旗を掲げやってくるカリムの声が届いた。
「アクナディン様の隊はどうされたのだ! 貴公の隊と連隊で行くと――」
 決定的であった。カリムも、言いながら気付いたのだろう。最後まで言い切らず、唇を震わせた。
「知らぬぞ。私は知らぬ!」
「どういうことです? アクナディン様がどうか……」
 先程の話を知らぬシャダが、傷を押さえ身を乗り出した。弾みに血が滴り彼の輿の担ぎ手に降り懸かったが、そんなものには構っていられなかった。
「造反だ」
 呟きを、近くの兵が聞き返した。セトが背を捩り三隊の兵らを見返って息を吸う。
「造反であるぞ! 王宮神官アクナディン造反!」
「まさか!」
 どよめきの中、シャダが叫んだ。
「信じられません。何故」
「説明している暇は無い。ファラオは?」
「涸れ谷の奥だと」
「急ぎ、追おう。――いや、待て。見ろ、ファラオの神標が!」
 砂煙とともに、谷の細道から走り出てくる兵が見えた。疎らな人影が幾分寄り集まっている中心に、王の軍旗が立てられている。一時撤退か。いや、賊に押されているのか。
「走れ! 中軍を囲み王と賊の間に入るのだ!」
 その声を合図に、三隊は涸れ谷の入り口へ盲進した。近付くにつれ、血のにおいが濃くなる。シャダの隊も傷付き死人を出していたが、谷の奥から漂ってくるそれは、比べものにならない。
「セト様! カリム様の隊が中軍の前に出まして御座います!」
「我が隊は右辺から後尾に付けよ! 歩兵、槍を構えて賊の追撃を防げ!」
 セトは、戦局の指示を出すと担ぎ手に命じて中軍の内へ入っていった。軍旗を目印に王の輿へ近付く。周りを護っていた王墓警護隊のものたちが、彼に気付いて場所を空けた。
「ファラオ。ご無事で御座いましたか」
「兵は失ったがな。奴ら、思いの他に数が多い」
「神官アクナディンの一隊が造反致しました。それででしょう」
 王はセトの言葉に驚き、輿に乗っているのも忘れて立ち上がり掛けた。箱付きでなく椅子状の輿だ。頭を打ちはしなかったが、急な体重移動に担ぎ手がぐら付き、アテムは我に返った。
「何――だが、今までに見た敵兵は、全て賊か農夫かという身なりのものばかり。アクナディンの配下のような、兵らしい兵はいなかったぞ」
 ならばどこへ? セトとアテムが顔を見合わせたその時、ナイルの向こうに巨大な土煙が上がった。
「王宮! 迂闊だった。こちらへ兵を集め過ぎた」
「私の兵を幾らか置いてはきましたが……」
 足りぬだろう。今すぐに戻らなければ。それでも間に合うかどうか。
 セトの脳裏を、白い肌の娘がよぎった。見付かり、利用されているのでは。或いは、王宮が打ち壊されるに巻き込まれ、命を落としてはいまいか。計算と、同種故の連帯感、淡い情が、セトの心臓を支配した。
「セト。隊を率いて王宮へ戻れ。ここだけ持ちこたえても仕方が無い」
 王命に頷き、セトは中軍を離れた。空いた部分を、隊列整えなおした警護隊が補う。
「ああ……」
 ナイルを渡る船上で、兵士の一人が悲痛な声を上げた。彼は、これから己の戦場となる東岸ではなく、西岸の荒野を見ていたものだ。声に釣られ振り返ったセトの視界で、甲殻翼虫の旗が、次いで双頭の山犬の旗が引き倒された。
 王の中軍は後方へ下がり、別経路からの援軍と合流しようとしている。さすがに、無傷の戦車隊をぶつけてまで敗北はしないだろう。敵兵の数も、セトはその始めを見ていないが、地に伏す屍を見る限り、減っている。消耗戦、持久戦になれば、国家の軍に負けは無い。この国は、他国より畏怖をもって大エジプトと呼ばれる国なのだ。だからこそ賊も軍備整わぬ内の奇襲を掛けてきたのだろうが、その企てもあとは王宮さえ護り抜けば打ち崩せる。だが――
 ――のう、カリム。白い肌と青い眼は災いを呼ぶ。貴公は、本当に、偽りごとだと思うか?――
「私は、信じてしまいそうであるぞ……」
 隼の標章を掲げた戦車隊が動き出した。西岸の勝敗はじき決するだろう。セトはそれを見ながら、もはや答の返らぬ問いを、心の中繰り返した。


第三章 メリィ・イ・セシェン (前編) 終


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アセト:イシスの名で知られる女神。