セネト・パピルス 22
2009/11/15


 翌朝を、セトは乱れに乱れた寝台の上で迎えた。痛む頭で状況を整理する。全て思い返して、セトは重い身体を起こした。
 これで良かったのだ。寝台からでも政はできる。受けたものは神の恩寵なのだから、何一つ損なわれはしない。何も、マアトに背いてなどいない。何も、何一つ!
 その時、開け放たれていた戸の外から、一人分の足音が聞こえた。王が戻ったのだろうか。振り向いたセトの目に、だが映ったのは小柄な老人だった。
「シモン様」
 彼がセトの元を訪れるのは、つい六日ほど前まで王の訪れが絶えていたのと同じように、久方振りのことであった。おずおずと近付いてくる老人に、セトは巻きを変えて裂けた衣服を取り繕う。
「何か御用でも? 今日の私は忙しい」
「いや、その……ただ、今日のことで、いや」
 老宰相は言い淀み、結局途中で口を閉じた。セトがそれに一瞥をくれる。
「どうして止めて下さいませんでしたかと、聞くことは致すまい。私とて理由が解らぬわけではありませぬ。理由を語れとは言いますまい。名高き宰相閣下とて、死後の裁きは恐ろしかりましょう。マアトを愛するケメヌの領主とて、州と民を神の怒りに曝すのは恐ろしかりましょう。そのお考えを口に出し神の耳に入れるのは恐ろしかりましょう。ですが」
 セトは再び老爺に目をやった。老人の顔は地を向き、全身が、石に打たれた人のごとく項垂れていた。
「貴方様の心臓の重さは、貴方様こそが知っていると、私は覚えておきましょうぞ」
 呪いのようなセトの言葉に、シモン・ムーラン・ジェフウティは押し黙り、そして頷いた。それは、老爺にとって、真実呪いとなった。
 この時以来、彼の心は常に休まらない。神は知らぬ、しかし己こそが知る不徳。神は知らぬ――だが、本当に知らぬのだろうか? 大宰相たるものの不徳を、神は本当に? 国家の政を取り仕切るものの不徳に神々の誰一人気付かぬなど、あり得るのだろうか? 大エジプトに降りかかる災いは、全てを見透かした神の怒りではないのか? その考えが絶え間無く老人を苛むのだ。
「じきファラオが戻るじゃろう。仕女を大勢引き連れて」
 呟き、老人は戸口を向いた。もはや何も話せぬと、彼は引き返すのだった。その背をセトは音も立てず見送る。
 来歴に偉大なるケメヌ公家のいと賢き知恵のもの。力強く策に長けしヌブト公家のいと貴き神の使い。二人の視線はもはや二度と交わらず、同じものを見ながらして、異なる道を歩むのみである。二人はともにそれを知り、しかし、何も追求せぬままに、この時を終えた。


