セネト・パピルス 21
2009/11/8


 シバの国を経由してやってきたという医者は、手際も腕もよかった。
 だが、彼が置いてゆく薬を、セトは毎日飲まねばならない。苦味のある黒い粉末は所謂鎮痛剤である。僅かに上体を起こしたセトが薬を口内に注ぐと、控えていた侍従が金の杯に汲んだ水を渡した。
 薬を飲み下すセトの喉は水百合の花びらがごとくに白い。それは元来の白さに加え、やつれ、青褪めた、その色なのだ。
 薬の作用か、ここ数日セトの思考にはずっと靄が掛かっていた。靄の中、セトは心臓の声を聞く。
 石ころたれ。私を捨て国家の礎たれ。……何のために? 誰のために?
 靄が僅かに薄くなる頃、侍従は一旦部屋を出、食事を持ってセトの許へ戻ってきた。膨らんだ柔らかいパンに、蜂蜜と牛の乳が添えられている。牛の乳は、医師の強い勧めで用意されたものだ。セトはそれを一瞥すると、暫く下がっているよう侍従に命じた。
 食欲は無い。身体の辛さが、それを奪っている。牛の乳を舐める程度飲んで、セトは再び床に臥した。寝台から窓の外を眺める。
 部屋は、王宮の中の一室だった。窓からは着工中である二つの建物が見える。完成すれば、それはセトとマナの居館となるのだ。王宮域に建つ二つの小さな館。王宮の離れ、と、呼べるかもしれない。
 セトが見るその窓へ、ふいに鳥が降り立った。窓枠に止まり、不安げな鳴き声を上げて首を肩に埋める。
「鳩か」
 セトは手を伸ばし、先程横の卓へよけた盆からパンを取った。小指の先程にちぎって床に投げる。鳩は不思議そうに、丸い目でそれを見た。
「何だ、餌が欲しいのではないのか?」
 更に一つ、セトがパン屑を床に落とす。
「そら、来ないか」
 呼び掛けに答えたものか鳩は大きく羽ばたいて窓枠から床へ降りた。一つ目のパン屑を食べ二つ目のところへ、首を振りながら歩く。そこへ割り込むようにして、ばたばたと翼を鳴らし窓から部屋へ、新たな鳩が二羽飛び込んできた。
「今日は窓からの来客が多いな」
 餌を取られた一羽目の鳩がくるると喉を鳴らす。セトは、細かくちぎったパンの欠片を幾つか一斉にばら撒いた。三羽が首を寄せ合って餌を突付く。手許で残りのパンも細かにしながら、彼は再び心臓の声に耳を傾けた。

 ――迷うこと無かれ、既に答を知るものよ。何のためか、誰のためか、既に心定めたるものよ。王家の谷の底の底へ向かい、既に転がる石ころのお前。成すべきことを成せ。手段すらも、お前は知る筈だ。成せ、そなたの族の神がそうしたように。計略の主たる、かの神のごとくに。

 セトは臥したまま小さく首を振った。
 人は、己の心臓を欺けない。心臓の声は人の本心に他ならず、それが聞こえた時、彼はもう己がどうしたいのかを決めてしまっている。なれば、後押しを要するか、自らゆくか、それだけなのだ。
 三羽の内でも若いのかやや羽の短かった一羽目が、寝台の傍近くまでやってきて、首を傾げセトを見ていた。寝台からだらりと垂れ下がる白い手に濃い灰色の羽毛を摺り寄せ餌をねだる。セトが指を開いて中のパンを現すと、若鳩はてのひらからそれを啄ばんだ。
 緩やかに流れる時間は午睡の始まりを知らせに侍従が戸を叩くまで続き、そのあとも連日、鳩はセトの許へやってきた。懐かれたらしい。餌が無くなっても帰らず午睡の床に乗り上げられることもしばしばだった。
 そして、鎮痛剤が不要となり、あとは滋養を付けるのみと医師の判断が下りた頃――
 勢いよく開かれた扉に驚き、鳩たちが我先と窓の外を目指し飛び立った。地面にはばら撒かれたパン屑のみが残る。
「おう、何だ、鳥か」
 闖入者――アテム・アメン=ヘテプは、医者の手配後初めてセトの前に顔を見せた。
「随分久しくお見えでなかった方が、今日は何用です」
「冷たいもの言いだな。鳥を逃がしたので怒っているのか? それとも会いに来なかったのをか? 後者なら、そうだといいんだが、許せ。お前がある程度落ち着いて回復するまで、渡りはならぬと医者がな」
 アテムはその褐色の指先で床のパン屑を一つ拾った。
「それにしても。食事を取るようになれどその割りに回復が遅いと医者が言うわけだ。全て鳥の餌か」
「鳩にやる傍ら少しは口に運んでおりますよ。今日はもう食事も中断と相成りましたが」
 床も人を呼び片付けなければとセトが抑揚の無い声で呟く。不機嫌さを隠そうともしないその態度に、アテムはかえって気を良くした。その壁は慇懃であるだけの時よりも突破するのが容易に思えた。
「具合は、まだ悪いのか。お前さえ負担に思わないのであれば、いつでも移り住めるよう、館の準備は整えてあるんだが」
 揃えた調度品をアテムが羅列する。白い漆喰で塗り青睡蓮の文様をあしらった壁、香木の机に椅子、金や銀の食器、雪花石膏の枕置き。美しく高価な品々。セトは微笑んで彼の言葉を遮った。
「庭の様子をお聞きしとう御座います」
「お、おお、庭か。庭には、ああ、なんだったか――そうだ、菜園にレタスとイウリト豆を植えたぞ。果樹はネフトとナツメヤシを、池には睡蓮だ。花崗岩の長椅子を置いて、その傍には野薔薇の茂みも作った」
 早口に捲くし立て、アテムはセトの様子を窺った。セトは目を閉じていた。そして言った。
「柘榴を植え足して下さいませぬか。一本で構いません。柘榴が植わりましたら、私も館へ越しましょう」


