セネト・パピルス 23
2009/11/23


 大いなる問題に突き当たった婚姻の儀は、しかし、表向きは滞りなく続けられた。翌朝セトとマナは並んで露台に立ち民の前にその婚儀の成立を知らしめたし、民も王もそれを認めた。露台から室内に戻った二人の間に交わされたのが舌打ちと溜息だけであったとしても、表向き、それは恙無く行われたのだ。
「これが政略だというのなら、いいわ、二つ国のために、今だけ我慢してあげる。けど、今だけよ。今だけなんだから!」
 マナがそう叫んでから一月足らず――。一年が終わり、暦は次の一年までの付加日へと差し掛かった。
「マナはまだ拗ねているの? もう付加日よ、もうすぐアケトの大祭もあるというのに」
 一向に機嫌を直さない妹分の居館へアイシスが尋ねるのは、殆ど日課になりつつあるものだったが、これまでのところ、訪問が何らかの実を結んだことはなかった。マナは日がな一日独り寝の寝台で掛け布に包まって侍女たちの言葉を無視していて、アイシスにも、それよりは幾らかまし程度の態度しか示さない。そしてアイシスが諦めて帰っていく。ここ一月、それが繰り返されてきた。
 けど、どうやら今日は勝手が違うようだわ。アイシスは、顔には出さず、心中で驚きを整理した。掛け布の端がちょろりと持ち上がって、そこからマナが顔を出す。
「だってアイシス様。アイシス様は何も思わないの」
 己の夫たる王のこと。後宮を広げ、ついには宦官をも囲った酷き男のこと。マナに問われ、アイシスは困ったように首を傾げた。マナから何かを問われることはここ最近ではすっかり想定外で、咄嗟には答が浮かばなかった。
「……何も思わないわけじゃあないわ。けれど、そうね、貴方が思うようには思わないわね」
 結局、謎掛けのような言葉になってしまう。こういう回りくどい言い回しで核心を避けて話すのはセトが好むやり方だ。マナはもっと明快な答を望む。
 分かっていても、すぐに思い付くのはこうなのだった。アイシスの思考は、彼女自身気付いていたが、セトに近い。マナの想いを汲み憐れむことはできても、同じ想いで嘆くことはできない。
 彼女は、一人の少女にはなれないのだ。彼女は国家の女主であり、嘆きも喜びも上下二国を中心としてある。彼女もセトと同様、タァウイと己を両皿に置けばタァウイが下へゆく秤を持っている人間なのだ。
「アイシス様の話は難しいの。セト様もそう。どうして私とアイシス様の順位が逆じゃなかったのかしら。私、きっとまだファラオとの方が楽しく話せたわ」
 マナが掛け布を放り出して寝台を降りる。ひらりと舞うように窓の前へ出た。乾期の終わりの強い光が、彼女の赤い肌を焼く。
「セト様だって、私とは口論にしかならないのにアイシス様となら普通に話すのでしょ。だったら逆が良かった」
「マナ」
 少し強い口調でアイシスは少女の名前を呼んだ。咎めるような響きに、マナの眉尻が下がる。
「滅多なことを言うものではないわ。そういう類の仮定話は良くないものよ」
「だって!」
「だってじゃありません。そろそろ拗ねるのはおやめなさい。二位とはいえ、貴方も王座の女なのだから」
 嫌よ、とマナが首を振った。彼女は、そういうところが少女だった。
「どうしてアイシス様は諦められるの? 私は、私の王座に座る人は、私を愛してなきゃ嫌よ」
 国家に対し何の責も持たぬものであれば当然の願いも、彼女たちには――彼女たちだけでなく、統治者たる王にとっても州公であるセトにとっても――酷く難しい。王は強引かつ周到に己の望みを叶えたが、それは権力だけではできぬことだ。少なくとも他に、やり遂げるだけの行動力が要る。
 マナは、それを薄っすらと理解していた。アイシスがセトに似ているように、マナはアテムに似ている。
「私は諦めないの。王座の女だって、そうしていい筈だわ」
 私だって諦めたわけでは無いのよ。アイシスの呟きに、だったらとマナが声を荒げる。
「でも、違うのよ。私は割り切ったのだわ。私が愛しているのはアテム・アメン=ヘテプであってアテム・アンジェティじゃない。そういうことよ。だから、私はアテム・アメン=ヘテプが王座の女としての私を愛してるならそれでいいのよ」
 それこそ滅多なことだから口には出さないけれども、恋愛がしたくなれば適任は王の他に幾らでもいる。属国クシュから連れてこられた逞しい身体つきの奴婢などは特にいい。彼らはタァウイ古式の宦官で、実に『安全』なものが『残って』いるのだ。
「どういう意味。アンジェティとアメン=ヘテプはどう違うの」
「どうもこうも、個人としてと、王としてと、そういう違いよ。個人として貴族の放蕩息子よろしくやるのは構わないわ。だけれど、国家の女主たるわたくしを蔑ろにしないことがその条件なの」
 マナはもう一度どういう意味と問うた。蔑ろにしないこと。既に、しているのではないの? 民の前でこそ王座の女を立てるけれども、ひとたび王宮へ入れば、歌の一つも、手ずから選んだ宝飾の一つも贈らない。それが蔑ろでないとしたら、何を蔑ろと呼ぶのだろう?
