セネト・パピルス 20
2009/10/6


(この間のパピルスは損傷が激しく解読することができない)


第三章 メリィ・イ・セシェン (中編)


 見上げるセトの視界に、真っ白な、塊状の雲が映っていた。大きく発達した雲の形は、縦にも横にも層を成して広がり、さながら龍のように見える。
 あの雲の下は、酷い嵐だろうか。己と同じ名の荒ぶる神を思い、セトは雲から目線を逸らした。嵐は神たるセトの怒りであるという。だが、今、それは人たるセトの怒りでもあった。
 セトは、柘榴の木陰に佇んでいた。ただ一人で、収穫期も第一月を過ぎ熟し切った実を生らす柘榴の木陰に佇んでいた。
 庭園の柘榴は王宮崩壊の難を逃れそこに残った。一部を打ち崩された王宮も、あれから二月以上が過ぎ、全て無かったことであるかのように壮麗な姿を取り戻している。全て、本当に、無かったのならばどれだけ良かったか。しかしそうではないのだった。憐れにも巻き込まれ命を失った娘の供養を、ペル・ネフェル、死者のための美しき家に依頼したのは、セト自身である。
 兵士を追悼する石碑も立った。カリムやシャダは、用意されていた墓所へ親族の手で厚く葬られたという。セトはその場所を聞いた。西岸は遠いが、石碑は王宮域にあり、行くことも容易い。だがセトはそのどちらにも足を向けていなかった。彼らを思った時、セトの足はこの柘榴の木陰へと歩み出すのだ。
 柘榴の下にいると、セトにはまだ彼らがそこで論議しているかのように感じられる。七十日も過ぎ、そろそろ冥界の道を抜けた頃であろうから、実際バーが帰ってきているのかもしれなかった。タァウイでは、故人が無事冥界を抜けると、魂の半身であるバーを、好きな姿に変え、どこへでも自由に行かせることができるようになると信じられている。現世へでも、冥界のどこかへでも、人なり動植物なり望む姿で自由に行き来できるのだと。
 バーは、時に、地に両足で立つもの――現世に生きるもの――を助けにやってくる。生者と直接に会話することこそしないが、例えば供物皿の裏に、願いを書いて置いておけばバーがそれを読み叶えるための手助けをするのだ。
 セトは特によく熟した柘榴を一つもぎ、足元から拾った石で果皮に傷を付けた。
 分かたれし民の、二国において一つとなる日が訪れんことを。
 書き終え、セトは柘榴の根元へ実を置いた。枝に止まり様子を窺っていた鳥が降りてきてそれを突付く。皮がはちきれ、真っ赤な粒肉が姿を現した。甘い香りが漂う。
「セト!」
 声に、セトは一度目を閉じ、そして開いた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
 声の主は大股に柘榴の陰へ来たりてセトの腕を取った。色粉が落ちますという抗議には耳も貸さず陽射しの下へセトを引き摺り出す。
「ファラオ。御手が汚れましょう」
「あとで洗う」
「ファラオ!」
「ああ、面倒だな。金環の上から掴めばいいのか?」
 渋々といった様子でアテムは持ち方を変えた。腕を放すという選択には至らない。セトは苛立つ心を抑え損ね、その場に立ち止まった。
「面倒だと仰るのならば、もう構わないで頂きたい。その方が貴方様のためにもなりましょうや」
「どういう意味だ」
 王がセトの腕を強く引いた。セトの足が意に反して動く。
「どうぞご自分でお考えに」
 アテムは少し考えるような素振りをしてセトの腕を解放した。
「考えよう。……例えば、お前が色粉を落としても他の民と変わらぬ生活ができるようになれば面倒ごとは無くなるが、そういうのはどうだ」
「それは――」
 どういう意味かと、今度はセトが聞き返す。アテムは大仰に手振りを付けて、どうもこうも、と答えた。
「王の名においてもはや白き肌は災いにあらずと述べればいい。此度の武功はヌブトのものによって立てられたと。王家とヌブト公家は和解に至り、アメン=ラァの怒りも解かれたと」
 セトの心が揺れた。自分一人の話ではない。あれから何度、もし、と考えただろうか。もし、白き肌が災いでなければ。人目に付かぬよう匿う必要が無かったならば。あの娘とて、王宮などにはおらず、命を落とすことも無かったのではないか?
 もし王の言葉が現実となれば、憐れな娘は今後二度と現れないだろう。だが、そう巧くいくものとは、セトには思えなかった。武功だの何だのと理由を付けたところで結局は情人――セトが応えたことなくとも、人はそう思っている――への恩寵に過ぎないのだ。それで、民を納得させることができるだろうか。
 できまい。王権強大なりし時代には可能であったかもしれないが、今はそうでない。
「もっとよくお考えを。この揺らいだ国家の枠組みが、それを許すかどうか」
 アテムは、駄目か、と呟いて歩き出した。その手は再びセトの腕を掴んでいる。王宮の中へ向かわされながら、セトは庭園を振り返った。
 地面の柘榴を啄ばんでいた鳥はいつの間にか三羽に増えており、セトが振り返ったと同時に、果皮を銜えたまま揃って空へ飛び立った。鳥を追って上向いたセトの目が風に流れ形を失った雲を見る。それはもはや龍ではなく、立ち昇っては消える、儚き香煙のようであった。


