セネト・パピルス 24
2009/12/5


 新年!
 付加日が終われば新しい年が訪れる。そして待ち望まれた増水期アケトが始まるのだ。ナイルの河神ハピが、上つ国第一州タ・セティ――タァウイと異国の南の境――の州都アブゥから、恵みの水とともに北下してくる。
「本年のアケトは実に良き高さで御座います。どうか、河神ハピに、その働きに見合う褒美をお与え下さいますよう」
 ナイルに浮かべられた船の上で、アテム・アメン=ヘテプは浅黒い肌の神官が朗々と伝える報告を聞いた。南方の血が濃いと見える彼は、アブゥの瀑流神殿で水源の神ケネムウとその陪神シェテト、アンケトに仕えるものである。ナイルの源と信じられているかの地では、この時期、神殿において増水量を測る水位計が稼動するのだが、彼が言った高さとはその水位のことだった。
 良き高さ。それは、ハピのもたらす増水がタァウイに充分な水と黒土を与え、それでいて一つの町も水底に沈めないことを指す。ゆっくりと増える水が耕作地や沼地に泥を運び、乾期の間に渇き、痩せた土地を潤わすのだ。人々は高台の町からそれを眺める。
「うむ。わざわざアブゥよりご苦労であった。――さて、聞いたか皆! 今年のアケトは良き高さであるぞ!」
 河べりに向かい若き王は声を張り上げた。歓声がそれに答える。
 さよう、彼がいるのはアケトの大祭の只中であった。この日、ハピが良き働きをするようであればその褒美を、水量の調節を怠けているようであれば機嫌取りの供物を、ナイルの水中に捧げるのだ。
 アテムの許へ麦の穂を束ね形作った乙女の人形が運ばれる。通称ハピの妻、古き時代には生身の乙女を投げたとも聞くが、これこそがかの神への捧げものであった。
「ハピよ受け取れ! そなたの妻だぞ!」
 掛け声とともにナイルへ放り出された乙女は、暫く水面を漂いながら流れ、それから静かに沈みいった。
 ハピが妻を迎えるともう儀式は終わりである。大祭と呼ばれるに相応しく、民や神官、無論のこと王侯貴族からも、浮かれた気配が起こってくる。
「祭りだ! 良き高さを祝って!」
「酒だ、酒を持ってこい! ベデト麦の酒で乾杯だ!」
 陸はあっという間に賑わって、それに苦笑しつつアテムは儀式用の小船から控えの船へ乗り移った。
「さあ、さっさと戻るぞ。こっちも王宮で宴席だ」
 アテムが船の守りをしていたアブゥの侯を促す。彼は両手を天に掲げ、すぐさま、そのようにした。


 宴の初めには、参加者全員に小さな花束が配られた。これは、タァウイにおいて宴でなされるべき第一のことである。彼らは、何と言うか、国民性として飲み過ぎる人が多いのだが、いよいよ具合が悪くなった時には花の香りで気を紛らわすのだ。
「青睡蓮か」
 受け取って、セトは小さく溜息を吐いた。
 美しい花だ。九つの国に比類無しといわれる、最も美しい花だ。王宮の宴には相応しかろう。だが、自分がそれに喩えられているとなると、王の選択に対し羞恥が勝る。
 まるで、見世物ではないか。集まるのは仮にも貴族として教育を受けた面々、表立って場を荒げるような態度の無礼ものこそいないが。時折好奇心を隠し切れぬ視線が自分を向くことに、セトはうんざりとせざるを得ない。
 噂とは広まりやすいもの。今や、王宮へ出入りする殆ど全ての貴族が、あの婚姻の真相を知っているのだ。否、貴族にあらぬものでさえ。
「なんだセト、浮かない顔だな」
 傍らの王が、麦酒の杯を差し出した。対面ではアイシスとマナが珍かな白葡萄酒に手を出している。四人は、極近くに座っていて、それが余計に視線を集めているのだった。
「ああ、お前もあちらの方がいいか?」
 セトが彼女らを見遣った意味を取り違えたものか、アテムが麦酒の杯を横に置く。そのまま、彼は身体ごと妃たちを振り返った。
「おい、こっちにも一杯注いでくれ」
「あら。ファラオは麦酒がお好きなのではありませんでしたかしら?」
 アイシスが意地悪く笑う。彼女らが葡萄酒の栓を開けた時、アテムはそう言って杯を断ったのだ。解っているのだろうに、たった一杯断ったくらいで根に持つなと王は苦笑した。
「自分で飲むんじゃない、セトの分だ」
 だと思いました。少しだけ肩を竦めて、アイシスが侍女に杯を用意させる。二、三の遣り取りのあと、アテムはそれを受け取った。