「傍女に山と子を産ませるのでも、男狂いで子に縁の無い生活を送るのでも、好きになさればいい。次代この大エジプトを受け継ぐ資格を持つ子を作ったあとならば。わたくしに、娘か息子が出来たあとならば」
 淡々と、アイシスは言い切った。王座の女の役割を蔑ろにしないこと。それはすなわち国家を傾かせないことである。
「……やっぱり、アイシス様が王座の女で正解ね。私は、そこまで国家を第一に考えられないもの。私の座席は所詮公家の椅子、それでちょうどだわ」
 言って、マナは首を振った。
「違った、公家の椅子ですらないの。セト様が土地預かりの公子から正式な公になったのは確かに私を入れたためだけど、血も、財も、伝える跡継ぎなんて生まれないんだから」
 事実だが、あまり口に出されたいようなことではない。王宮より市井に近いここでは、誰が聞き耳を立てているとも解らないのだ。貴族連中はいい。彼らの運命は王権と繋がっている。だが、民に知られては。
 なおも喋ろうとするマナを止め、そういえば、と、アイシスは強引に話を変えた。
「公家の話で思い出したけれど。シモン様がケメヌの公を降りるそうよ」
「シモン様が?」
 言い掛けていたことなど忘れたかのように、マナはその変えられた話題に喰い付いた。ケメヌの血はマナにも流れている。かの家が取り纏める族は多く、シモンのムゥ=ラン――波打つ水の形を四つ並べて、「水」という名称そのものを表す高貴な族名――とマナでは遥か遠い時代に遡らねば繋がりも無いが、それでも同じ家のこと、気にならないわけは無い。
「どうしてそんな急に。宰相職はどうされるの?」
「それは続けられるのだとか。菜料地もそのままよ。幾つか、肩書きは減らされたようだけど」
 理由は明白である。彼は己の不徳がケメヌ全領を包むのを恐れたのだ。本当は宰相位だって捨てたかっただろう。だが捨てたのちそれを受け継ぐものはいない。今、タァウイには、圧倒的に人が足りなかった。老爺が教え神域都市にやってマアトを学ばせた弟子も、先王の代より覚え目出度き若者も、この地の優秀な判事だったものも、皆、先の賊討伐の折に冥界へ下っている。
 結局、変えたつもりの話題は些かも変わっていない。表面を偽っただけの、同じ話だ。源流を同じところに持つ、同じ、話だ。
「次の公は我がベヘデトの一領地ネケンにもいらしたことがある、ヘジュ=ウル・ケメヌ様という話よ。シモン様の息子か孫かというほどの年の」
「ヘジュウル様? まさか、だってあの方既に神職じゃない。『五つの中で偉大な』を称号に持つケメヌの筆頭祭司でしょ。他州じゃどうか知らないけど、ケメヌで筆頭祭司が州の司を兼ねるなんて聞いたこと無いわ」
 慣例を破ることは、それが定められた決まりごとでなくても、タァウイ人には珍しい。
「それだけ、今は人がいないのよ」
「だったらどうして。無理に変わらなくたって、シモン様が急病で臥せられたというわけでもないのに」
 その答を、アイシスは解っている。彼女は、この遂行されなかった婚姻に前後する一連の騒動を、内情まで聞き及んでいた。国家の女主たるものは王の行いを余すところ無く知らねばならない。理想論ではあるが、アイシスはそうあるよう心掛けている。
「どうしてかしらね。解る筈よ、マナ、貴方にも」
 マナは首を横に動かした。解らないというのだ。
「アイシス様が教えてくれたらいいじゃない」
 乞われ、アイシスもまた首を横にする。
「わたくしが教えることはできません。貴方も、答が解っても口に出しては駄目」
 そういう類のことなの。一位の女は声を低くして続けた。
「よく考えて。どうして貴方とセトの婚姻は成立したのかを。成立していない婚姻を、誰が成立させたのかを。貴方たちの婚姻が成立して、得をするのはどんな人たちかを」
 一呼吸、彼女は置いた。
「己の利のために他人を陥れるのは、果たしてマアトに適うことかしらね?」
「それって、つまり――」
 王と王に仕えるものたちが、不徳を犯しているということ。マナは唇を開きかけ、閉じた。
「あまりセトばかり責めてここに閉じこもるのはおやめなさい。わたくしたちは、もっと大きな流れの中にいるのよ」
 最後にそう言い置き、アイシスはマナの部屋を庭の側へ出た。王宮、王妃宮、マナの居館、そしてセトの居館。四つの建物は隣接してあり、それぞれの庭から庭へは、容易に移ることができる。