 後日、セトを含む数人の高官が王の間に招集された。
「さて、先日の争いの後始末も、凡そにおいて片が付いた。争いの際からこの間、特に功を立てたのはセトであるな。幾ら余が言おうとも、それには皆、異論無いであろう」
 王の口調でアテムが問い掛ける。セトは王宮を奪還し、町の復興にもよく携わった。王の寵遇でなくそれは事実だ。だが、その問い方ではたとえ異論あったとて公には表れなかっただろう。
「して、ファラオ、それがいかが致しました。セトの功績は認めるところで御座いまするが」
 宰相であるシモンさえ、王が何のために官僚を集めたのか知らされていなかった。セトは、先日の話であろうかと朧に予測はしていたが、王からは何も聞いていない。
「おお、それよ。それでな、その功に免じて、セトの族に恩赦を与えようと思うんだが」
「族、に、恩赦ですと?」
 官僚たちがざわめいた。王宮で、セトが族の名を口にしたことは無い。恩赦が必要な族とはどこだ。先々代の王座の女と不貞を働いたとされるイティの侯家か? いや、あれは先代ファラオの即位の折ベヘデト公の執り成しで既に許された筈――。
「セト。腕を貸せ」
 玉座を降り、アテムはセトの傍へ立った。侍女が一人、予めそうするよう言われていたのだろう、足元に傅き濡れた亜麻布を彼に渡す。
「ファラオ。何をなさるおつもりです」
「何を? 解っているんだろう」
 亜麻布がセトの肌を撫でた。力強い動作にセトの眉が寄せられる。亜麻布がセトの『表皮』をこそぎ落とし、ヌブト、と誰かが唇を震わせた。
「そうだ、見よ、此度の功はヌブトのものによって立てられていたのだ。王家とヌブト公家は和解に至り、アメン=ラァもその怒りを静めよう。もはやその肌を隠す必要は無く、白き肌が災いを呼ぶことも無い。上下二国の王が、そうと定める」
 茶色く汚れた亜麻布を侍女に返しアテムはそう宣言した。周囲に束の間静寂が広がる。
「お……おお、ファラオ。我々は、それでよかりましょう。セトの働きを間近に見ております故、それで納得も致しましょう。しかし貴方様の慎み無い行いは広く民にも知れ渡ること。民がその恩赦を、納得しますかどうか」
 真っ先に我に返ったのは老宰相であった。セトと同じ懸念を、彼は表明した。
「慎み無い、か。随分な言われようだな」
「夜ごと外を渡り歩く王へ、他に何と言葉を掛けよと仰られます」
 アテムはぷっと吹き出した。
「全く、随分な言われようだ! 誰か憐れめ、慎みの無いことなど一度もさせてもらっていないというに、こうまで言われねばならぬこの身をな!」
 振られ通しだというのだ。官僚の一人が堪え切れず小さな笑いを漏らした。セトに睨み付けられ下を向く。
「まあ、聞け。そこは当のセトにも言われたからな、考えてはみたさ。要は民に、慎み無い寵愛なんてものは勘違いだったと理解させればいいんだろうが」
「勘違い、で、御座いましたか」
 シモンが疑うような声音で問いただす。
「揚げ足を取るな。ともかく、だ。セト、お前は結婚しろ」
「――は?」
 結婚。今のセトにとって、本来以上の意味を持つことだ。王とセトの噂話の最後には、いつも問答が付けられる。本当の話だろうか? 神官セトがいまだ未婚であることを思えばあながち嘘とも。
 妻を持てば、噂も多少は収まりを見るだろう。王宮で王の傍近くへ参内し日々の振る舞いを見ているものたちは誤魔化せまいが――王権が強固であるほど得をする彼らを誤魔化す必要も無いが――民を黙らせるには充分である。
「マナ。知っているだろう、あれと結婚しろ。あれでケメヌ筋の姫だからな。いつまでも一人身にはさせておけまいし、都合もいい」
「や、や、ファラオ、それはなりませぬぞ」
 シモンが、慌てふためいて二人の間に割って入った。王家の姫とは、すなわち王座の女たる権利を持つもの。セト自身も、マナとの婚姻には否を唱える。
「それでは、貴方様に子の無き今、次の王は私となるではありませぬか。かの姫がこれまで夫を持たなかったのも、それに配慮してとの話。この婚姻をお受けすれば、必ずや我が叛意を疑うものが現れましょう」
 言葉を切り、セトは己の前に立つ老人を目線で示した。
「ご覧、シモン様などもう狼狽しておられるではないですか」
 ごほん、とわざとらしく宰相が咳をする。