 五日後、セトは王宮の部屋を引き払った。寝台暮らしで足元の覚束無いセトは侍女たちに支えられてやっとのことで館までの道を歩いたが、越したからにはそれだけでは済まないのだった。更に翌日には、形ばかりの、しかし民に見せ付けるための、婚礼の儀を執り行わなければならない。王が行ったそれよりは格段に簡素で楽なものではあるが、今のセトには酷であった。
「明日だが、お前は殆ど輿から降りなくて済むよう手配したからな。ただ座っていればいい」
 侍女たちが下がったのち入れ替わるようにしてやってきた王は、メフウ紙の手順書をセトに渡した。
 輿の上で神官がご大層に唱える祈りを聞き、輿に運ばれマナの居館に入る。翌朝窓から姿を見せればそれで終わり。要約すればこうだ。仮にも王家の姫との婚礼であるものを、なんと粗末に扱うことか。しかしセトは出掛かった言葉を飲み込んだ。セト自体、この婚礼に思い入れがあるわけではない。
「ああ、それから、ヌブトの恩赦だが。婚礼の前に王の言祝ぎとともに述べる。それでいいか」
 勿論あとで改めて触れを出しはするがとアテムが言い添えるのにセトは頷いた。
「いかようにでも」
「いいなら、それでいくぞ。ところで」
 アテムが部屋に、開いた戸から見える庭に、視線を廻らせた。
「館は、気に入ったか? 足りぬものがあれば何なりと言え、すぐに用意させる」
 足りぬものなど、ある筈も無い。元々住んでいた家にあったものでセトが望んだものは全て移され、それ以外は格の高いものに差し替えられている。部屋数は増え、増えた分の調度は充分に用意された。それを管理する召使いたちも、神殿勤めの頃からの忠節厚いものたちを、選び、連れてきている。
「既に、私には過ぎたご用意で御座います」
「そうか、まあ、もしあとからでも何か入り用になれば申せよ」
 会話が途切れると、庭とは逆の扉が叩かれた。入れ、とアテムが命じる。現れたのはシバの医者だった。
 彼は、いつもなら侍従が運んでくる筈の食事を手にしていた。怪訝な顔をするセトに、脈を取るついでにてと近付く。
「ふむ。まだ幾分弱くておわしますが、安定なさった。今後、お命には障り無いでしょう」
 滋養を付けることです。持ってきた食事を指して言う医師と王が目配せをしたのに、セトは気付かなかった。平時のセトならばありえぬことだ。寝台暮らしの前ならば、決して。
 医者が退室し、アテムは食事の盆を取り寝台のセトに渡した。夕餉の盆には、いつも通り柔らかいパンと蜜、牛の乳が乗せられている。
「さぁ食え。今日は鳩もいない、誤魔化しは効かないからな」
 差し出されるまま、セトは蜂蜜の塗られたパンを口に含み、牛の乳で飲み込んだ。パンも蜜も乳も、きちんと食べたのは、療養の身となってからこれが初めてだった。
 食事は、ゆっくりと進む。その間、アテムは黙ってセトを待っていた。黙って、何ごとかを考えて。
「ファラオ?」
 険の無い声だった。セトの食事は、いつの間にか終わっていた。王の考えは、その声を聞いた瞬間に定まった。
 セトの視界が、急に傾く。初め、それが何故か、セトには解らなかった。押し倒されたのだと知って、彼の身体は強張った。
「嫌か」
 覚悟はした筈だった。だが、その舌も、首も、凝り固まったように動かなかった。
「怖いのか?」
 返らぬ答に、王は問いを変えた。そうかもしれない。怖いのかもしれない。それを訴えようとして、しかしセトの唇は微かな息を漏らす以外の働きをできなかった。アテムの褐色の腕が、きつくセトを抱き、愛撫を始めようとしていた。
「大丈夫だ、そう痛くは無い筈だ。さっきの牛の乳に、レタスの汁が混ぜてあった。あれは感覚を鈍らせる薬になる」