「セト!」
 シモンの言った通り、王はすぐにその姿を現した。己の侍女を数多侍らせ、また普段は見ぬ顔のものまで連れ立って、それらは全てこの日の儀のために集められた女たちなのだ。この日の儀、偽りごとの婚姻のために。
「さぁ準備をしてやってくれ。民がいかにもと納得する様に作り上げてやってくれ」
 アテムのもの言いにセトが顔を顰めた。いくら偽りごとであろうとも――偽りごとであるからこそ、取りうる限りの礼は尽くすべきである。
「王よ。私のことはもう構いませぬが……一国の預かり手たるお方が率先してマアトを粗末になさるのはいかがなものか。王の不徳は国家の不徳も同じ。もう少し言い様というものがありましょう」
「言い様で誤魔化したところで内実は変わらないだろう。それに我が言葉は神の言葉だ。不徳も何もあるものか」
 ホルの化身、ウシルの生ける姿、ラァの息子。王が神であることを表すそれらの呼び名は、セトとて知らぬわけが無い。知るからこそ現状を受け入れているのだ。だが、王の傲慢はそれらの称号に許される範囲を超えていた。
「生けるウシルたる王よ。確かに、貴方様の言葉は裁かれぬ。その行為が他の神々の怒りに触れることも無い。しかし、古き神々の時代、何が起きたかお忘れになっては困りますぞ。マアト無き世を嫌い、女神マアトがどうしたのかを」
 アテムが肩を竦め分かった分かったとセトの神官らしい説教を遮る。まるでシモンのようだと付けたし、それはセトを少しばかり平静から遠ざけたが、王は無自覚のことに気付きもしなかった。
「忘れてなどいないさ。彼女は裁く代わりに黙って地上から姿を消した。そうだろう? その時マアトをうんざりさせたのは我が神ではなくお前の族神だったがな」
「さよう、我が族の神は既にマアトに疎まれているもの。それ故、私のことはもう構いませぬ。今更我が州が背負い込む不徳の一つや二つ増えたところで、もはや何も変わりはしません」
 ヌブトの苦難など今に始まったことではない。だがその苦難を知るほどに王の迂闊さは許しがたく思えるのだ。ヌブトは、今に始まったことではない。ヌブトは。
「しかし、それを大エジプト全土に波及させるわけにはゆきませぬ」
 ケメヌ一州と菜料地ジェフウトを持つに過ぎぬ宰相でさえ、神の下にその不徳を曝け出すことを厭うたというのに。
「言葉には気を付けて下さいませ。そして私の言葉をお聞き下さいませ」
 王に対しセトのもの言いは不敬に近かった。これは一介の神官が利ける口ではない。
 一種、賭けであった。少し寵を受けたくらいで頭に乗るなと撥ね退けられるのであればこれからの日々を耐える必要も無い。石打ちでも鞭打ちでも好きにすればいいのだ。だが、そうでないのなら。
「――分かった。全くお前は手厳しい。言い換えよう、今日の日に相応しく存分にその身を飾り立てよ、とな」
 寝台からでも政はできる。セトは、その思いを心臓に潜ませ、彼の白い腕を賛美の形に掲げた。


 仕女たちはまずセトの身体を清めた。昨夜の名残りは僅かな残滓も留めず、拭い去れぬ痕は長い衣で巧妙に隠される。床で痩せ細った体躯さえ、彼女らの形作った毛皮に覆われては威厳と威圧を取り戻した。
「なかなかだな」
 アテムの言葉に女たちはその場で小さく礼をした。
「ファラオの準備なされたものものが良いのです。このように美しき毛皮、滅多とあるものでは御座いませぬ」
 次いで女は目墨の壷を取り出した。それも王の用意したものだ。壷の中を覗いて、彼女は甘い溜息を吐いた。
「なんという色でしょう。涼やかで、雅で、それでいて決して軽々しくない! これこそまことに素晴らしきもの!」
 葦のへらが孔雀石の目墨を掬い取る。緑の縁取りがセトの瞳を囲うように乗せられた。光を吸い過ぎる黒の目墨とは異なり、それがセトの瞳の色を殺すことは無い。青い瞳を緑の目墨が取り巻くその様子は、さながら水に葉を広げて咲く青睡蓮のようであった。
「――――」
「ファラオ?」
 セトが声を掛けると王は一つ瞬きをして、それから、ああ、とも、いや、ともつかぬ返事をした。
「なんでもない。――支度はそれで終わりだったか?」
 傍らの女が、あと二つ御座います、と化粧板を持ち上げた。目墨より心持ち淡い緑の粉が板の上に一摘まみほど載せられている。女は先を膨らませた筆でその山を崩し、セトの頬を一刷きした。横顔に怜悧な印象が加わる。
「最後は唇に」
 紫がかった暗紅の練り粉がセトの唇に被さった。途端、顔色の悪さがまるでわざとそのような化粧法を取ったかのように冴えて見える。
「見事な技だ。褒美は弾んでおこう」
「有り難きお言葉で御座います」
 女たちは最上位の形で賛美の礼を取り部屋を出た。入れ替わりに、男が一人入ってくる。
「輿の準備はできております。支度が終わられましたのならこちらへ」
「おう、時間もいい頃合だな。歩けるか、セト」
 差し出された手を取ってセトは立ち上がった。暫く寝台付きであった上に昨夜のことである。倒れてしまいたいほどの苦痛を、セトは気力で制した。たとえ事情を知られているのだとしても、確信を与えたくはない。第三者の目前で無様に膝を附きたくはない。この身がもうすっかり王の支配下なのだと、知らせたくはない。
 誇りだけがセトの身体を支え、重い毛皮などなんでもないかのように歩かせる。アテムは少し驚いた様子であったが、立ち上がる一瞬にだけ取って離された手を下ろすと、セトのあとを追い駆けた。セトが、或いは先触れの男が戸口を開いたのだろう。セトに追い付くよりも早く、王の耳に民の声が聞こえた。