 自分の館へ帰るのか、それとも他のどこかへ行くのか。アイシスの背を見送りながら、マナは、だったら、と一人囁いた。
 だったら。だったら、なんだと言うのか。その言葉の続きは、終ぞ舌に乗せられなかった。


 マナの館を出たアイシスは、初め己の居館へ帰ろうとし、途中でその行き先を変えた。
「セト」
 柘榴の木陰に佇んでいた人影が振り返る。御機嫌ようと形式的な挨拶をし、アイシスは彼に近付いた。
「何か用か」
「いえ、取り立てては。マナの館から戻る途中、姿が見えたものですから」
 アイシスの言葉に、セトがその細く吊り上がった眉を顰めた。だが彼女は気にした風も無い。今日は少し話をしたわと、躊躇いもせず館でのことを切り出した。
「貴方がマナを嫌っているのかしら。それとも、マナが貴方を嫌っているのかしら。割り切った関係すら築けていないようね」
「余計な世話だ。……なんの話をした?」
「わたくしたちを包む、大きなうねりの話を」
 柘榴の幹に凭れ掛かり、セトは目を伏せた。青睡蓮の瞳が瞼の下へ隠れる。
「うねり、か。時代の流れと? アメン=ヘテプの過ちを取り戻さんがための」
 王権の弱まり、肌の色で割れる国民、神殿の肥大。一つ一つ、問題が片付けられようとしている。全てセトが、或いはアイシスが、マナが、今この現状にいるからこそだ。
「わたくしは、そう思っています。今は好機。このような言い方をすると貴方には不快かもしれないけれど――。貴方がカスト・ヌブティであったのは幸運でした」
 お蔭で王が対ヌブト政策を取り下げた。ひずみが一つ、正された。
「ファラオはジェドゥのアンジェティ。私はベヘデト、貴方はヌブト。マナは、アメン=ヘテプだけれど、ケメヌの血を引いている。四公家がこの王宮域に集まっているのも幸いだわ。民の目に、諸家が対等と見えることでしょうから」
 力の差は、それが大きくなるほど、危うい。古来より、一つの家がその家だけで国を動かせるほどの力を持った時、簒奪は行われてきた。遡れば暦と文字の主が崇められたケメヌの時代――それを終わらせたアンジェティの時代もまた唐突に途切れ、神々の国にまで影響を与えたといわれるヌブト・ベヘデトの諍いが始まり――タァウイの歴史書の、人の時代が刻まれ出して程無くの頃である。それほどの昔から、今に至るまで、四公家の――いや、公家だけとは言わない。貴族たちの、州の力の差は、何度も民を不安に突き落としてきた。
 実情がどうであれ、外面は大切なのだ。人心に揺らぎが無ければ、たかが一家の貴族だけの力で、企みなど成るものではない。
「問題は、この是正と均等が、いつまで続くか、だ」
「いつまで? わたくしたちの地に両足で立つ限り、いえ、次代にもそれを引き継がせ永遠に、続けなければ」
 セトは庭の奥、早くも咲き始めたセシェンの花を見ながら、それは無理だなと小さく呟いた。
「まぁ。随分弱気ですこと。らしくもない」
「お前はいい、王座の女だ。マナもよかろう。だが、私は……言うも口惜しいが、この身を保障するは王の御心一つ。老いてなおとはいかぬだろうよ」
 美しき睡蓮の花よと、褒めるは容姿のことばかり。花など、いずれは萎びて枯れるものであるというに。
「それが気弱だというのです。貴方には、才知でもって仕えるだけの能力もあるでしょう」
 アイシスが柘榴の陰を出る。天頂からの陽が彼女の上に落ち、胸に下げた王座の形の細工が、金色の散乱光を返した。
 目映さにセトが目を細める。緑の目墨は黒いそれより光を吸わない。色の薄い瞳にその金は刺すようだった。
「そろそろ午睡の時間ね」
 言葉は、節度を持ってそこで区切られた。彼女の意向に従い、その言わんとするところをここに記すこともまたしない。ただ二人は別れ、館へと戻る道の途、セトは菜園の緑を一枚、千切って、食べた。


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ムゥ=ラン:ムゥ=水、ラン=名前を表す決定詞。ムーランがこう分解できるなら「水という名称」の意になる、というこじつけ設定。
ネケン:地名。ギリシャ語読みヒエラコンポリス、現コム・ル・アハマル。上エジプト南部、ベヘデトの北の都市。