「ファラオがそんな召使みたいなこと……」
 唐突に、批判の声が上がった。皆、目を丸くして声の主を見る。
 批判。老宰相やセトがやるような説教ではない。王をなじったのは、もっと、感情に満ちた声だった。
「驚いたぞ。マナ、お前がそう固いことを言うなんて」
「なんです、私だってそれくらいのこと考えます」
 宴の時くらい大目に見ろと言って、アテムは批判されたその召使のごとき振る舞いを続行した。透明の酒が七分ほど注がれた銀杯をセトの前にやる。だが、差し出されたそれをセトは受けなかった。
「水を差された杯など結構」
 それに、とセトが辺りを見回す。口実を得たりとばかりに彼は続けた。
「このような場はまだ疲れる。部屋に戻らせていただきますぞ」
「な、おい、待て。セト。戻ると言うのなら」
 慌てたのはファラオである。引き止めようとして胡坐を崩し、セトに続き立ち上がろうとした、その時。
「急使!」
 批判の声よりもなお唐突だった。門兵が、全身汗尽くで今にも倒れそうな男に肩を貸し、宴席へ飛び込んできた。
「急使、ペルソプドゥからの急使! ファラオに御目通り願い奉る!」
 ただならぬ様子にセトは去ることをやめ、王も居住まいを正した。急使。このような時期に、増水に関わるわけでもない町からいったいなんの使いが? 貴族達も皆、盃を置いて静まり返る。使者は門兵に連れられてアテムの前まで来ると、ほうほうの体ながらどうにか一人で膝を附いた。
「急使とは、何があった? ペルソプドゥといえば先ごろ下つ国第八州ワエムフイアブから割譲された、北東新州の町だったな」
「は――、アメン=ヘテプの陛下に置かれましては、その父君の――」
 ぜえ、と使者が息を切らす。彼のために水が汲まれ、そして一息に飲み干された。
「御託はいい。それだけ急いで来たからには大事なんだろう。手短に、用件を話せ」
「はい――はい、陛下。我が主ペルソプドゥ侯の使いで御座います。ゲジェメトが、侯の領土の東端ゲジェメドが、北の蛮族どもに――」
「北? 北というとメチェン――いや、ケタか?」
「ケタで御座います陛下。援軍を、国家の軍を、それを望みに参りました。ケタの鉄器隊によってゲジェメドは既に制圧され――。頼み申します陛下。このままでは、州都ペルソプドゥも――!」
 ケタの鉄器隊だと? それがゲジェメドを超えた? これは小競り合いでは済まないのではないか?
 急速に、場は落ち着きを無くした。タァウイとケタはこれまで何度も交戦を繰り返している。その勢力範囲は隣接し、国力もまた拮抗し、今は各々が属国を緩衝材になんとか平穏を保っていた筈であるが――
「先の賊の件でこちらが疲弊状態にあると見たものでしょう」
 セトが王の方を向く。いつの間にやら、老宰相が近くへやってきていたが、彼は構わず続けた。
「いかがなさいます。ゲジェメドは紅海への要地。これを失わば外海への道は我がヌブトの涸れ谷のみとなりかねませんぞ」
 うむ、とアテムは重々しく頷いた。衆人が、彼の口の動きに注目する。
「そうだな……幸いにも今は年の初めアケトの季節だ。播種期にも収穫期にもあらず、兵を募るのは容易だが」
「しかしファラオ。さすれば王都の護りは」
「私の私兵が用を成しましょう。我が兵は先の折の損害も少なく、万一のことがあろうとも、引き返す軍を待つ間程度、持ち堪えるには充分です」
 シモンの忠言に、答えたのは王でなくセトであった。それに、シモンが僅かばかり鼻白む。
「お集まりの方々にも、各々領地に帰り出し得る限りの兵を用意して頂けるものと思いますが」
 アケトの大祭のため来ていたアブゥの侯や、近隣に土地を持つ貴族たちに、セトが念を押した。口調こそ慇懃だがヌブトが復権を果たした以上この場においてセトの位は大宰相に次ぐものである。侯、そして伯らは、上つ国第五州の公に御意の礼を取った。
「うむ。――うむ、それが良かろうな。なれば準備を。領地へ戻るものは領地へ、急ぎ出発せよ」
 王の言葉はただちに行われなければならない。宴は、まだ誰にも酔いが回らぬ内に終わりとなった。


「もう五日だというのに、慌しいですこと」