「いや、その、セトが謀反を企てるとは言いませぬが――されど、先のアクナディンの例も御座います。誰ぞよからぬ考えでセトを祭り上げなばどうなさいます。王位継承順に触ることは、まだ暫くお避けになられた方がよろしいかと」
 二人の反論を聞きながら、アテムは玉座に戻った。官僚たちはことの成り行きを見守っている。
「そういうだろうとは思っていたぞ。だがな、余はその件もあって言うのだ」
 アテムは口振りに威圧感を込めた。セトが密かに眉を顰める。
「万が一にも勝手な夫など持たれては困る。余の後宮に入れようかとも思うたが、そなたらは後宮の拡大もならぬという。後宮を広げるな、外に通うな。ならば、と思い付いたのだ。セト、その方は種無しの夫としてマナと婚姻し、王宮域へ越して参れ」
 場は、水を打ったように静まり返った。肯いも否も無い。
 姫の夫が種無しであれば将来の王位継承順に禍根を残すこともない。セトが王宮域へ越してくれば王は夜な夜な市外を通って出歩く必要も無くなる。セトとマナが婚礼を挙げれば広まった噂にも歯止めが効こう。一つ一つは良きように思える。だが、その三つが皆の頭の中では繋がらないのだ。
「何を仰りたいのですか。私は確かにこの年まで未婚で通してまいりましたが、それは人に肌を明かせぬヌブトの血故のこと。種を持たぬというわけでは」
 セトの問いに、王は口角を吊り上げた。
「今のお前がどうであれ。セト、お前は余の宦官となれ。結婚など外向けの言いわけだ。民よ見よ、寵愛などそなたらの思い違いだ。不届きものめ、マナの夫の座はもはや無いぞ。とな。だが実際は通常の婚姻を遂行されるわけにもいかない。国家としても、余、個人としてもだ。初めはお前が靡くまで待つつもりであったが、いい加減に根も尽きたぞ」
 宦官。セトは口の中でその言葉を繰り返した。意味を咀嚼し、化けものに相対するような目で王を見遣る。
「セト」
「土台正気とは思えませぬ」
 白い肌の神官は賛同を求めるように官僚たちの顔を見回した。
「――――」
「――そなたら、何故何も言わぬ!」
 官僚たちは、皆、俯いていた。誰一人、声を上げない。
「何故!――シモン様、何故王を諌めて下さいませぬか。宰相閣下ともあろうお方が、王をお諌めすべき第一のお方が!」
 セトの矛先がシモン個人を向いた。シモンは答えない。答は持っているが、それを口に出せるほど、老人の心臓は恐れ知らずでなかった。口に出した瞬間、心臓はその不徳に汚染され重くなる。アメミットの胃袋に、一歩近付く。
「セト。皆は我が案に賛成であるようだが」
 シモンの持つ答は、実に単純であった。セトとマナの意思さえ思考の外に追いやれば、何と多くの問題がそれによって片付くことか。肌の色が諍いを呼ぶ治世上の歪みも、王の夜歩きもそれへの批判も、王位継承順が引き起こすかも知れぬ争いも、全てが無となる。
 争い無き継承、批判無き治世、諍い無き国土。王権に組するものにとって、抗いがたい誘惑であった。セトにも、皆が何も言えなくなるのは解る。だが、それは頭でだ。
「そう悲愴な顔をするな。奴隷にやるんじゃあるまいし、ただ切り落として熱砂で傷口を焼くだけのような方法を取ったりはしないさ」
「誰がそのようなことを気に掛けて……」
「気に掛けるところだろう。この国の熱砂式はすぐに失敗して死ぬからな。紅海を抜け入り江をくぐったそのまた先じゃ、もっと安全なやり方が主流だとか。ちゃんと、そこの医者を呼んでやる」
 それが問題ではないというに、アテムは浮かれた様子でその地の医者の技の高さを語り出した。
 事実、浮かれているのだ。民への体裁を理由に散々拒み倒されてきた相手が、漸く手に入る! 治世に絡めれば誰も反対はできない。アテムは賢王でなかったが、賢しい王ではあった。もし彼に神を過信せぬ心と優しさが足りていれば、稀代の名君となったであろうくらいに。
「王宮の側にお前の、王妃宮の側にマナの、館を与える。結婚など引越しの口実だ。越して参れ。そして余の宦官となれ。セト」
 王は言葉を区切った。
「上下二国の王は、死の矢よりも速く我が言葉の全てが行われるように命じる。もはやその肌を隠すな。白き肌は災いにあらず」


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ペル・ネフェル:「美しき家」の意。墓地の付属施設で、ミイラ作り等を行った。