 王座の二位の女と色白い神官との婚姻は驚愕と躊躇いがちな祝福でもって民に迎えられた。いかな宣旨があろうと、長く続いた白きものへの嫌悪を即座に捨てられるわけはない。まして、セトは白き肌に青き瞳のヌブティである。災いといわれた特質の全てを所持しているのだ。
 だが、躊躇いがちに、それでも民はこの婚姻を祝福した。王の男遊びと言われたあれも、ただ親類の婿とするに当たって密に行き来し親しくしていただけだったのだろう。そういう安堵が彼らの心を寛大にした。セトは為政者側としては厳しい存在だったが、それも賊を抑え込んだ功績があればあれで良かったのだと善良な民には理解された。
 セトとマナ、二人の輿が並んで動く。セトは顔に王族の微笑みを貼り付かせ民の上に視線を巡らせた。横ではうら若き娘が、彼女こそ王族であるにも関わらず、無邪気な笑みを零している。その笑みが作りものなのか本心に因るものなのかセトには判別が付かない。
 輿はゆっくりと民の間を通って運ばれ、終いにマナの居館へと辿り着いた。陽は既に傾いており、この婚姻が本来のものであれば、それは上出来な頃合であった。
 二人は輿を降り、揃って館の戸をくぐった。マアトに適いし婚姻をと、決まりの文句が投げ掛けられる。
 マアトに適いし婚姻を。マアトに適いし婚姻を。マアトに――。
 セトは些か乱暴に戸を閉めた。民の声が遮断される。
「あら。どうかされたんですか? そんなに慌てて閉めなくても」
「民の言葉に何も思わないのか。随分と気の強いことだ」
「セト様?」
 マナが首を傾げる。何を苛付いているのかと言わんばかりの、その、心底不思議そうな様子に、セトは胸から何ごとかせり上がる感覚に襲われた。
「民の言葉なんて、ただの決まり文句では? マアトに適いし婚姻を、でしょう? 何もおかしなところなんて……」
 決定的だ。だが、まさか。
「まさか。まさか――知らぬのか。それとも知って平然としているのか。言え、後者であると。言ってくれ」
 セトの足を支えていた気力が急速に失われ、彼はその場に崩れ落ちた。マナが床に座り込んだセトの傍へしゃがみ込む。セトは絶望的な気持ちで少女が近付いてくるのを見た。
「セト様? まだ加減がよろしくないんですか? ずっと臥せっていたと」
「知らぬのだな。知らずにここへ来たのだな。お前は何と言われてここへ来たのだ」
「さっきからいったい……何のお話です? 私はただ、婚姻の相手が決まったと」
 マナはくるりと丸い瞳を瞬かせた。愛らしい仕種がこれほどまでに虚しい時もそうないであろう。
「セト様?」
「私は……私は」
 王よ、貴方という方は! 世の噂一つ知らぬ純な娘に対しこの仕打ちか!
「この婚姻にマアトなど無い。この婚姻は遂行されない。知らぬのか」
 マナの瞳が目化粧の奥硬化した。
「それは、そんな、どういうことです? 私は何も。何も聞いてないわ。何も知らないわ。ねえセト様」
 どういうことなの。丸きり少女の口調で問うてくる彼女にセトは唇を噛んだ。
 私から言えというのか。なんと残酷な。そも、納得済みのことではなかったのか。
「ねえ! ねえ、セト様、どういうことなの!」
 叫ばれ、セトもまた叫び返した。
「私は王の宦官だ!」
 ――――。
 つかの間、二人は無言となった。マナは与えられた言葉を処理するのに心臓が追い付かないようであった。王の宦官。王の、宦官。単なる宦官ではない。王の、だ。
「嘘。嘘でしょう」
「私が今、どれだけお前の問いを肯定したいか解るか」
 相手が宦官であろうと、種無しであろうと愛し合うことはできる。けれども、己の夫が既に人の所有物だなんて! マナは朧に事情を察し、そして憤った。
「あんまりだわ。なんでこんな……そうよ、だって、最初は後宮に呼ばれるかもって聞いていたのに。ファラオの気が変わったのはどうして? 貴方の所為なのね?」
 少女から少女らしさが消え、問い詰める声は女のものでしかなくなった。それに、セトの中の乙女を憐れむ気持ちも消える。
 この時より、二人の関係は不仲となった。


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