 第一陣が王とともにウアセトを出たのは、その日の午後の内だった。増え始めたナイルの流れに乗って、船は間も無くペルソプドゥまで辿り着くだろう。城下には広く募兵の布告がなされ、農閑期を持て余したものたちが、引き続いて、間髪を入れず、北へ送られてもいる。その様子を片目に、誰へともなくアイシスは語り掛けた。彼女の庭から船着き場は、見えるが、遠い。
「本当に慌しい。あれから、皆がケタのことに掛り切りだわ。シモン様でさえ内政を放り出して」
「今なら」
 独り言で終わる筈だった言葉が拾われた。驚き振り返った彼女にセトが歩み寄る。
「我々が手を組みさえすれば、王都を手中に収められるかもしれんな」
 どうだ、試してみるか。誘いにアイシスは首を振った。無論、横に、だ。
「貴方が冗談を言うと冗談に聞こえなくてよ」
「冗談と思うか?」
「冗談でないのなら、二月は前に実行すべきでしたわね」
 セトは無愛想に鼻を鳴らした。言い返す科白を持たないのだ。元より本気で国家転覆を目論んでいたのではないが、すげなく断られて決まり悪くもある。
「いかに相手がケタの鉄器隊といえ、季節はこちらに有利。そう長引きはしないでしょう」
 断ったことの理由付けのつもりか、アイシスはその楽観的な所見を告げた。企みなどする暇も無く、王も正規軍もウアセトへ帰ってくる。しかし、セトはそれに否定的だった。
「ゲジェメドを取り戻し現状を維持するだけならば、確かに長引きはすまい。だがそれで良いわけが無い。北東のジャヒやフェニクへの影響力を回復しなければ脅威は去らん。レネメンとの交易とて不可能なままだ」
 かつてタァウイのものであり今は失われた属国の名をセトが挙げる。本土へ迫る他国の脅威と交易地の損失は、いまだ民の内に燻る不満の一つなのだ。放置すれば先の反乱を再現する事態にもなりかねない。
「けれど、あまり続けるのもことです。外政にばかり構っていては、今度は国内が荒れてしまう」
 アイシスもそう言い返す。二人は、互いに異なる危惧を抱いていた。同じようにタァウイの先を案じながら、その思いは僅かに違う。
 似て非なる二人だった。恐らくはタァウイの国に関してのことに限らず。
「貴方にしてみればファラオの不在は即ち平穏なのでしょうけど」
 王座においてその妻である女が言った。セトの眉間に皺が寄る。彼らは、立場さえもが似通い、そして異なっていた。それぞれ別のわけによって妥協したものたち。王への想いもまた、近くて遠い。
「わたくしは、早く帰ってきていただかないと困るわ。遠征中に万が一のことがあって御覧なさい。王位の話でどれだけ揉めることか」
 見掛け上、王位はセトに移るのが順当である。だが、王家の血は女によってのみ伝えられるという定めがあるように、国家の政は男によってのみ継がれるものと決まっているのだ。宦官という男とも女とも区別される性のものに、即位が認められるかどうか。
「下手をすればわたくしは夫を選び直しでしてよ」
「……私とて、ファラオに大事あれと思って長引かせよと言ったのではないが……」
「あら。それは」
 アイシスは、一拍置いて、意外ですわねと続けた。
「まぁ、貴方にも思うところがあるのでしょうね。ファラオも多少は報われていて? それとも、別の何かかしら」
「我が族の復権と国家の安泰の他、何を思えと? 自ら表に立つことのできぬ今となっては」
 王位のみにあらず、宦官という立場のものに開かれた道はあまりに少ない。セトの言葉はそれ故真実味があった。アイシスは小さく息を吐くと、戯れと判るような形に、賛美の腕を差し掲げた。
「そうでした、貴方はそういう人でした。ご立派なヌブト公様。ファラオが聞いたら泣きますわね」


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アブゥ:地名。ギリシャ語読みエレファンティネ、現アスワン。上エジプト南端(エジプト本土南端)の都市。
ベデト麦の酒:ビール。ただし現代と異なり炭酸が入っていない。
ペルソプドゥ:地名。別称ペルセペド、現サフト・エル・ヘンナ。下エジプト扇形部北東の都市。
ゲジェメト:地名。ヘブライ語読みゴセン、現ゾアン付近(推定)。下エジプト扇形部東端付近と思われる町。
ジャヒ:エジプト北東、現シリア・パレスティナ付近のこと。
レネメン:エジプト北東、現レバノン付近のこと。