 セトは震えた。そしてアテムはそれを胸に這わせた手故だと思った。布を通しての愛撫は与えるにももどかしく、彼はセトの肩衣を半ば引き裂くようにして剥ぎ取った。透けるほどであった薄布は、あっさりと服の役目を放棄し、セトの白い胸をあらわにした。
 硬い指先が、平らな胸に浮いた小突起を捏ねる。淡い色だったそれは、すぐに柘榴の粒肉がごとく変色し、セトを困惑させた。
「よし、よし、平気だ。感じていろ。ここはどうだ」
 アテムの手が下へ降りる。あるべきものがあった筈の場所で、手は止まった。
「医者は、多少感覚が残っているものだと言ったが――」
 癒えたばかりの傷の周りを、赤い手が探る。セトの細い足が跳ねた。
 反応は、返るが、鈍い。身体に変化はあれど、意識は朦朧としているに近いのだ。まるで、微睡の中抱かれているような――。
 レタスの効き具合を確かめると、アテムはセトの身体を裏返した。片手で愛撫を続けながら、もう片手で疾うに張り詰めていた己自身を取り出し香油を塗す。
 その大きさを、セトが見なかったのは幸いだった。自分のものではない、恐らく王が持ってきたのであろう百合油の香りに気を取られ、次の瞬間、セトは衝撃に目を見開いた。
 痛みは、レタスが効いていたのだろう、そう非常なものではなかった。だが、その圧迫感は。
「あ、あぅ、う」
 息をしようとした喉には、空気でなく呻きしか通らなかった。息ができないほどに、押し潰される。楔はその白い身体の中へ打ち込まれたにも関わらず、セトはそれを、押し広げられるのではなく、押し潰されると感じた。それほどに、セトは混乱していた。今自分が何をされているのかを、完全に見失っていた。
「息を詰めるな。落ち着けば、然程でもないだろう?」
 細い腰は、今にも張り裂けそうだった。セトは、逃げ出したいと思い、しかし僅かにも動くことができなかった。それをした途端に、貫かれている箇所から、全身がばらばらになるかのような感覚がする。
「あ、あ、っ」
 内側で、柱が大きく脈打った。それが合図であった。
 セトの唇が開き、喉が声を振り絞った。出しうる限りの声でセトが悲鳴を上げる。もがく身体を、褐色の腕が押さえ付けた。
「あ、あぁ、やめ――あぁ、どうか、ぁあっ」
 初めの内、突かれる度口を付いた叫びは、しだいに弱まり、聞こえなくなった。もがく力は、それより先に尽きていた。
 アテムは、低く呻くと、セトの中へ精を放った。熱を受けて蠢く肉筒から素早く自身を引き抜き、死んだように動かないセトの身体を表向ける。焦点の合わない瞳がアテムを見た。
 青睡蓮の瞳からは涙が溢れ続け、黒い目墨を滅茶苦茶にしている。それを、アテムは美しいと思った。涙と唾液、汗で汚れた顔が、彼の劣情を煽った。
 もう一度、今度は正面から、彼はセトに圧し掛かった。後ろからよりも負担は重い筈だが、散々に犯されたばかりの肉環は緩み、アテムの行為を欠片も阻まなかった。
「あ……ぅ……」
 セトの唇が震えて、意味の無い音を紡ぎ出す。濡れた青白い頬を、硬く厚い手が撫でた。
「セト」
 うっとりと、熱の篭った声でアテムが呼び掛ける。
「苦しいのか。だが、じきに慣れるものだ。善くも、な」
 押し付けられた肉の重みに、セトが喉を引き攣らせる。
 この夜、王は王宮に帰らず、宦官の何たるかを、あの時黙り込んだ官僚たちに、改めて思い知らせた。


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シバ:現エチオピアもしくはイエメン付近に存在したという説が有力な中継貿易国家。プントと同一国とする説もあるがこの話では別国とする。